
前の日からウキウキしっぱなしだった。電車で40分、たった一泊の滞在なのにクラシカルなスーツケースまで持ち出し、おろしたての白シャツを着たりして。なんたって憧れの地に赴くのである。そう、山下公園を歩くたび、気になっていた、陽ざしを受けて輝くネオンサイン。港町ヨコハマの迎賓館と言われた「HOTEL NEW GRAND」だ。

みなとみらい線の元町・中華街駅で降り山下公園通りに進むと、銀杏並木の先に半円ドーム窓を並べたアールデコ様式の建物が見えてくる。軒を飾るシグナルレッドのオーニング(日除け)はヨーロッパの街角よろしく、旅情指数がぐぐぐっとあがる。いざ。本館エントランスをくぐると、ど~ん。「ニューグランドブルー」と言われる青の絨毯が敷き詰められた階段が飛び込んでくる。これがあの有名な♡ 側面に傾斜にそって貼られたイタリアンタイルは淡い虹色に輝き、真珠貝の趣き。階段下から二階正面のエレベーターを拝む。火焔飾りつきの大時計の背後ではつづれ織りの天女たちが舞っている。高い天井からぶら下がった照明は吊り行燈を想わす。西洋でも東洋でもない、異文化が交錯するヨコハマを色濃く映した世界がそこにある。かつてマッカーサー元帥が、チャップリンが、ベーブ・ルースが、数えきれないほどの国内外のVIPたちがのぼったこの階段を……足を踏み出そうとしたが、まずはここまで。ふふっ、お愉しみはいちばん最後にとっておくタチである。



そんなわけで大理石の廊下を渡りタワー館へ。ひまわりのような笑顔でホテルマンが出迎えてくれた。手渡された真鍮のシリンダーキーはずしりと重い。「こちらの鍵にはちょっとした秘密があるんですよ」。え、なになに? 掌の中の鍵を裏返す。記された部屋番号は右から読むという遊び心、いとをかし。シンボルマークの不死鳥が描かれた黄金色のエレベーターで16階へ。壁に施されたクラシカルな装飾を眺めながら、角部屋へと進み、ドアノブに鍵を差し込む。カチャリ。小気味よい音とともに扉を押す。うわ~、銀青! 思わず窓辺に駆けよる。陽ざしを受け波打つ水面がきらめいている。左手には豪華客が停まり、大桟橋の向こうにはみなとみらいの街が広がる。目の前を海鳥がすーっと横切っていった。窓は閉まっていても風を、潮の匂いを感じる。改めて部屋を見渡す。乳白色を基調にした部屋はすっきり無駄なく、アクセントカラーの琥珀色がノスタルジック。いいなぁ、この空間。窓辺のソファに座りしばらく海を眺めていた。




海が群青色に染まってきた。太陽が本格的に暮れる準備を始める時刻だ。ではそろそろ……。1階の「ザ・カフェ」へ。柔らかな物腰のウェイターから渡されたメニューを開く。1ページ目で目がとまる。伝統の3品?「シーフドリア」「スパゲティナポリタン」「プリンアラモード」。いずれもこちらの厨房が発祥なんですって。注文したのはナポリタン。やはり麵好きですから。創業時、GHQの接取時代、いかにしてヨコハマテイストの洋食が生み出されてきたのか、説明書きを読み、肯いていると、来ました。真っ白の皿に映えるサンセット色の逸品が。ハムやマッシュルームの具材とともに麺をフォークに巻けるだけ巻いてパクリ。うん? 想像していたよりもずっと薄味。いや、違う。噛めば噛むほど、トマトソースの中に封じ込められていた旨味がじわじわ広がっていく。バターや玉ねぎの香ばしさ、ニンニクの風味が幾重にも重なって……絶品!

ヨコハマの味を堪能し、再びいとしのマイルームへ。カチャリ。この鍵の感触、やみつきになりそう。窓枠の向こうは藍色に変わっていた。みなとみらいも星のように瞬いている。「街の灯りがとてもきれいね、ヨコハマ~」思わず、懐メロを口ずさみたくなる。昼、夕方、夜……刻々と変わりゆく港の風景。明日はどんな表情を見せてくれるのだろう。ふと、コーヒーテーブルに置かれたルームサービスの注文票が目に入る。どれどれ? ペンを片手にメニューとにらめっこ。えーと、卵の固さはどれにしよう?
……朝。起き抜けに見る海は白っぽさを含んだ浅葱色。でも、海はひと時たりとも同じ表情を見せない。ゆるやかに青が増し、街の輪郭もクリアになっていく。目覚まし時計よりもルームサービスよりも早く、船の汽笛が聴こえてきた。白い糸を引くように貨物船が海をすべっていく。ピンポーン。ドアベルが鳴り、窓辺までワゴンに乗ったアメリカンブレイクファストが運ばれてくる。雲のように真っ白なクロス。皿の中ではサニーサイドアップの玉子がふたつ、朝の陽ざしを浴びて輝いている。入刀。とろ~り溢れだした黄身を口に運ぶ。陽だまりに味があったらきっとこんな幸せな甘さ。「きょうはいい日になりそう」。そんな気さえしてくる。どこかでまた汽笛が鳴る。港町は動き出している。

朝食を終えたら、本日のメーンイベント! 本館へと足を運ぶ。一段また一段、踏みしめてのぼる。ロビーはとてつもなく広い。鳳凰模様のふかふかの絨毯、イスラム風装飾が美しい高い天井、ニューグランドブルーのカーテンで縁取られた大きなアーチ窓。ため息ものの優雅な余白。でも、不思議と気持ちがやすまる。人々が集い、別れ、またここに戻ってくる。そんな時間の重なりが持つ静けさのおかげか。大きなものに抱かれているような気がする。さて、お目当てのキングスチェアはいずこに? 昨日、チェックインのときに教えてもらった。「その椅子には天使のニケが棲んでいるんです。撫でると、願いがかなうそんな言い伝えがあるんですよ」 あ、あった! あそこだ。マホガニーの大柱を背に置かれたアンティーク椅子に腰をおろす。90年前の宮大工が丹精込めて彫ったアームの先にニケが。おもてなしの神は細部に宿る、そんな微笑み。艶光りする小さな頭をそっと撫でた。今、願うべきことは? やはりひとつ。
「いつの日かまた港町ヨコハマの心地よい光と風に包まれますように」


暮らすホテル

遠くへ出かけるよりも、自分の部屋や近所で過ごすのが大好きな作家・越智月子さん。そんな彼女が目覚めたのが、ホテル。非日常ではなく、暮らすように泊まる一人旅の記録を綴ったエッセイ。