
最愛なるひらりさへ、
明日書く手紙は今日書く手紙とは全く違うものになるだろう。今日は金曜日で、私は北イタリアの小さな街モデナにいます。ビジネススクール時代の友人の故郷で、彼女の娘の1歳の誕生日を祝うためにここに来ている。
ロンドンを離れ、違う空気、違う環境のもとで、仕事や恋愛、人間関係、自分の将来、いろいろなことを改めて考える時間ができているよ。
ただ平日なので仕事は最低限やらなければいけなくて、友人の子供時代の部屋の机を借りてこの手紙を書いている。目の前にはペンや鉛筆の入ったマグカップ、きっと受験勉強で使っていたであろう蛍光ペンが置いてある。引き出しを開けるとキティちゃんのノートが見つかる。中には子供の拙い絵と秘密のアルファベットの解読法が描かれている。Hは★で表されている。
初夏の優しい空気が窓から流れ込んでくる。異なる国で、まったく異なる環境で育ったのに、私が友人のこの部屋に座るまでに織りなされてきた偶然と運命の糸を考えると、思わず涙が込み上げてくる。人の過去を垣間見せてもらえることの親密さ、これこそが真の友情の証だな、と思う。
ひらりさの子供時代の部屋はどんな感じだった? その部屋は今でもどこかに、時が止まったまま存在している? そしてその当時のひらりさは、自分が発した前便の質問にどう答えるだろう。
「『社会に認められるパートナーシップが欲しい』『子供が欲しい』といった枷から自由になるには、男性と恋愛すること自体を手放すべきなのではないだろうか……?」
これはまさに、別の友達に先日聞かれたこと。業界仲間の彼女と久しぶりに会ったら、彼女は転職祝いの翌日で二日酔いがひどかった。そのため、ショーディッチハウス(会員制クラブ)で予約したテーブルを諦め、プール沿いのサンベッドで横になりながら、銀の食器で二日酔い後のお腹を和らげるトーストとスクランブルエッグを食べた。プールの水面の上で輝く陽射しを眺めながら、平日の朝9時に豪華なミーティングをしている私たち。こんな自由な働き方、お金の使い方を自分の手でつかんだ私たちはすごいな、と思った。
仕事の話の後、彼女がかつて同居していた元彼の話を始めた。元彼は彼女の世話に頼って生活していた。根掘り葉掘り聞かなくても、すぐに全部を明かしてくれた。傷ついた心を話しながら癒したかったようだった。二人が別れた時の会話をここに記すとこんな感じ。
彼:僕たちはなんでセックスレスになった?
彼女:なぜかというと、私はあなたにとって掃除の人であり、キャリアコーチでもあり、お手伝いさんでもあり、カウンセラーでもあり、お姉さんでもあり、お母さんでもある。自分の息子とセックスするのは嫌だ。
彼らの関係は終焉を迎えていたが、彼女の言葉は彼の心に相当響いていたようだ。数週間後、彼はイギリス中で人気のメンタルヘルスを扱うポッドキャスト番組に登場し、別れの辛さで自覚したことを垂れ流すように話していた、と彼女は後から知った。別れる前も後も、彼は彼女を利用し続けた。家の掃除、心の支え、そして、自分の顔を広めるために。 自由が奪われている以外にも、女性たちが男性にがっかりする理由はよく分かる!
これからのキャリアや自由を考えると、男性との恋愛を諦めるしかないじゃない、と彼女はひらりさと似たようなことを言っていた。要するに、女性は男性との関係を結んだ瞬間から、無理矢理に社会に色んな役割――お母さん、お手伝いさん、お掃除の人――を演じさせられる。社会的な約束事、役割に束縛されずに自由な人間として相手に向き合って恋愛することができない。
これはフェミニズム思想を牽引してきた哲学者、ジュディス・バトラーが1990年の著作『ジェンダー・トラブル』(これが私が生きている間に書かれたなんて!)でまさに言っていること。そこでバトラーは、セックス(生物学的な性差)とジェンダー(社会文化的な性差)はパフォーマンスだと論じる。すべては社会の圧力によって構築されている、と。
ここからつなげて、自由を手に入れるためにある人との恋愛を諦めなければならないのか、という重要なテーマに対して私はこう問いたい。みんなの不満は本当にどこにあるのか。「伝統的な」異性愛関係の構築に不可避的に付いてくるジェンダーの構造に不満を感じるからなのか? それとも異性愛関係の中で演じられる「男性らしさ」に嫌悪感を抱くからなのか?
バトラー論をさらに進めて言うなら、このテーマに男性と女性という明確なカテゴリーは存在しないことを忘れてはいけない。でも私も、私の友人も、いつもこのバイナリー(二元論)で物事を語ってしまう。毎日のように男性=だらしない、女性=ちゃんとしているというイメージを煽るミーム(memes)や記事を共有しあって、男性を軽蔑的に語り、幼稚化する。プールサイドで友人とした話はまさにそのことだった。演じているジェンダーに関係なく、私たちは皆、それを作り出している社会構造の犠牲者になっていることをすぐ忘れてしまう。そして、みんなの自由を束縛する社会のがんじがらめの構造をさらに強化する発言をし、自分で自分の首を締めてしまう。

でも、私とひらりさはバイナリーを超えることが得意なはず(wink, wink)。だからひらりさにもう一度聞きたい。男性と恋愛すること自体を手放すと言うとき、それによって拒絶しているものは、本当は何? ひらりさが拒絶しているのは恋愛でもないし、異性愛でもないと思う。自由を束縛する関係だ。
私は、愛——「恋愛」ではなく、ここであえて「愛」という言葉を使いたい——は、常にこの世の中がどうあれそれを育み続けるものだと強く思う。なぜなら、本当の愛には自由があるから。愛とは、相手を完全に受け入れ、存在の深いところから、その人の自己実現を望むこと。だから、「愛」という言葉を使いたかった。
私のこの考えに対して、バトラーは、愛でさえも、純粋ではなくて社会的圧力や期待によって汚染されていると論じるだろう。実際、愛と愛から生まれる「関係」――恋愛関係、パートナーシップ、「関係」にはさまざまな形と深さのバリエーションがあるーーの間に線を引くのは不可能に近い。関係が存在する瞬間から、愛にその関係と切り離せないジェンダーのパフォーマンスと社会の圧力が加わる。愛が箱に押し込まれ、角が切り落とされ、形が歪められる。その歪な愛のなかで、私たちは妥協する。
「おひとりさまの老後」を提唱していた上野千鶴子が、実は入籍していたという報道が大炎上して、フェミニズムと矛盾していると批判されたことを思い出す。ここで彼女が批判されたこと自体が、恋愛に対する社会の偏見を表している。私の考えるフェミニズムの本質は、女性が自らの意思で自身の人生のあり方を選び取ることであり、それを制約している社会の仕組みや偏見を批判することだ。決して恋愛を否定したり拒否したりすることではない。
社会がいかに愛の形に冷淡であるか——これは子供に教えない、最大の悲劇の一つではないかと思う。それでも、トライする価値はあると信じたい。だから上野千鶴子の選択にインスパイヤされる。
しかし、恋愛と自由を両立できる関係を実現させる前に、それの夢を見るために、私たちが望む種類の関係を推進するためには、自分自身を知らなければならず、異性や社会の他の外的な力からの承認なしに、自分自身を愛することができなければならない。
これは、他者の承認を超えて、あるいはそれを得る以前に、自分には価値があると告げる心の声を育てることを意味する。自分は存在するだけで、息をしているだけで価値がある、と囁いてくれる声。
自分を好きになることはセルフケアとか、ヨガとか、そういう方法を通じては得られない。そういったことを通じて自分の中の声によりよく耳を傾けられるようになるけど、その声を育てること自体には役に立たない。
その声が聞こえるようになり、自信がつき、だからといって私は間違いをしないというわけではない。人を傷つけない、とわけではない。自分を信じている人でも間違いをおこすことだってある。しかし、自分が間違いをした時に、自分を嫌いにならず、間違いから学ぶことを助けてくれるのはこの声だ。
ひらりさが前回の手紙で『サブスタンス』について触れてくれてとても嬉しかった(スーのDIYシーン、完全に忘れていたけど、最高だったね)。この映画はセルフ・ラブ、この声についての映画だ。デミ・ムーアが演じる主人公のエリザベス・スパークルは、社会からの承認を得られない限り、自分の価値を自分で認められない。だから50歳で解雇されたとき——スターになるには年を取りすぎているので——彼女は自分のアイデンティティ全体を失う。彼女は死に物狂いで過去を取り戻そうとするが、彼女を必死にさせる彼女の頭の中の声は、自分の声ではない。彼女の頭の中はルッキズム、エイジズム、女性蔑視・若さ至上主義の物語に完全に乗っ取られている。普通の人の中の声は、否定的・肯定的なものが混ざっていると思うが、彼女は完全にネガティブな声に占拠されている。本当はあるはずの彼女自身の声は完全に沈黙させられている。
この声、この自己愛を育てることは、世界で最も成功した人々にとっても困難だ。まだ見ていないなら、『サブスタンス』でゴールデングローブ賞を受賞したときのデミ・ムーアのスピーチを今すぐ見てほしい。彼女は自分が「ポップコーン女優」——人気はあるが真剣ではなく、「芸術家」としては一生認められない(だろう)——でいることに甘んじていたと語っている。彼女の目の中の涙が見えた。『サブスタンス』は、彼女に再び自分の可能性を信じさせた映画。フィクションと現実のこれほど美しい融合があったとしたら、映画は悲劇で終わったが、彼女はこの映画で救われたのではないだろうか。
私がいるモデナは、もともと現在のミラノ近くの北イタリアと海岸を結ぶ2000年以上前に建設されたローマ街道、ヴィア・エミリアに沿って建てられたローマの砦だった。昨夜、私は友人と彼女の娘のエミリアちゃん——足元に広がる道にちなんで名付けられた——と一緒にそこを歩いた。

友人はエミリアちゃんを腕に抱いていて、そしてエミリアちゃんは自分のベビーカーを前に押している。エミリアちゃんはこの役割の逆転に笑いが止まらない。歯が四つしか生えていない、メロンのようにまあるい口を広く開けて笑っている。私はエミリアに微笑みかける。でも、私は心の中で笑っていない。
なぜかというと、モデナでずっと、自分の心の声に耳をすませているけれど、何も聞こえてこないから。私は何を望んでいるか。何を求めているか。半年先の自分はどうなる。5年先の自分は――。
いまより何千年も前に、同じ埃っぽい敷石を歩いて心が曇っていた人はどれくらいいただろう。きっとたくさん。愛している人を傷つけて涙を流している人もたくさんいたはず。
私はエミリアちゃんを見て、彼女は恋愛で誰を傷つけるのだろうか? どのように愛することを学ぶのだろうか? いつ未熟な恋愛を卒業するのだろうか、と思う。
私は無理をしない。自分の中の声はきっとまた聞こえてくる。そして、自分の心の本能がきっと分かる。エミリアちゃんには、恋愛で幸せになるより自分の中の声の聞き方を覚えてほしい。
ひらりさ、私たちは恋愛で最も重要なことの一つについて話していないような気がする。
それは、自分自身の選択で誰か、特に愛する人を傷つけるときのこと。ひらりさは愛している人を傷つけたことある?
その経験から、何かを学んだ?
人を傷つけてしまった自分をどうやって好きであり続けることができた?
綾
(追記)
*ジュディス・バトラーは、2020年に自身の代名詞(pronouns)について、she/herよりもthey/themを好むと述べていることを鑑み、
フェミニズム思想の女王→フェミニズム思想を牽引してきた哲学者
彼女→バトラー
と修正しました。
(2025年6月23日15時)
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往復書簡 恋愛と未熟

まだ恋愛にじたばたしてる――? 30代半ば、独身。ロンドンと東京で考える、この時代に誰かと関係を紡ぐということ。