虚構老人

少子高齢化が問題視されて久しいが、そもそも地球上には人間が多すぎるという問題がある。日本列島ひとつとっても、国産の食料だけでは足りず、輸入品に頼っているのだ。土地の規模に見合った人口を考えれば、おのずと減っていくのが自然の摂理ではないか。というわけで私は少子化賛成派なのだが、問題は高齢化の方であろう。
栄養状態のいい我々は、うっかりすれば100歳まで生きてしまう。病気は治され、自殺は止められ、寿命がきても手術をされる。
文明化された社会において、「死」は悪なのだ。
一方、人間は、自分が年を取っているなどとは夢にも思わないものだ。60歳を過ぎた人たちに話を聞くと、だいたい皆「そんな実感ない」と言う。確かに、基本的な価値観などは、高校生ぐらいからそう大きくは変わらない。
以前、某雑誌の取材を受けた際、還暦過ぎと思われる男性編集者が「年を取った実感がないんだよね」と言い、隣にいる30代の女性ライターを指し「彼女のほうが年上に感じる」と真顔で述べていた。それを聞いて、私は心底恐ろしくなった。中身は若者のまま、外側だけ老いていくなんて、想像しただけで地獄だ。
だが、そもそも私だって、大人になったからといって、「大人」になったわけではない。今でもオバケがいちばん怖いし、道で100円拾えば嬉しいし、好きな食べ物はハンバーグとエビフライだ。
「投資の神様」と呼ばれるウォーレン・バフェットさんは、95歳にして「私の味覚は5歳で止まっている」と豪語し、ハンバーガーとコカ・コーラ、アイスクリームにポップコーンばかり食べている。日本食は嫌いで、その理由を「食べたことがないから」とのたまう徹底っぷりだ。彼が老人らしいのは、その外見だけだろう。
我々は、皮膚や体型の変化などによって「時間が進む」という感覚を得ているが、本当は前になど進んでいないのかもしれない。
「老人」という概念は、社会が都合よく作り上げた虚構に過ぎないのだ。
私の家の近所に、庭つき一軒家で一人暮らしをしているお爺さんがいる。彼はいつも庭先に座り、道行く人を眺めている。その姿がまた見事に老人らしい。オール白髪に、毛玉のついた上下スウェット、ぼんやりした目に、すぼんだ口。たまに立ち上がれば、ヨボヨボという効果音が聞こえてきそうなほど頼りなく、ただしゃがんでいるだけなのに、「大丈夫ですか?」と声をかける人が後を絶たない。
私は彼を、「プロ老人」と呼んでいる。
これほどまでに「老人らしい老人」をやり続けることは、意識的な努力が必要不可欠なはずだ。通りすがりの人々に「老人がいる」ことを認知させる活動は、ある種の社会貢献と言ってもいい。
「男女で寿命が違いすぎる問題」というのもある。
当連載の女性編集者は、89歳の母がご健在とのこと。実家のある団地では、親世代が一斉に子育てを終え、夫たちが次々と亡くなり、女だけが残っているという。その長生きした女性たちのコミュニティで、定期的に旅行などを楽しんでいるらしい。
女子だけで固まって行動する姿は、女子高生となんら変わらないのではないか。
「カーブス」という女子専用のフィットネスクラブがあるという。編集者によると、この「カーブス」はほとんど老人で、会員のひとりがパタリと来なくなると、スタッフが心配して安否確認の電話までかけるそうだ。
商店街が消え、地域コミュニティも希薄になり、孤独死が社会問題として語られる現代だが、こうして形を変えて「寄りあい」は自然発生的に生まれているのだろう。
家の近所のスポーツクラブにも、元気な老人たちがよく集まっている。水泳や筋トレやダンスなど、プログラムが豊富であることも魅力だが、しょっちゅう救急車が呼ばれているのも特徴だ。近くで、ピーポーピーポーの音が聞こえて振りむくと、だいたいそのスポーツクラブの前で停まってる。スポーツも命がけだ。
私が通うカフェ・ベローチェでも、昼間は「女子会」をする老人で溢れている。テーブルをつなげて、コーヒーゼリーをほおばり、お喋りに花を咲かせているのだ。こうした行動は女性特有のもので、「男子会」は見たことがない。
彼女たちの会話を盗み聞きすると、やれ誰が結婚した、子どもができた、その子どもがどうした、という生殖の話ばかりだ。
中でも、もっとも話題に上がるのは、「息子」の話である。あるとき、「うちの息子は〇〇商事に就職したのよ」という、後期高齢者と思しき女性の声が聞こえてきたので、「ん?」と思って耳を澄ませると、すでに定年退職している息子の話だった。
時間軸が飛ぶのは、老人の特徴のようだ。
かつて住んでいたアパートの取り壊しが決まったとき、大家さんが「なかなか立ち退いてくれない人がいるのよ」と嘆いていたことがあった。その住人は、アパートの一室を倉庫がわりに使っており、息子のアルバムや、子どものころに使っていたものなどを置いているらしい。移転先を見つけるまでは、立ち退けないのだとか。
私はてっきり「早くに亡くなった息子さんの想い出の品なのかな?」と思ったが、大家さん曰く、息子は健在で「もう60のオジサンよ」とのこと。「全部ゴミでしょ」と一刀両断していた。工事も差し迫っており、その後、大家さんはストレスで倒れてしまった。
老人の過去への執着は、ときに人を殺す。
元気な年寄りならまだいい。
一番怖いのは、なんといっても認知症だ。身体は元気で、頭だけボケるほど恐ろしいことはない。
あるとき私が借りているアパートの前で、転んで怪我をしたお婆さんが「家がどこにあるか分からない」と言って道に迷っていたことがあった。近所の人が集まり、どうしたものかと困っていていると、同じアパートに住む老人が出てきて、「ハイ解散、解散」と言って手をたたき出した。
曰く、「ああやって認知症のふりをしてスリを働く老人がいるんだよ」とのこと。いや、怪我をしてるんだから本物だろ、と思ったが、彼にはフェイクに見えたらしい。
老人の敵は老人なのか。結局、警察がきて事なきを得た。
この老人はアパートの自称管理人で、私が引っ越してきた当日に、「私は管理人だからよろしく」と言いって、いきなり部屋に上がり込んできた人物だ。大家さんからは、そんな話聞いていないので、私は嘘だと思っている。
彼はよく人のポストを勝手に開けて郵便物をチェックしているが、私は長らく放任していた。あるとき、その現場をうっかり目撃してしまったら、「み~た~な~」とばかりに、恨めしそうな顔で振り返り、しれっとポストに戻していた。
その頃の私は、殺人犯と文通していて、横浜刑務所からの手紙がしょっちゅう届いていたので、いい魔除けになったかもしれない。
という話を、長野在住の女性にしたところ、「うちのマンションの老人も、勝手にポスト開けて郵便物を見てる!」と言って共感していた。ポスト監視老人は、全国に点在しているようだ。
年寄りといえば、老いた犬猫もうっかり死ねなくなってきている。「犬の介護」などという概念は、20世紀にはなかったのではないか。
人間と同様、延命治療され、闘病生活を送り、最後の一息まで見届けられる。「ペットは家族」という名のもとに、動物たちも「家族」の恐ろしさを味わわされる時代になったのだ。
動物も人も、死なない人生をダラダラ生きながらえるこの社会で、我々はいつどうやって老人になればいいのか。
老人になったら老人らしい演技を強いられるのかと思うと、怖ろしくて震え上がる。
それが、人間

写真家・ノンフィクション作家のインベカヲリ★さんの新連載『それが、人間』がスタートします。大小様々なニュースや身近な出来事、現象から、「なぜ」を考察。










