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昭和からの遺言

2025.08.10 公開 ポスト

戦争は平和の礎ではない 戦争体験者が現代を生きる我々に願う2つのこと鈴木健二

迫りくる戦闘機、燃え上がる家々、耳をつんざく叫び声――あの日の記憶は消えない。

東京大空襲を体験した元NHKアナウンサー・鈴木健二が、太平洋戦争の混乱と喪失を赤裸々に語る。書籍『昭和からの遺言』より、一部を抜粋してお届けします。

シベリアで捕虜となった「先生」との再会

中学の時に原隆男先生という方がいらっしゃいました。全く泳げなかった私に水泳を教えてくださり、泳ぐことの楽しさを教えてくださった先生です。先生の強烈な思いやりの心は、生涯忘れることはないでしょう。ところが、先生は英語ができたため、戦後長期間シベリアに抑留されてしまいました。

私がNHKのアナウンサーとなって、始まったばかりのテレビを通して、世間に名前がほんの少し知られるようになったある日、一本の電話がかかってきました。

「はい、鈴木健二です」

と言うと、遠慮勝ちな声で、

「もしもし」

と、話しかけてきました。

「はい……あっ……間違えたらごめんなさい……もしかしたら……原先生ではありませんか」

「えっ、わかってくれたか、もしもしだけで。さすが鈴木健二だ。そう原です」

あまりにも長い歳月でした。しかもその間に流れた時間の中には、あの呪うべき戦争と、戦後の暗黒社会があり、正常な歳月ではなかったのです。

 

しばらくしてNHKの玄関に来られた先生は、長年のご苦労に少し疲れたご様子はありましたが、お元気そうでした。私は顔見知りの近くのうなぎ屋さんに案内しました。

「うなぎなんて、何年いや何十年ぶりかなあ、ありがとう、ありがとう」

そう言って先生はおいしそうにビールを飲み、さかずきのお酒を口にし、うな重を食べました。

「死んだ戦友に食べさせたかったなあ」

と、ぽつりとつぶやかれたのを機に、南方の島から北の満州(現・中国東北部)に移送され、敗戦となって捕虜となり、シベリアに送られてからの苛酷な月日を語られました。

それは浪曲的演歌の「異国の丘」のような情緒的な話ではなく、背筋に悪寒が走り、戦争責任者への底知れぬ憎しみがこみ上げて来る話ばかりでした。

先生は時には体を小刻みにふるわせ、時には頬に涙を伝わせながら話しました。その姿の中に私は中学水泳部での強烈な思いやりの情熱を思い出しました。あの全く泳げなかった私を励ましてくださった情熱が、先生をして苛酷な生活に耐えさせ、「命」を今日にまでつなげさせたのだと感じました。

死ぬ間際に「天皇陛下万歳」を唱えた軍人は一人もいなかった

「人間が生きる所じゃなかった。哀れさや残酷さの限界を遥かに超えていたよ。朝起きると、隣に寝ていた戦友が死んでいた。そいつの遺体を埋めるために穴を掘っても、土をかぶせている時も、涙一滴こぼれなかった。死に対して不感症になっていたんだ」

「でも、全員軍人だったのですから、死ぬ間際には、天皇陛下万歳を唱えたでしょう」

と言う私に、

「そんな人は一人もいなかった。どうして自分がこんな惨めな境遇に置かれたのか、それをやらせたのは誰かを皆が知っていたが、口には出さなかった。無言の恨みだった。怨かな。呪いになるかもしれない。これからの日本人にはね返って来るような」

 

「何に一番困りましたか」

「もちろん食料だ。全員極限の空腹なんだ。なんでも食べた。ネズミ、ヘビ、ゴキブリまでもだった。いや、アリさえもだ。それと日本の情勢が全くわからなかったことだ。戦争に負けたのだということしかわからなかった。

だから毎日のように、国家とは何か、天皇とは何だという激論が交わされ、時には殴りあいの喧嘩になった。あとは身を寄せあって、その日その日を生きることで精一杯だった」

最後に、いやあ、ありがとう、君に逢えて今日は復員以来、一番楽しい日だったとおっしゃって、先生は帰られました。

沖縄戦の証言者も次々に減って

私は占領時代でも今でも飛行機が那覇空港に着いて、沖縄の地に足を着けた瞬間に、胸がいっぱいになり、涙がひとりでににじみ出ます。

敗戦に先立つ2か月前の6月、沖縄のあの悲惨な戦斗は終焉しゆうえんを迎え、島民と兵士合わせて約20万人が島々を血に染めて犠牲となりました。

沖縄での戦争というと「ひめゆり学徒隊」の話が悲しみに満ち溢れて語られますが、この女子学生の皆さんは、私とほぼ全員が同い年なのです。猛火烈風の中を、目の前で人が火に包まれて焼け死んでいくのを見ながら逃げ廻った私の体験は、彼女たちの体験と重なります。

狭い洞窟の中へ次々に運ばれて来る兵士の血みどろの遺体、重傷者のうめき声、傷口に湧いたうじむしを指で潰す音が24時間続いていた洞内で、麻酔薬無しで行われた手足の切断手術。断末魔の叫び声を聞きながら、切断された手や足を両腕で抱えて「足が通りますよーっ。道を少しあけてーーっ」と大声を上げて、土の上に横たわった負傷した島民や重傷の兵士の間を駆け抜けて、敵の弾丸が昼も夜も飛び交う洞窟外へ捨てに行く。帰りには「水、水、水をくれ」とうめく重傷者のために、地面にたまった泥水を、ほんの少しでもコップに掬って飲ませたという。

語り部の声は、今も鮮烈な悲しさで耳の奥に残っています。しかし、この方達も、私と同じ高齢ゆえに、次々に語り継ぐ奉仕活動の場を去られたとか……。

美化された慰霊の言葉への疑問

私達穴呂愚(アナログ)人がお願いしたいのは、「戦争はするな」という言葉を絶対に守り抜いて戴きたいことが第一。

第二は戦場で敵弾に身体を引き裂かれた人や、シベリアで寒さに凍えながらいつ終わるともわからない不安の中で死んでいった人、焼死、餓死、自決した人達。沖縄の人々の苦しみをはじめ、乗っていた軍艦もろとも爆破されて海底深く沈んだり、あるいは海上を何時間も何日も漂流したりした後に、力尽きて遥かな故郷やお母さんの面影を瞼に描きながら息絶えて、もしかしたら魚のじきになって、骨だけが海底に沈んだかもしれない私と同世代の人の痛ましい死。

これらの戦争で亡くなった方達の死をリアルに想像してください。そして追悼し続けてくださることをお頼みしたいのです。これは、あの切り倒された桜からのメッセージでもあります。

「戦争で亡くなられた皆様のお蔭で、今日の私達の平和があります」などと美化した言葉が、戦没者慰霊式典などでよく聞かれますが、私に言わせると、あれは違います。戦死された方は、空襲や原爆で亡くなられた方も含めて、すべて戦争による不幸な犠牲者です。

「平和」と「死」をつなげてはいけないのです。

「平和」につながるのは常に「幸福と愛と生きること」です。

*   *   *

この続きは書籍『昭和からの遺言』をお求めください。

関連書籍

鈴木健二『昭和からの遺言』

感動なしに人生はありえない。90歳、昭和平成の語り部が、新しい日本に贈る、忘れないでほしいこと。

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昭和からの遺言

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鈴木健二

1929年東京下町生まれ。52年NHK入局。翌53年からテレビ放送が始まると、あらゆる分野の番組に新境地を開拓、博覧強記の国民的アナウンサーと呼ばれて親しまれる。88年定年退職後は一転して社会事業に専心。熊本県立劇場を拠点に、私財を投じて文化振興基金を設立。これを原資に、過疎で衰退した地域伝承芸能の完全復元を通して数々の村を興し、多数の障害者と県民の愛と感動の大合唱「こころコンサート」を最高1万2千人参加で、全国で7回制作上演して文化と福祉を結ぶ。70歳で青森県立図書館長に転じ、「自分で考える子になろう」を旗印に約200の小学校で押しかけ授業をし、読書の普及を図る。75歳で退職。この間テレビ大賞、日本雑学大賞、ユーモア大賞、文化庁長官表彰他多数を受賞。また『気くばりのすすめ』など、ベストセラーを相次いで発刊。昭和の世代に多くの共感を呼ぶ。

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