
敗戦は終わりではなく、戦争孤児たちにとって“地獄の始まり”だった――。
「クローズアップ現代+」や「NHKスペシャル」などでディレクターを務めてきた中村光博さんが、戦争で親を失った子どもたちへの綿密な取材を元に戦後の真実を浮き彫りにした幻冬舎新書『「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』より、一部を抜粋してお届けします。
わずか5分の面会が両親との最後の別れに
寺の関係者が、疎開先で一緒に学んでいた地元の同級生の女性が、いまも近くに住んでいることを教えてくれた。早速、渡辺さんと訪ねてみると、歓迎してくれた。同級生は、渡辺さんたちが東京からやってきて同じ教室で学んでいた時期のことを懐かしそうに話してくれた。そして渡辺さんの母親が、疎開先を訪ねてきたときのことをよく覚えていると言った。
人一倍、両親と離れていたことをさみしがっていた渡辺さん。何度も東京に手紙を出して、疎開先での暮らしがつらく、早く東京に帰りたいと訴えていたという。両親は、そんな渡辺さんを心配して、新潟まで訪ねてきたのだろう。同級生は、そのときのことをこう語った。
「あたしら田舎者だから、あっ、東京の人が来たみたいって誰かから聞いてきて、泊まっていた旅館まで見にいこうって、友だちと一緒に見にいったんです。そしたら、お母さんが面会に来ましたって言って。あのときはお母さん、一人で来たの?」
「ううん、親父と二人で。僕はさ、親が宿泊していた宿まで会いにいったんだけど、5分しか会わせてくれないの。先生が一緒についてきて、宿の下でずっと待っててさ……。ほんとひどいだろう? 母親も親父もせっかく東京から来てやっと会えたっていうのにさ」
両親のもとを離れて5カ月が経った昭和19年12月の末、ようやくかなった再会だった。しかし、東京から生徒たちを引率し疎開先で世話役をしていた教師は、帰りたい気持ちが芽生えないようにと考えたのか、わずか5分しか両親と一緒にいさせてくれなかったという。この面会が親子の最後の別れになるとは、渡辺さんも両親もこのときは全く想像していなかっただろう。
「すぐ迎えに来てくれるはず」と言い聞かせていたが…
昭和20年3月10日、東京の下町を焼き尽くした東京大空襲。渡辺さんの両親、そして3人の妹が犠牲となった。渡辺さんの親は、仕事で使う機材をなんとか守りたいと、一つ一つをビニール袋に入れて用水桶の中にしまっていたために、逃げるのが遅れてしまった。実家の近くに住んでいた人がのちにそう話してくれたという。
新潟に疎開していた子どもたちの間でも、東京で大規模な空襲があり、焼け野原になってしまったという噂が、すぐに広まった。そして、空襲から1週間もすると、心配した親たちが、子どもたちを迎えに来始めたという。
次々に迎えが来て、親と一緒に帰っていく同級生たち。渡辺さんも、最初は、両親がすぐに来てくれるだろうと言い聞かせて、自分を落ち着かせようとしていた。
しかし、あれほど自分のことを心配してくれていた親が、待っても待っても一向に現れない。父や母に何かあったのではないか。不安だけが、日増しに強まっていった。
そんなある日、迎えに来た友だちの母が「喜太郎ちゃん、お姉ちゃんは生きているからね」と教えてくれた。まだ11歳だった渡辺さんにも、「自分を迎えに来る人がいない」「姉は生きている」ということから、両親は空襲で亡くなったのだということは分かった。
もう二度と父と母に会うことができない。そう思うと、新潟の疎開先で絶望的な孤独感に襲われ、数カ月間、毎日涙が止まらなかったという。
残された励ましの手紙を胸に
疎開先に届いた両親からの手紙を、いままで大切に保管してきた。疎開先の寺の境内で、渡辺さんは、持ってきた手紙を恥ずかしそうに読んでくれた。
〈東京は、爆撃なんぞ、ありませんよ、父母の、心配はしなくてもいいですよ。喜太郎は、何のために、疎開をしたのですか、必ず戦争に勝つためですよ。喜太郎は五年生ですね。もっと元気だと思いましたよ。弱い気を出してはいけません。矢田さん、原さん(※筆者注:当時渡辺さんの近所に住んでいたと思われる子ども)は、喜太郎のように、弱くありませんよ。いつも元気な手紙をくれていますよ。すみこも、静江も、兄さんは意気地がないって言いましたよ。ご飯の数が少なくて嫌いとか、喜太郎さんのわがままです。東京でも何にもおかずはありませんよ。東京に帰りたいとはいくじがなさ過ぎます。いくら東京に帰りたいといってもダメですよ。父母は死にはしません。日本の兵隊さんは、敵、米英の飛行機が東京に来たとすれば、日本の航空機が、体当たりをして、みんな撃墜するので心配せずに、元気でいなさい。喜太郎に、ひらがな童話の本を買ってきたので送ります。また欲しいものがあったら送りますからお手紙ください。喜太郎頑張れ、頑張れ、頑張れ、喜太郎、元気で。敵、米英をやっつけるまで頑張れ〉
照れくさそうな表情を見せながら手紙を読み終えた渡辺さんは、こう続けた。
「敵米英って言ったってさー、ねえ。俺がさ、帰りたい、帰りたいって疎開先から手紙出すから。戦争でみんな頑張っているときに、帰りたいなんてわがまま言うなということでしょ……。でも、そんなこと言ってるうちに死んじゃったんだからさ、どうしようもないよね。
急に両親がいなくなっちゃってさ、戦災孤児だっていうことになっちゃったんだからさあ。本当に俺は大変だったんだよ、あの頃は……。
まあねえ。あのくらい、ちょうどあんなもんだよ。あのくらいでしょ。はは、あんなもんだよ」
そう言って、疎開先の寺の境内で取材をしていた私たちの後ろの方を指さした渡辺さん。振り返ると、集団で下校している地元の小学生たちが、楽しそうに走って、通り過ぎていった。
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「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史

敗戦は終わりではなく、戦争孤児たちにとって“地獄の始まり”だった――。
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