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それが、人間

2025.12.22 公開 ポスト

川に流すという病

300個のシイタケ、300着の衣服、2000本の乾電池―「責任」を川に流す日本人インベカヲリ★(写真家、ノンフィクション作家)

川に流すという病

 

2025年10月、神戸市垂水区の福田川で大量のシイタケが流れてきているのが見つかり騒ぎとなったらしい。神戸新聞によると、「おびただしいシイタケ」が水面に浮かび、周辺住民の間では、1か月ほど前から話題になっていたとか。直径10㎝ほどもある立派な生シイタケで、住民のひとりは、「下流に流れていったものを含めたら、200個、300個あったのでは」と証言しているという。
地元では理由がわからず気味悪がられているというが、大方どこかのシイタケ好きが原木栽培を試みたところ、シイタケにびっしりついたキノコバエの幼虫が気持ち悪すぎて原木ごと川にブン投げたらシイタケだけ外れて下流に流れていった、というのが現実的なところではなかろうか。

不法投棄がシイタケというのも珍しいが、そもそも川というのは何かと物が捨てられる場所として選ばれるものだ。

2024年には、広島県廿日市市の山中にある川で、300着以上の衣服が捨てられているのが確認される事案もあった。Tシャツやズボン、子ども服、学校名の入った体操服に加え、新品の衣服も含まれていたという。いずれも橋の上から投げ捨てられたとみられ、発見当時は、大量の衣服が水面に浮かぶ異様な光景が広がっていたそうだ。
『桃太郎』に登場するおばあさんは、川で洗濯をしていたことで有名だが、さすがに現代人が川で300着を手洗いしている最中だったとは考えにくい。衣服の持ち主は未だ見つかっておらず、真相は不明のままだ。
不法投棄は犯罪にせよ、なぜ衣服なのか、なぜ川に流すのか、もしも犯人が見つかったら聞きたいことだらけである。

2022年には、京都府内の用水路に大量の乾電池を捨てたとして、廃棄物処理法違反の容疑で23歳のアルバイトの男が逮捕された。現場からは、100本以上の乾電池が入ったペットボトルが、計20本以上見つかったという。
男は、「用水路に捨てれば流れていくと思った」と供述しているようだが、100本もの乾電池の詰まった重いペットボトルが、どうやって用水路を流れていくというのか。むしろ水の流れをせき止めるほうに作用するのではないか。
そもそも、そこまで頻繁に乾電池を使うなら、エネループのほうが良かったのではないのか。ヨドバシカメラの店員なら、間違いなく「あ、電池たくさんお使いになります? それなら充電池のほうがコスパいいですよ」と、話を広げてくるはずだ。それとも電気が止められて、乾電池しか使えない生活だったのだろうか。

いずれにせよ、男は乾電池の捨て方がわからず困っていたようだが、これはゴミ捨てのルールの複雑化とも無関係ではないだろう。京都府の事情は分からないが、少なくとも東京都では、ゴミの分別が難しすぎるあまり、「調べてから捨てよう」と思っているうちに部屋がゴミで埋まっていくゴミ処理難民が珍しくない。現代は、完璧義者がゴミ屋敷をつくり、ポンコツ野郎が不法投棄をする時代なのだ。

この現象を後押しするように、資本主義社会はひたすらゴミを生みだし続けている。大量生産&大量消費、買ったらすぐにゴミになるようなものを売ることこそ、もっとも優れた経済モデルなのだ。にもかかわらず、「捨てるのは大変」という矛盾が起きている。こうして人々は、キャパオーバーになって全部を川に流すのだろう。
実際、「川」といえば不法投棄のイメージが根強い。冷蔵庫やテレビ、洗濯機にタイヤなど、不用品と川はもやはセットですらある。粗大ゴミが有料化されて以降、その結びつきはいっそう強まったのかもしれない。

では、なぜ「川」なのか。処分に困ると、人はなぜ水に流そうとするのか。
答えは言葉の中にある。「水に流す」とは、「過去のいざこざをなかったことにする」という意味のことわざだ。その言葉通り、人は目の前から消えて欲しい問題を、川に捨てることで解決したことにしてしまう。

戦後しばらくまでは、犬猫が生まれると、みかん箱に入れて川に流すという習慣もあった。自分で殺す覚悟はないが、どこか遠くの地で運よく陸にたどり着き、自分のあずかり知らないところで生きのびてくれることを勝手に願っていたのかもしれない。運がなければ死ぬ。当時の人々もまた、そんな過酷な生活を送っていたのだろう。

一方、海外はどうか。
1930年前後のアメリカでは、トイレに流したペットのワニが、下水道で巨大化しているという都市伝説があったらしい。1980年には、その巨大ワニが人を襲うというパニック映画『アリゲーター』が公開され、大ヒットしている。
だが、こうして並べてみると、同じ「水に流す」でも、アメリカは大味だ。なんというか、美しくない。

いや、逆だ。むしろ我々東洋人のほうが、川に流すと「なんだか美しく感じてしまう」という病に憑りつけれているのだろう。
実際、各地の伝統行事を見渡しても、何かといえば川に流す。
お盆に帰ってきた死者の魂を送り出す「灯籠流し」。穢れや災いを人形に移し、川に流すことで厄を祓う「流し雛」。願いごとを書いた短冊を笹につけて川に流す「笹流し」。
仏教には「三途の川」という観念もあるように、川に流せば、勝手にあの世とつながり、神秘の世界へいざなわれるのだ。そんな幻想が、心の奥深くに根を張っているのだろう。
私たちは、川に捨てさえすれば浄化されるとあまりにも信じすぎている。

「火をつけて燃やす」「土に埋める」、そうした方法もあるだろう。だが、その場合、燃えかすは自分の足元に残る。始末した際の手の感触も残る。気配をずっと感じ続けなければならない。
それに比べると、川に流すという行為は、結末を見ずに済むし、どこから来たのかもわからなくなるし、ほかの誰かが後始末をしてくれるはずだと期待することもできる。
つまり人は、ゴミを流しているのではなく、「責任」を川に流しているのだ。

責任といえば、2015年、三重県が捕獲したツキノワグマを、隣県である滋賀県の山中に無断で放していたことが発覚し、滋賀県が激怒したことも記憶に新しい。
ツキノワグマは地域によって絶滅危惧種に指定されており、捕獲されても放獣することがあるという。とはいえ人を襲うこともあるクマだ。人里に下りてくる危険なクマなど、極力近くにいてほしくない。三重県からしたら、「だったら滋賀県の山奥に逃がしてしまえばいい」と考え、これで一件落着と思ったのかもしれない。見えないところで捨てればヨシと思っている点では、行政も不法投棄民と同じである。
隣県に逃がすのではなく、いっそクマも川に流してしまえば、三重県もきれいに責任逃れできただろう。そう考えると、川というのは、実に万能な装置である。

そこに川がある限り、人々は願いを込めて何かを流し続ける。
美しい川を守るためにも、せめて不法投棄はシイタケくらいにとどめてほしいものだ。

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写真家・ノンフィクション作家のインベカヲリ★さんの新連載『それが、人間』がスタートします。大小様々なニュースや身近な出来事、現象から、「なぜ」を考察。

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インベカヲリ★ 写真家、ノンフィクション作家

写真集『やっぱ月帰るわ、私。』『理想の猫じゃない』『ふあふあの隙間』。著書『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』『私の顔は誰も知らない』『伴走者は落ち着けない』『未整理な人類』など。

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