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魔法律学校の麗人執事

2025.12.25 公開 ポスト

#1 初出勤日。男装をして向かった先は森の中に佇む城だった。新川帆立

『このミス』大賞(『元彼の遺言状』)、山本周五郎賞(『女の国会』)受賞作家・新川帆立の最新作は、恋と魔法の学園ファンタジー『魔法律学校の麗人執事』!

12月24日『魔法律学校の麗人執事3 シーサイド・アドベンチャー』の発売を記念して、試し読みを全12回でお届けいたします。

*   *   *

第一章    入学

1 椿

 

 よく晴れた春の朝だった。

 手には一枚の紙が握られている。両端を引っ張ってもちぎれない。水をかけても濡れない。不思議な紙だった。まるで薄いゴムでできているみたい。

 

雇用契約書

野々宮 椿(以下「甲」という。)と、条崎 マリス(以下「乙」という。)は、以下の通り、雇用契約(以下「本契約」という。)を締結する。

第一条 甲は、乙の命令に従う。

第二条 乙は、甲の生命の安全を保障する。

 

 私のご主人様は、マリスという人らしい。

 条ヶ崎マリス。

 名前からは、どんな人なのかまったく想像がつかなかった。意地悪な人じゃないといいけど、と思う。使用人を怒鳴りつけたり、暴力を振るったり、理不尽な要求をしたり、その他色々、問題のあるご主人様だったらどうしよう。

 男の人に怒鳴られたって、普段はちっとも怖くなかった。理不尽なことには言い返すし、殴られたら殴り返す。怖いものなんて、別にありやしない。

 だけど、ご主人様と執事という関係だと、どうだろう。言い返すわけにもいかないし、殴り返すなんてもってのほかだ。何があっても自分を抑えて、我慢しないと。何度も自分に言い聞かせるように、胸のうちで唱えた。一に我慢、二に我慢、三四がなくて、五も我慢だ。

 念のためもう一度、身だしなみを確認した。新品の学園の制服を着ていた。

 女子はワンピースタイプで、男子は海軍士官っぽい詰襟タイプだ。

 私が着ているのはもちろん――男子用である。

 胸にはさらしを巻いてきたから目立たないはずだ。触れば身体のラインや柔らかさで違和感を抱くかもしれない。けれども見た目だけなら、どこからどう見ても、男だ。

 ――マリスは、潔癖なところがある。君が女性だと知ったら雇用契約を打ち切ると思う。バレないように頑張るんだよ。

 クリスマスの夜、隅田川脇で出会ったおじさんは、去り際にそう付け加えた。

 女だとバレずに暮らせるだろうか――。

 ポケットから、銀色に輝くリップスティックを取り出して、朝陽にかかげて見る。細かく彫り込まれた花模様に光が反射して、宝石みたいだ。昨晩、早緒莉がくれた。

 物心ついたころから修道院で一緒に寝起きして、早緒莉とは姉妹同然に育った。別れて暮らすのは確かに寂しい。だけど私が頑張らないと、彼女の居場所も、他の子たちの居場所もなくなってしまう。もう後戻りはできなかった。

 リップスティックを大切にしまった。

 深呼吸してから、

「出勤」

 と唱えた。

 その瞬間、世界が歪んだ。

 胃を持ちあげられて、ぐいっとねじられるような不快感があった。吐き気が込みあげる。何も見えない真っ暗なところを何回転もしたかと思うと、急に地面に放り出された。

「痛ったあ」

 受け身をとる余裕もなく、まともに地面に当たった。左肩が痛い。かばいながら身を起こすと、うっそうとした森の中だった。

 周囲を見渡す。三方は木々に囲まれ、一方だけ開けていた。

 見あげるほど高い門扉があった。その先には――「お城だ!」

 ヨーロッパの山奥にそそり立っていそうな、それは立派な城だった。

 レンガづくりの外壁には白い石灰岩が均一にかぶせられ、青藍色の屋根からは、ロマネスク調の円塔が三つも四つも飛び出して、空を突いている。

 門扉の脇には銅像が立っていた。怖い顔をした男が両手両足をついて、しゃがむような格好をしている。肩からは大きな羽が生えていた。

 地面に転がった鞄を肩にかけた。重みがずしりとくる。大きい荷物は学園に別送してあるというのに、それでも鞄はパンパンだった。心配性のせいか、ついつい荷物が増えてしまう。ハンカチ、ティッシュ、ハンドクリーム、絆創膏、お腹が減ったとき用の飴……魔法の学校に入るのに、生活感いっぱいの荷物を抱えている自分が恥ずかしい。

「失礼します」

 門扉に手をかけると、力を入れなくてもスッと開いた。

 左右対称に整えられた前庭には、美しいバラが咲き誇っていた。

「うっわあ、すっごい。お金持ちどころの話じゃない。王様の住むところみたい。こんなお家の執事になるの?」

 戸惑いながらも胸が高鳴った。

 中央の石畳の道を歩いていく。まるで夢の国にいるようだった。甘いバラの香りに全身が包まれた。遠くからハープの音がする。

 前庭を仕切る白い柵はロココ調に統一されていた。屋敷の中の調度も素敵に違いない。きっと、レースのカーテンを引いて朝陽を浴び、リネンのシーツにアイロンをかけるんだ。毎日パンを焼くのもいいかもしれない。かごに焼きたてのパンを入れて、森でピクニックができる。たっぷりのバターとミルク、お砂糖……紅茶も用意しなきゃ。ケーキも焼こう。シフォンケーキ? レモンケーキ? 季節のフルーツを使ったタルトもいいな。ご主人様の好みはどうだろう。考えるだけで楽しくなってきた。

 ご主人様の要望に応えられるだろうか。これまで作ったことのないような高級料理を望まれるかもしれない。かすかな不安が胸をよぎった。私が作れるのは家庭的なものばかりだ。

 深呼吸して、エントランスポーチの階段をあがった。使用人用の通用口から入るべきかとも思ったが、初めて訪ねるお宅なら、裏手から入るのはかえって失礼にあたる気がした。

 磨きあげられた石段をのぼり、細工の美しい大理石のエントランスにそっと足をのせた。鞄を脇において大きな扉を叩く。

「ごめんください」

 一瞬の間があってから、内側からギイッと開いた。

 中を一目見て、私は立ち尽くした。

 両脇に使用人がずらりと並んでいる。五人や十人じゃない。両脇に二十人くらいずつ、お仕着せの制服を着た人が、恭しく頭をさげていた。

「本日より執事として働くことになりました、野々宮椿です」

 使用人たちが一斉に顔をあげた。怪訝そうな表情を浮かべ、互いに視線を交わしている。中には不躾な目でこちらを見る者もいた。

 手前に立っていた老齢の男が言った。

「失礼ですが、新しい執事がいらっしゃるなんて、初耳です。あなたは先ほど、野々宮様とおっしゃいましたが――」

「へーえ、お前が噂の」どこからともなく、男の声がした。

 どこまでも清冷で、耳に入った途端、胸のうちに深く落ちていくような声だった。

 使用人たちが一斉に振り返り、正面階段を見あげた。私もつられて目を動かした。

 階段の上の手すりから身を乗り出すように、一人の青年がこちらを見ていた。

 あっ、と思った瞬間には、青年の姿は消えていた。

「こっちだ」

 急に右横から声がかかった。心臓が跳びあがりそうだった。

 白いシャツと黒いスラックスを着た青年が、すぐ横で、あでやかな笑みを浮かべていた。

*   *   *

この続きは書籍『魔法律学校の麗人執事1 ウェルカム・トゥー・マジックローアカデミー』でお楽しみください。

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新川帆立

1991年生まれ。米テキサス州ダラス出身、宮崎県宮崎市育ち。東京大学法学部卒業後、弁護士として勤務。第19回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞し、2021年に『元彼の遺言状』でデビュー。他の著書に『先祖探偵』『令和その他のレイワにおける健全な反逆に関する架空六法』『縁切り上等!』『ひまわり』『目には目を』などがある。『女の国会』で第38回山本周五郎賞受賞。

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