
全裸の衝動
もしも全裸の男が街を歩いていたら、誰もが走って逃げるだろう。その意味で、全裸は人々に警戒心を抱かせ、危機回避を容易にするとも言える。だが、その男が車に乗っていたら、これはもう逃げようがない。
今年4月、埼玉県さいたま市で全裸の男(48歳)が盗んだ車で暴走し、バイク2台に追突した。さらに男は、川口市内で乗客2名の乗ったタクシーを強奪して再び暴走し、ガードレールに追突。草加市内で車を乗り捨てると、全裸のまま住宅街の学習塾に侵入し、止めに入った男性講師の頭をマグカップで殴打した。
男は覚せい剤を使用していたと見られ、1時間半の間に20件もの死傷事故を起こし、無断侵入に対しては「それを言ったらまずい」と供述しているという。
この事件は、あまりにも悪質なので、これ以上のことはここでは触れない。
問題は全裸だ。
世の中には、全裸で事件を起こす人間がたびたびいる。いや、全裸そのものが「事件になる」と言うべきか。
では、人類にとって全裸とは何なのか。その意味付けは、人によっても違うようだ。
例えば2015年1月、東京都豊島区の大学で、男性非常勤講師(当時55歳)が、白昼のキャンパスで全裸になり、騒ぎとなった。
男性講師は、教え子である女子大生と交際しており、口論となった末、女性から「私に信じてほしいなら、ここで裸になって」と言われ、従ったという。脱いだ衣服は、女性が持ち去ったため、立ち尽くすしかなかった。
2人の間にどんな誤解や揉めごとがあったのかは分からない。ただ言えるのは、彼女にとって全裸には、「謝罪」「潔白の証明」「信頼の証」の意味があったということだ。しかし、野外でやらせては本末転倒である。
その後、男性講師は辞職。大学のホームページに、次のようなメッセージを残したという。
「今回、私事ではありますが、自分の大事な人を守るために行ったことが、結果としてこのような事態に至ったこと、重ねてお詫びいたします。皆さんには、自分の信頼すること、信じることを貫き通して欲しいと思います。そのとき少しの冷静さも忘れないようにして下さい」
その後、2人の関係がどうなったのかは分からない。
もっとも、こうした善意の全裸は稀である。たいていは、性的倒錯を主とした事件だ。
2008年4月には、インターネット関連会社社長の男(当時42歳)が、新富士ー静岡間を走行中の新幹線内の通路で全裸になり、逮捕された。男は過去にも何度か新幹線内で全裸になったことがあるという。
彼の場合、誰かに指示されたわけでもなく、酒や薬物による影響でもない。つまり、全裸を目的とした全裸である。
新幹線という、一度乗ったら容易に降りられない場所で全裸になるということは、見つかっても逃げられないことを意味する。自らを拘束するマゾヒズム的要素もあったのだろうか。
新幹線といえば、私は過去に「東海道新幹線無差別殺傷事件」の加害者を取材している。彼は新幹線内でナタを振りまわし、1人を死亡させ、2人に重軽傷を負わせた。現在、無期懲役で刑務所に服役している。新幹線での事件というと、私にはその事件がいやがおうにも重なってしまう。
表層に見えている姿が違うだけで、どちらも自己破壊的行動という意味では、根底に流れているものは一緒だ。
もしも、新幹線内でナタを持った無差別殺傷犯と全裸男が対峙したら──。互いに影響しあい、違う結果になったのではないか、とふと考えてしまう。
電車内での全裸事案は、ほかにもある。
今年8月には、富山県富山市を走る路面電車内で、職業不詳の男(55歳)が、おもむろにシャツのボタンを外しはじめ、全裸になり逮捕された。これにより、乗客十数人が避難。男は、駆け付けた署員によって現行犯逮捕されたが、「知らないうちに服を脱がされた」と容疑を否認している。
この2つのケースからも分かるように、全裸といえば露出狂を指すケースがほとんどだ。とはいえ、完全な「全裸」は珍しく、たいていは下半身の露出である。
今年2025年に限定してザっと調べただけでも、以下のような事例が報じられている。
6月14日、静岡県熱海市の熱海駅前「平和通り」の路上で、倉庫作業員の男(45歳)が下半身を露出して逮捕。
6月16日、静岡県伊東市のスーパーマーケットで、無職の男(66歳)が下半身を露出して逮捕。
6月26日、静岡県静岡市の路上で、工員の男(46歳)が下半身を露出して逮捕。
9月2日、静岡県静岡市で会社員の男(20代)が、車の中から女性に声をかけ下半身を露出して逮捕。
9月12日、静岡県富士市の商業施設の店舗で、会社員の男(51歳)が下半身を露出して逮捕。
9月16日、静岡県田方郡のコンビニエンスストアで、会社員の男(72歳)が下半身を露出して逮捕。
なぜか、すべてが静岡県での犯行である。静岡の新茶と何か関係があるのだろうか。
私の調べ方が悪かったのかもしれないが、Yahoo!の検索結果では静岡県の事案ばかりが上位表示されるようだ。
静岡県を不当に貶めるつもりはないので、ここで歴史上の偉人にも露出狂がいることを記しておきたい。
『社会契約論』で有名なフランスの哲学者、ジャン=ジャック・ルソーは、見知らぬ女性の前で下半身を露出することがやめられなかったと、死後に発表された自伝『告白』で述べている。
偉業をなした人物でも下半身を露出するのだから、知性とはまるで関係のないところから衝動が起きているのだろう。
旧約聖書では、アダムとイヴが「禁断の果実」を食べた瞬間、自分たちが全裸であることを恥じ、いちじくの葉で下半身を隠したとされている。しかし、隠すことでかえって下半身を露出したくなる衝動が生まれたと考えると、性的倒錯の歴史は人類の歴史と言えるのかもしれない。
痴漢や下着窃盗や盗撮など、性的倒錯のほとんどは男性にしか見られないと言われているが、唯一の例外として「露出」だけは女性にも存在する。「全裸」はその点においても特別なものがある。
もっとも女性の場合、男性から喜ばれる要素があるため、その意味合いは大きく異なる。私が十数年前に取材したある女性の露出狂者は、まさにそれをエンタメとして行っていた。
彼女によると、コンビニで全裸になるのは当たり前で、車の助手席で全裸になるのは定番の遊びだという。その際、協力者の男性が脇に控え、いつでも羽織れるよう服を持ってスタンバイしていた。あくまで目的は、男性に「びっくり! 嬉しい!」を与えることであり、子どもや女性には見せない配慮をするという独自のルールも設けていた。万が一、喜ばない男性がいた場合、たとえば厳格な老人に「はしたない!」と注意されることも多々あったようだが、そのときは素直に謝り、すごすごと服を着ていたという。
また全裸は、女性にとって「解放」を意味することもある。私が以前撮影したある女性は、犬や猫のように全裸で生活することに憧れを持っていた。近年は服を着せられた犬も多いが、彼女からすれば「かわいそう。せっかく全裸が許されるのに」という感想である。
彼女は当時、ヌードモデルの仕事をしていたが、そこで撮られるヌードには、男性目線による過剰な性的意味づけがあり、彼女が考える「全裸」とは乖離があった。そのことに悩んでいると聞いたのを覚えている。
このように、男女では全裸に対する意識に大きな差異が見られるのである。
ところで、犯罪性の強い男性の露出においては、全裸より、下半身だけを露出するほうが、逃げられる余地を残しているという点において卑怯さが際立つという印象を持ったことはないだろうか。一方の、一糸まとわぬ全裸は、当人が大きなリスクを負っており、また独特の情けなさがある点においても、どこか朗らかさを感じさせる。
「一部を見せるより、全部を見せているほうが許せる」、この感覚もまた見る側の倒錯と言っていいのかもしれない。
以上を踏まえると、全裸で殺人にまで至った冒頭の事件は、きわめて許しがたい。全裸のイメージを著しく下げる行為は、止めて欲しいものである。
それが、人間

写真家・ノンフィクション作家のインベカヲリ★さんの新連載『それが、人間』がスタートします。大小様々なニュースや身近な出来事、現象から、「なぜ」を考察。