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韓国・国家情報院

2025.08.11 公開 ポスト

「海に沈めろ」寸前で中止 金大中事件53年前の真実佐藤大介(共同通信 編集委員兼論説委員)

『シュリ』『愛の不時着』ほか韓国エンタメではおなじみの存在ながら、秘密のベールに包まれた大統領直結の情報機関・秘密警察である韓国・国家情報院。前身KCIA(韓国中央情報部)の「暗黒の歴史」のなかでも、日本で最も知られている「金大中氏拉致事件」。その衝撃の真相とは? 佐藤大介さん『韓国・国家情報院 巨大インテリジェンス組織と権力』からお届けします。

記事の最後には、ジャーナリスト青木理さんとの刊行記念トークイベントのご案内があります。

韓国民主化運動のリーダーが都内のホテルから拉致される

KCIAが関与した数々の事件の中でも、日本で広く知られ、日韓関係にも影響を及ぼしたのが、1973年8月8日に起きた金大中氏拉致事件だ。金大中氏は当時、朴正熙氏による独裁的な政権を批判していた野党指導者で、民主化運動のリーダーでもあったが、東京・九段下の「ホテルグランドパレス」22階から、突如として現れた男たちに拉致され、5日後にソウルで解放されるというショッキングな出来事だった。

前年の1972年10月17日、朴正煕氏は「大統領特別宣言」を発表し、国会の解散や政党・政治集会の中止などを決定して、韓国全土に非常戒厳令を発した。「10月維新」と呼ばれるこうした政治的な動きが起きた時、金大中氏は東京に滞在していた。これを受けて金大中氏は帰国を放棄し、維新反対声明を発表し、日本と米国を行き来しながら朴正煕政権を糾弾する、事実上の亡命生活を送っていたのだった。

こうした活動にKCIAは神経をとがらせ、日本でも監視を続けていた。東京で金大中氏は、日本での支援団体が借り上げていた高田馬場のマンションのほか、京王プラザホテル(新宿)、ホテルニューオータニ(紀尾井町)、ホテルパシフィック東京(高輪)といった高級ホテルを数日おきに転々とし、KCIAの追跡から逃れようとしていた。

事件の起きた1973年8月8日、金大中氏は宿泊先のホテルからグランドパレスに向かい、韓国の野党、民主統一党の党首(当時)、ヤン・イルドン氏の泊まっていた2212号室を訪ねた。その部屋はスイートルームで、2人はソファのある応接室で話をし、ルームサービスで食事もした。だが、KCIAの盗聴を警戒し、筆談を交えることが多かったという。

午後1時ごろ、昼食を終えた金大中氏が部屋から出た時、その事件は起こった。キム・チュンシク氏の著書『実録KCIA「南山と呼ばれた男たち」』では、その時の模様が、こう記されている。

ヤンが部屋の中から見送った。キム・ギョンイン(筆者注:韓国の国会議員で金大中氏の親戚)が、金大中について廊下をエレベーターの方へ歩いた。ロビーまで見送るためだった。2人がエレベーター側へ数歩動いた瞬間、ヤンの部屋に続いた2210号室から怪漢2人が飛び出し、向かい側の2215号室からも3人の屈強な男たちが飛び出してきた。

その5人が金大中に飛びかかり、腕と首を捕まえて2210号室に引っ張り込んだ。その部屋には、現場指揮者格の男1人がいたので、犯人は皆で6人だった。

「何をするんだ。お前たちは誰だ?」

驚いたキム・ギョンインが叫ぶやいなや、2人の男がキム・ギョンインをヤンの部屋に押し込んだ。

「騒ぐと韓国の恥になる。国際的にも困難な問題だから、ちょっとだけ我慢しろ。俺たちはソウルから来た」

金大中氏は、男たちから「静かにしろ、言うことを聞かないと殺すぞ」と脅迫されたが、その韓国語は在日韓国人の発音ではなかったと回想している。「国際的にも困難な問題」を引き起こしたのは、金大中氏の見方通り、韓国からやってきたKCIAの要員だった。

金大中氏は麻酔薬クロロホルムをかがされて意識を失った後、エレベーターで地下駐車場へ連れていかれ、車で大阪方面へと連行された。翌9日朝、大型の偽装貨物船「龍金(ヨングム)号」に乗せられ、両足に重りを付けられたといい、海に投げ込まれるのを覚悟した。

金大中氏は13日にソウルで解放されたが、その直後から「船倉で手足を縛られ、海に投げ込まれると思った時、犯人らが『飛行機だ』と叫んだ。これを機に殺害を免れた」と証言し、米国かその圧力を受けた日本の飛行機が船の上空を回って警告したため、殺害計画が実行されなかったと主張していた。

2002年に公開された日韓合作の映画『KT』(阪本順治監督)など、この事件をモデルにしたノンフィクション作品は数多く出されている。詳細についてはそれらに譲るが、事件では拉致現場から在日韓国大使館の一等書記官だったキム・ドンウン氏の指紋が見つかっている。

キム・ドンウン氏はKCIAから「外交官」として派遣された人物で、大使館内のKCIA要員をまとめていたと見られており、組織的犯行の疑いが強まり、日本では韓国に対し「主権の侵害だ」との批判が高まった。

韓国政府はキム・ドンウン氏の免職を決定、首相を務めていた金鍾泌氏が訪日して陳謝し、第1次政治決着が図られた。1975年には、キム・ドンウン氏について「容疑事実を立証するに足る確証を見出し得ず不起訴処分となった」とする口上書を韓国が提出し、日本がこれを受け入れるという第2次政治決着が図られた。

韓国政府が政府機関による犯行と認める

日韓の政府が事態の早期収拾を急ぐ中、KCIAという韓国の公権力が介在したかどうかは確認できなかったという玉虫色の結論とし、真相解明を放棄した形だった。だが、この建前が崩れたのが2007年10月、韓国政府の「過去事件の真相究明委員会」が発表した、金大中氏拉致事件に関する報告書だった。

報告書では、事件は当時のKCIA部長だったイ・フラク氏が指示し、KCIA要員24人に駐日韓国大使館の公使らを加えた計27人による組織的犯行だったとし、事件後に韓国政府が組織的に真相の隠ぺいを図ったと認定した。この事件について韓国政府が政府機関による犯行とし、関与を公式に認めたのは初めてのことだった。

(左)金大中氏 (右)朴正煕氏

さらに、朴正煕大統領の関与については「直接指示した可能性は排除できず、少なくとも暗黙の承認があったと判断できる」とし、拉致実行前に「日本の暴力団を使って金大中氏を暗殺することが検討された」とする関係者の生々しい証言があったことも、報告書には盛り込まれている。

一方で、飛行機が飛来し殺害が中止されたとする金大中氏の証言については「事実を確認できなかった」とした。また、一連の過程で「殺害のための直接的な行動はなく、拉致直前まで自主的な帰国を説得していた」とし、ホテルで拉致した時点で殺害目的はなかったと判断している。

金大中氏は発表直後の記者会見で、報告書が殺害目的と朴正熙氏の明確な指示を認定しなかったことについて「事件が朴大統領の指示で行われ、殺害目的だったことは明らかだ」と、不満を表明している。

その後、大統領となった金大中氏は2009年に他界。犯行を主導したとされたイ・フラク氏も、詳細を語ることなく同じ年にこの世を去った。事件の舞台となったホテルグランドパレスは2021年6月に閉館し、その歴史に幕を下ろしている。


*   *   *

8月29日(金)19時より、ジャーナリスト青木理さんと佐藤大介さんのトークイベント「激動の韓国と日本、日韓の未来」を開催します(リアル&オンライン)。詳細・お申し込みは幻冬舎カルチャーのページをご覧ください。

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韓国・国家情報院

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佐藤大介 共同通信 編集委員兼論説委員

1972年、北海道生まれ。明治学院大学法学部卒業後、毎日新聞社を経て2002年に共同通信社に入社。韓国・延世大学に1年間の社命留学後、09年3月から11年末までソウル特派員。帰国後、特別報道室や経済部(経済産業省担当)などを経て、16年9月から20年5月までニューデリー特派員。21年5月より編集委員兼論説委員。著書に『13億人のトイレ~下から見た経済大国インド』(角川新書)、『オーディション社会 韓国』(新潮新書)など。

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