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瓦礫の中の幸福論 わたしが体験した戦後

2025.07.30 公開 ポスト

「この戦争は負ける」太平洋戦争末期、札幌の少年が見た空っぽの骨箱と敗戦の影渡辺淳一

太平洋戦争のただ中を生き抜いた作家・渡辺淳一が、自らの記憶をたぐり寄せ、人生の根底を形作った「戦後」を語る。生きる重さと希望を問い直す珠玉の回想録『瓦礫の中の幸福論 わたしが体験した戦後』より、一部を抜粋してお届けします。

*   *   *

天皇陛下の玉音放送を聞き、日本が戦争に負けたことを知ったが、それまでもわたしはいつか負けるような気がしていた。

むろんそんなことは、はっきりいえなかったが、子供心にも、この戦争は勝てないのでは、という不安にとらわれていた。

真上を敵機が

その頃、わたしは札幌のやや西よりの山の手に住んでいたが、戦争に負けるまで、わたしの日常生活は戦時下という状況に拘束され、いろいろ緊張をいられることが多かった。

もちろん東京や軍の施設のある都市のように、米軍機の空襲にさらされ、焼け出されるようなことはなかったが、日々、戦時色に染まっていたことはたしかである。

 

たとえば、夜はいつ敵機が襲ってきても逃げ出せるように、枕元には常に着るものと防空きんそろえておいた。それを、いざというときには一分以内に着られるように、何度か練習もくり返していた。

また夜は燈火管制といって、明りを極力、抑えるようにいわれていたので、部屋のなかでゆっくり本を読むこともできなかった。

敵機が道内に近づいたときには、まず警戒警報のサイレンが鳴り、さらに市内に接近したときは、ひときわ高く空襲警報のサイレンが鳴り響いた。

これらサイレンが鳴る度に、わたしは家族と一緒に家のすぐ横にあるぼうくうごうへ逃げ込んだ。

この防空壕は、各々自力で掘ったもので、わたしの家のは、主に父が掘ってくれた。

この形と大きさは家によってさまざまだが、わたしの家のは地上から一メートル半くらいの深さで、上は入口の階段以外は土をかぶせた板戸で覆われていて、このなかでうずくまって息を潜めていた。

 

もっとも、札幌市内はまだ直接爆撃されることはなく、どこかんびりしていた。

一度、父と一緒に壕を掘っているとき、突然、空襲警報が鳴り、慌ててもぐり込もうとすると、そのときすでに敵機が上空低く接近していて「危ない」と思ったが、敵機はそのまま通り過ぎてしまった。もし彼らがわたしたち親子をねらえば殺されていたかもしれないが、いきなり低空で迫ってきた機上の飛行士は、なぜか笑っているように見えた。

あの低空飛行はもしかすると、わたしたちを驚かすためにやったのか。それにしてもこの前も後も、地上からは一発の高射砲の応射もなく、日本の飛行機が応戦に飛び立つこともなかった。

このあと、札幌の北にあるおかだま飛行場に数発の爆弾が落とされたと聞いたが、要するにやられっぱなし、これが敵機来襲の現実であった。

この戦争は勝てない

この頃、わたしの家の玄関の横には直径一メートル余のコンクリート製の円い水槽が置かれていた。

いわゆる防火水槽で、ここに常時、水をめておき、家などが焼けたとき、ここの水をバケツでみ出して、火にかける。

実際、母たちは日中、よく集合させられて、消火訓練と称してバケツの水を手渡しで運ぶ練習をやらされていた。

一発爆弾が投下されたら、あたり一面、火の海になり、バケツの水など、なんの役にも立たないのにと、子供心に思っていたが、うっかりそんなことをいったことがわかると殴られるだけなので、なにもいえなかった。

 

この年の初め、父がある病院に勤めている人から、「この戦争は勝てません」と聞かされた、といっていた。

もしかして、前線で傷ついた傷病兵たちがそういっていたのか。

直接、戦争の惨禍も、敗戦の現実も見たわけではないのに、子供心に「そうだろう」と素直にうなずけた。

もちろん、当時の新聞に、そんな記事はまったく載っていなかった。

その頃の新聞は、いわゆるタブロイド判で表と裏しかなかったが、大半は相変わらず、日本陸海軍が沖縄や周辺海域で、大きな戦果をあげつつある、というような記事ばかりであった。

空っぽの骨箱

この頃、わたしと親しかった岡本という男の父親が、沖縄で戦死した。

ある日、学校に行くと、彼が元気のない顔で、二日前に、親父の戦死のしらせがあったという。

わたしは驚いたが、といってどうしたらいいのか。当時は戦死はお国のために働いた結果の「名誉の戦死」で、遺体が帰ってくることは、「名誉の帰還」と教えられていたから、下手に慰めるのもおかしかった。

それから十日ぐらいってから、遺骨が帰ってきて、岡本の家のまわりには、名誉の戦死をたたえる人々が白い旗を持って集まっていた。

岡本ははたしてどんな気持ちでそれを受け止めていたのか。さらに数日経った頃、岡本がぼそりとわたしにつぶやいた。

「お骨はな、なにもなかったよ」

いったいどういう意味なのか、わたしがきょとんとしていると、彼が説明してくれた。

「俺、突然、親父に会いたくなって、仏壇の前の箱を開けてみたんだ。そしたら、なにも入っていなかった」

「じゃあ、空っぽか?」

かすかにうなずく岡本に、「どうしてだ」とききかけて黙った。

死んだことはたしかだけど、死体はどこにいったのか。もしかすると、確保することもできないほど、日本軍は負けているのかもしれない。

しかしそこまできくことは、岡本をさらに悲しませることになりそうなので、そのまま黙ったが、それ以来、「名誉の帰還」などという言葉も信じられなくなった。

*   *   *

この続きは書籍『瓦礫の中の幸福論 わたしが体験した戦後』をお求めください。

関連書籍

渡辺淳一『瓦礫の中の幸福論 わたしが体験した戦後』

焦土と化した故郷、未曽有の食糧難、進駐軍の占領……、「敗戦」という絶望の淵から、劇的な復興と高度経済成長を成し遂げた日本を終戦時、小学六年生だった著者はどのように見つめていたのか――。生きていくことはきれいごとではない、という実感から生まれた再起の知恵を、喜怒哀楽に満ちた秘蔵のエピソードを交えてつづる感動の渡辺淳一流人生論。

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瓦礫の中の幸福論 わたしが体験した戦後

太平洋戦争のただ中を生き抜いた作家・渡辺淳一が、自らの記憶をたぐり寄せ、人生の根底を形作った「戦後」を語る。生きる重さと希望を問い直す珠玉の回想録『瓦礫の中の幸福論 わたしが体験した戦後』より、一部を抜粋してお届けします。

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渡辺淳一

1933年北海道生まれ。2014年4月30日没。医学博士。1958年、札幌医科大学医学部卒業後、母校の整形外科講師をつとめるかたわら小説を執筆。1970年『光と影』で直木賞、1980年『遠き落日』『長崎ロシア遊女館』で吉川英治文学賞、2003年紫綬褒章、菊池寛賞など受賞歴多数。作品は初期の医学を題材にしたものから、歴史、伝記的小説、男と女の本質に迫る恋愛小説と多彩で、医学的な人間認識とともに、華麗な現代ロマンを描く作家として、常に文壇の第一線で活躍した。『無影燈』『化粧』『ひとひらの雪』『失楽園』ほか著書多数。

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