
北九州を拠点とする凶悪な組織・工藤會対策に従事してきた、福岡県警元刑事・藪正孝氏による新書『暴力団捜査とインテリジェンス』が刊行されました。情報収集、駆け引き、交渉etc.武闘派に頭脳で迫った歴史的闘いの一端をお届けします。
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事件後も連絡を取り合う捜査員と組員
元漁協組合長射殺事件で、二審の福岡高裁は野村総裁を無罪としたが、田上会長については一審同様に有罪とした。田上会長の関与については、田上会長が平成十四年に逮捕された段階でも、その関与を疑わせる複数の供述があったが、証拠としての証明力は不十分だった。このため当時、田上会長は不起訴となっていた。
今回、一審、二審ともに、田上会長有罪の決め手となったのは、梶原氏のご長男・一郎氏のより詳細な証言に加え、梶原氏の甥である上野次郎氏(仮名)の新証言だ。
しかも、上野氏の証言は、野村総裁、田上会長が今回、元漁協組合長射殺事件で逮捕・起訴された後に得られたものだ。逆説的だが、野村総裁らが元漁協組合長射殺事件等で逮捕・起訴され社会から隔離されたからこそ、得られた証言だと言える。
次郎氏は、梶原國弘氏の甥であり、一郎氏の従兄弟だ。次郎氏の兄は田上会長と親しく交際し、兄が事故で死亡後は、次郎氏も田上会長と親交を持つようになった。また、次郎氏自身、田中組一門の藤木組に一時面倒を見てもらったことがあった。
元漁協組合長射殺事件後も、一郎氏や國弘氏の弟・上野忠義氏に対する工藤會側の不当要求は続いていたが、一郎氏らはこれを拒否し続けていた。
当時、県警は把握できていなかったが、次郎氏は伝言役となり、田上会長の要求を一郎氏に直接伝えるなどしていた。
県警も次郎氏と田上会長の親密な関係は把握しており、次郎氏は工藤會親交者、しかも密接な関係を有すると見なされていた。
次郎氏と一郎氏は、北九州市若松区の北九州市漁業協同組合の支部で理事を務めていた。
漁協幹部は、若松区沖の港湾工事に影響力を持っていた。同支部の代表理事は一郎氏で、田上会長は次郎氏を新たに同支部代表理事に就任させようとしていた。
漁協若松支部の代表理事選挙は、平成二十六年六月に実施された。その直前、同年五月に福岡県警は次郎氏を強要の疑いで逮捕し、若松警察署に留置した。同事件と別件詐欺事件で起訴された次郎氏は、代表理事選挙後の七月に保釈された。
次郎氏が勾留中だった同年五月十二日、一郎氏の息子である歯科医師が、小倉北区の駐車場で襲撃され重傷を負った。前年の平成二十五年十二月二十日には、梶原國弘氏の実弟で、一郎氏や次郎氏の叔父にあたる上野忠義氏(当時70歳)が、若松区の自宅近くで射殺されている。忠義氏は北九州市漁業協同組合の組合長だった。歯科医師事件は、野村総裁、田上会長が公判中の四事件の一つで、一審、二審とも野村総裁らの有罪を認めている。上野忠義氏の事件は、現時点未検挙だが、工藤會による組織的事件以外は考えられない。
歯科医師事件において、野村総裁、田上会長の有罪認定の重要な証拠となったのが、次郎氏の証言だった。そして、次郎氏が工藤會との決別と証言することを決意させたのが、野村総裁、田上会長の逮捕だった。
上野忠義氏が殺害された数か月後、田上会長は次郎氏を北九州市内のファミリーレストランに呼び出し、「一郎はまだわからんのか」「上野忠義があんなんなっとるのに、一郎は本当にわかっとらんのか」「俺は一郎に対して若いときによくしてもらっとるところもある。あいつには危害を加えたくないけど、俺だけの考えではもうできん。もうこれは會の方針やけの」などと話している。
そして田上会長は次郎氏に対し、これは脅しではなく、工藤會の要求に従わなければ、工藤會の方針として梶原一郎氏に危害を加える旨を、一郎氏に伝えるよう指示している。
田上会長の言わんとすることは明白だ。「俺だけの考えではもうできん。もうこれは會の方針やけの」というのは、田上会長の唯一の上位者である野村総裁の方針を意味している。
県警のその後の捜査により次の点が明らかになっている。それは、田上会長が次郎氏に指示した頃、歯科医師事件を指揮した工藤會田中組本部長・中西正雄が、工藤會の上位者から命じられ梶原一郎氏の行動確認を行うよう配下組員に指示し、組員らが行動確認を行ったことだ。
次郎氏は、田上会長の言葉を一郎氏に伝えたが、一郎氏は、「聞かなかったことにする。お互いなかったことにしよう」などと述べ、相手にしなかった。
梶原一郎氏は、この時の上野次郎氏とのやり取りを自らの携帯電話のメモに記録していた。さらに、一週間後、従兄弟で上野忠義氏の息子・上野義夫氏(仮名)にも、この話を伝え、義夫氏もこれを裏付ける供述を行っている。
公開されている野村総裁、田上会長の判決要旨を見ると、県警は、田上会長や次郎氏の携帯電話の通話明細等を押収し、次郎氏の供述の裏付けを行っているようだ。
次郎氏は、従兄弟の息子である歯科医師が襲撃され重傷を負った後に保釈となったが、保釈後、田上会長と直接会って、事件のことを質問している。
次郎氏が、「自分が若松署におったときに梶原のところの子供、やったですよね」と尋ねると、田上会長は、「一郎がわからんのやけ、お前、やるしかねえやろ息子を」などと発言し、犯行を認めている。
県警のその後の捜査により、工藤會は梶原一郎氏の行動確認を行った結果、県警が一郎氏に対し厳重な保護対策を行っていることに気付いた。そのため、一郎氏の息子で、港湾利権等には全く無関係の歯科医師をターゲットにしたことが判明している。
野村総裁・田上会長の弁護側は、次郎氏の証言の信用性を否定しようと努めたが、一審の福岡地裁は次のように判断している。
被告人両名逮捕後の取調べについて、上野次郎は、自身がかつて藤木組の預かりとなっていた時期があり、工藤會や田中組の全体像を見て知っている分これらの組織が恐ろしい組であると感じていた、被告人両名を含む工藤會組員が大勢逮捕されていっているのを知って、寂しさ半分、他方で、身内が被害を受けて、知っていることだけでも警察に言っておこうという複雑な気分であったと供述している。
また、上野は、梶原一郎との間で、平成二十七年最初頃、一郎の父梶原國弘や叔父の上野忠義の殺害を受けて、身内一丸となって手を握って力を合わせて頑張ろうという話をしたこともきっかけになって、本件に関する被告人田上との接触状況について供述するようになったとも供述している。
このように、上野次郎が、工藤會という組織の恐ろしさを感じる一方、身内が被害を受けた感情もあって、これらの複雑な心境の中で、梶原一郎との間の前記のような会話を受け、本件についての被告人両名や工藤會にとって不利益な事実に関して警察に知っていることを話すようになった経緯は自然なものとして理解できる。
よって、上野次郎の供述の出方が不自然であるとの弁護人の主張は理由がない。(令和三年八月十四日・福岡地裁判決要旨。氏名等は筆者が補足。以下同じ)
私自身は、野村総裁・田上会長らの一連の捜査には関わっていない。だが、上野次郎氏が警察に協力し、田上会長らのことを供述、更には公判で証言するに至ったのは、判決のとおりだと思う。
恐らく次郎氏は、自分の取調べを担当した捜査員と、事件後も連絡を取り合っていたはずだ。
捜査は被疑者の逮捕、起訴で終わりではない。一連の野村総裁らの事件では、事件に関与し逮捕、起訴、更には有罪が確定した多くの組員らが、自らの犯行のみか、指示を行った上位者についても供述、証言してくれている。
担当捜査員を信頼してくれた工藤會組員、事件関係者らの相当数は、事件後も協力関係を維持した。その中で工藤會からの離脱を決意し支援を受けた者も多い。
彼らが捜査、公判に協力してくれた理由の一つには、野村総裁、田上会長、菊地理事長らが逮捕、起訴され長期間社会不在が続いていることもあるだろう。
ただ、黙っていては必要な情報、証言等は得られない。野村総裁らに厳しい判決が得られたのは、継続的な情報収集の成果だと思う。
暴力団捜査とインテリジェンス

歴史的闘いの全貌全国の指定暴力団の中で、唯一、特定危険指定暴力団に指定された、北九州を拠点とする工藤會。
一般市民、事業者への襲撃を繰り返すこの凶悪な組織と対決してきた福岡県警は、「工藤會頂上作戦」で、戦術的にも戦略的にも大きな成果を収めた。
その背景には、従来イメージされてきた武闘的対決ではなく、インテリジェンスの収集、分析、それに基づく戦略的対策という試みがあった。
工藤會対策に従事した福岡県警元刑事が、これまで明かされなかった戦いの裏側と、道半ばの暴力団壊滅への思いを綴る。