
敗戦は終わりではなく、戦争孤児たちにとって“地獄の始まり”だった――。
「クローズアップ現代+」や「NHKスペシャル」などでディレクターを務めてきた中村光博さんが、戦争で親を失った子どもたちへの綿密な取材を元に戦後の真実を浮き彫りにした幻冬舎新書『「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』より、一部を抜粋してお届けします。
敦賀空襲で母を失い孤児に
小倉さんが生まれ育ったのは、日本海に面する港町、福井県敦賀市。母と子二人の家庭で育った(※筆者注:父はほとんど家に寄りつかず、終戦後に病死)。
母のマツさんは、地元のニシン工場に勤め、一人息子だった小倉さんを大切に育てた。生活は楽ではなく朝から晩まで働き、化粧をしている姿も見たことがないという。自分は学校にも行く余裕がなく文字を書くこともできずに苦労したことから、小倉さんが勉強をする姿を見ては、とても喜んでくれたという。
小倉さんが学校のテストで100点を取ると、ご褒美として近くにあったうどん屋に連れていって、鍋焼きうどんを食べさせてくれたことが、母と過ごした幸せな日常の一コマとして記憶されている。
母が喜ぶ姿を見たくて、一生懸命勉強した小倉さんは、優等生として注目される存在だった。小倉さんがいま、唯一、自宅で保管している少年時代の写真は、小学2年生の学芸会で、先生の推薦によって主役の桃太郎を演じたときのものだ。そのときもマツさんは、「母ちゃん、学校に行くのが誇らしくてうれしい」と、これまでにない調子で褒めてくれたという。
敦賀でのそうした平穏な日々も、戦争によって激変した。
母を突然奪われたのは、終戦から1カ月ほど前の昭和20年7月12日。B29の編隊が、日本海側の都市としては初めて敦賀をターゲットにして、空襲を行った。軍港があったことから、空襲は熾烈を極めた。その日の様子を、小倉さんは鮮明に記憶している。
用水桶の中で見つけた母の姿
「昭和20年7月12日の夜9時頃から深夜の2時頃まで。もう敦賀の町が真っ赤に燃えててね、みんな必死で逃げてきたんです。
僕は、夜、自宅のそばの叔母の家で風呂に入れさせてもらっていて、ちょうど帰ろうとしたときに空襲が始まった。大人たちにまざって何も考えずに必死に走って逃げていたら、敦賀から東の方にある村に、たまたまたどり着いて、そこで朝まで過ごすことになったんです。
明くる朝、空襲が終わって、朝の9時頃にね、町に帰ってくるんですよ。その途中に町か村かがあって、お百姓さんをやっている人の割と大きな家が焼けずに残ってまして、そこで、地域の国防婦人会のおばちゃんたちがね、握りご飯をつくって、みんなに配っていたんです、大きな握り飯だったな。麦の入った、黒いとろろを巻いたおにぎりを一つずつ配っていた。
近くに避難してきた人たちがそれを聞きつけて大勢集まってきて、火傷をしていた人は、薬を塗って治療なんかもしてもらってたんですね。そのたくさんの人たちの中に、僕の家の向かいに住んでいてよく知っているおばちゃんがいてね、僕を見つけてね、泣きながら僕に言ったね、『勇ちゃん、母ちゃんのことは諦めるんやで』って。
最初僕は全くわけが分からなかった。だけどまた『母ちゃんのことは諦めるんや、しっかりせないかんのやで。母ちゃんな、大修館っていう家のそばの映画館の前にいるから、行かなあかん』って言われちゃった……。
そこで見にいくことにしたんです。行ってみると、その頃、焼夷弾が落ちてくるのに備えて、火を消すために、一軒一軒の家の前に、用水桶っていうのがつくってあってね、そこに水を溜めてた。焼夷弾が落ちてきたら、その水で火を消すということになっていた。その中でね、お袋が死んでたんです。
顔の半分が焼けてしまっていて、髪の毛だけは残っていた。用水桶の水の中に浸かっていたから、体の下の方は割と残っていました。で……お袋だと分かった決め手になったのはね、自宅で使っていたつるの模様の布団です。それをかぶって逃げたみたいなんですね。
ショックで、涙も出なかったです、本当。なんて言いますかね……悲しいんだけど、本当にショックを受けると、涙も出ないですね。僕は経験しました、そのときに」
穴の中へ投げ入れられた母の遺体
小倉さんの母マツさんは、敦賀空襲の2週間ほど前、当時、地域の大人たちが総出で参加した地元の軍需工場での勤労奉仕で足を骨折して、自宅で療養中だった。そのため、空襲警報が鳴って逃げようとしたものの、思うように動けずに逃げ遅れ、あまりの空襲の激しさに途中で諦めたのではないかと、小倉さんは推測している。
変わり果てた母の姿を見て、涙も出ないほど呆然と立ち尽くしていた小倉さん。そこに、トラックがやってきたという。
「2台のトラックが私の後ろに止まったんです。1台は兵隊さんが乗ってました。もう1台のトラックには、死体がね、どーんと積んであるんですよ。半焦げになった人が割と多かったですがね。
で、兵隊さんが降りてきて、水に浸かっているうちのお袋を二人で持ち上げて、バーンってトラックに放り投げるんですよ。そして僕にね、『この死体は、大きな穴を掘ってね、そこへ土葬をすることになっている。敦賀市のお役人が、死体の検死をして確認するから、そこへ来なさい』って言うんです。
その兵隊さんのトラックに乗せてもらって、僕は大きな穴が掘られているところまで行った。それでね、敦賀市のお役人が、死体を確認して、大きく掘った穴の中へどーんと死体を投げ入れたんです。土葬ですね。その頃、もう言うたら、焼く燃料がないし、夏だったからすぐに腐敗してしまうから。いまでもあるんじゃないかな……その土葬の跡というのは……僕は行ったことないですけど。
戦争っていうのはこんなものかって。ショックですね、どうやって生きていけばいいか分からんし。あの光景って、思い出すとほんとにすごかったな。死体がどんどん投げ入れられていくんですよ……」
即席で掘られた穴に、他の死体とともに投げ入れられた亡き母の姿は、いまも脳裏に焼きついている。13歳で突然母を奪われ、孤児となった小倉さん。この日を境に、人生が大きく変わっていくことになった。
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「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史

敗戦は終わりではなく、戦争孤児たちにとって“地獄の始まり”だった――。
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