
迫りくる戦闘機、燃え上がる家々、耳をつんざく叫び声――あの日の記憶は消えない。
東京大空襲を体験した元NHKアナウンサー・鈴木健二が、太平洋戦争の混乱と喪失を赤裸々に語る。書籍『昭和からの遺言』より、一部を抜粋してお届けします。
「もうくたびれた」諦めかけた母を連れて
ホームの端に立って、四方を見渡しました。真上の空は黒い闇でしたが、わが家がある東も、背後の隅田川を越えた日本橋方面も、火の壁は幾分低くなった感じでしたが、遠く取り巻いた橙 色の火の円形の帯の底から、薄青い灰色をした煙が、霞のように湧き上がり、地鳴りにも似た音とともに押し寄せて来ていました。
その物が焦げた臭いがする雲のような煙の上端を見ようと、顔を暗黒の空の中心に向けた時、小さな白い点が、右から左へとゆっくり動いて行くのに気がつきました。
B29でした。まだ遥か上空にいたのです。私から見えるくらいですから、両国駅の広い構内は、B29にとっては十分な爆撃目標になるはずです。
ここは危ないんだ。そう気がついた私は駆け足で客車内で休んでいる両親の所へ行って、怒鳴るように言いました。
「まだB29が空にいる。ここは危険だ。逃げよう、下へ、急いで」
しかし、父は言いました。
「このホームの上まで煙が来てるくらいだから、下はもう息もできないくらい煙でいっぱいだろう」
母は身じろぎもせずにつぶやきました。
「もうくたびれたよ。ここでいいよ。爆弾が落ちて来たら来たで、仕方がないじゃないか。運が悪かったんだよ」
「冗談じゃないよ。粉々になって死んじゃうんだよ。さっき見たろ、死んで行く人。2人も」
母は掛けられていた私の外套を引っ張って顔を隠すと、可哀想だったねえ、熱かったろうねえ、助けてやりたかった、でもねえと言いながら、鼻をすすり上げました。
私は客車を出て、階段の所まで走って、下をのぞきました。父が言った通り、いつも通る改札口は見えず、煙は階段の中央附近まで這い上がるようにして充満していました。
「駄目だ。やっぱり下は煙でいっぱいだった」
「大丈夫だ。ホームでは横に散るさ」
「ここを出るとしたら、さっきの小さい階段を一つ一つ下りるしかないよ。いま何時」
父がかすかな光を頼りに、腕時計を見て、
「4時ちょっとだ」
「ふーん、家からここまで2時間近くかかったんだ、あの火と風の中を。いつも僕は7時の時報で家を出て、7時6分に駅へ着いて、8分の電車に乗って学校へ行くのにね」
「もうBは行っちゃったかねえ」
母が外套に顔を埋めたまま聞きました。
「あんな夜中から始めたんだからね。明るくなる頃には、いなくなるよ。ちょっと明るくなったら、家の様子見て来るよ」
「焼けてないといいねえ」
母のつぶやきに、父も私も答えませんでした。家を出る時、まだ火の手は上がっていませんでしたが、あちこちの長屋の軒先などから、ちょろちょろと火が出ていて、わが家の2階の奥の部屋の窓の外の小さな庇からも、火の手が上がっていたのでした。
道に転がっていた丸太のようなもの
不意に眠気がさして来て、椅子に腰掛けた私は眼を閉じました。父も座って、眼を閉じました。それから僅か数分間寝て、私はふっと目をさましました。
外がかすかに明るくなり、目をこらすと、ホームの柱に書かれていた「りょうごく」という駅名が読みとれました。父の肩を軽く叩いて起こすと、
「少し明るくなって来たし、煙も風に飛ばされてだいぶなくなっているから、家の様子を見て来る。ここに居てね。すぐ戻って来る。家までは行けないかもしれないけど」
「気をつけてな」
父の声を後に、私は客車を出てホームを走り、あの小さな石段を一段ずつ用心深く下りて、ヤッチャ場に出ました。
まだ薄暗いのでよくは見えませんでしたが、あの山のように積まれた木箱は、全部燃えてしまったのでしょうか全くなく、ヤッチャ場の広場一面は、焼かれた板切れで敷きつめられ、所々でちょろちょろと小さな焰を上げ、隅田川寄りの奥の方では、まだ積み上げた箱が燃えているのでしょうか、かなり高く火の手が上がっていました。ここからホームへ逃げておいてよかったと思いました。
しかし、塀を廻って、一歩電車通りへ出た時、私は凝然とたたずみ、体を硬直させました。何かが道に転がっていたのです。跨ごうとして片足を上げた途端、それが人であること、焼死体であること、まるで焼け木杭のような色に全身を焼き尽くされた人間の体であることが、瞬間にわかりました。
ここへ逃げ込む途中で出会ったあの2人も、いま目の前で転がっている男とも女とも、もちろん年齢もわからない人同様、一本の焼け焦げた丸太ン棒のようになってしまっているかもしれません。
それは私が最初に出会った戦争の犠牲者でした。人間にはあるまじき惨めな姿でした。もはや「人」の形ではありませんでした。いや、「人」ではなく、「戦争」そのものでした。
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