
わたしは今、猛烈に感動している。
新しい視界を手に入れられたことに。
花は美しい。月は美しい。夕日は美しい。朝日は美しい。美しいものは素晴らしい。でもだからといって、どうしてわたしたちは自分が「美しく」なければいけないと思い込んでいたんだろう?
しかもその「美しく」の定義は、他者の決めた規範内の造形──目は大きく頭は小さく中顔面は短めで顎はシャープで歯は白く髪は艶やかで痩せていてでもがりがりじゃなくて若い──に収まるかどうかで判断されるのだ。そんな呪いをかけたのは、いったいどこの誰だったのだ?
正直に言えば、わたしはもうずっと写真を撮られるのが嫌だった。鏡を見るたびに増える皺とか毛穴とか頬のたるみとか、日々確実に「規範内」から脱落していく自分と向き合うのは大変にしんどい。わたしはかつて「若い女」であって、今は違う。そのことに、毎日何度も小さく傷つく。
明らかに他者からの視線も変わる。人々が「若い女」を見るときと「若くない女」を見るときの目線がこんなに違うなんて、自分が歳をとるまで知らなかった。
それに対抗しようと、ダイエットしたり整形したり肌管理したり髪質改善したりする人たちもいるが、わたしはものすごく怠惰な人間であるため一切何もできていない。その「できていない」という思いがさらに自分への諦念を加速させる。「美しく」いる努力をしない自分は本当に駄目な人間だ。若くもなく美しくもなく努力さえしない。そんな人間、蔑まれて馬鹿にされて当然。そう思ってしまっていたのだ。
でも、本当にそうなのか?
映画『サブスタンス』を観て、今、わたしはその呪いから完璧に自由になった。
五十代を迎えた女優(※あえてこの名称)エリザベスは、エアロビクス番組を降板させられる。エリザベスはある方法を使い自分の若く美しい分身スーを生み出し、かつての職と鮮やかな人生を取り戻そうとするのだった。
というのがざっとしたあらすじである。
エリザベスを降板させた放送局の社長はエリザベスより年上であろう中年男性。毛穴が目立ちトイレで手も洗わない男。番組スタッフもほぼ男性で、スポンサーに至っては小太りで髪を染めることもしない老年男性ばかり。自分を棚に上げまくって他者のルックスや年齢を審査したり揶揄したりしていいと思っている人たちだ。
エリザベスは若くはなかったけれど、完璧に整ったスタイルと筋肉と柔軟性を持っていた。エアロビクス番組に必要なものってその三つだけなのではないのか?
などという疑問は観終わってから感じたものだ。実際、レオタード姿のスーは大変に魅力的だったから。でもわたしがスーを「魅力的だ」と思うことと、エリザベスを「エアロビクス講師として完璧だ」と思うことは矛盾しない。
ラストの展開に是非があることも分かってる。でもその非の意見こそが「若く美しいこと」に価値を見出すもののような気がする。どんな形であろうとどんな状態であろうと、別に他人にとやかく言われる筋合いはないのだ。自分が自分をそれでいいと認められれば(あの状態をエリザベスが良しとしているかは分からないけれど、とにかく生きている。若く美しくなければ死んだほうがまし、の真逆の状態である、とわたしは捉える)。
永遠に若くいることは不可能だ。
エリザベスは、「若さ」「美しさ」に執着した。ここから先は映画を観て貰えればいいのでこれ以上書くのはやめるけれど、とにかくわたしはこの映画に呪いを解いて貰えたような気がしてならない。
「若くない」ことに傷つく必要はない。「(他者の決めた規範内の)美しさ」を持っていないからといって絶望する必要はないんだ。だってわたしに若さと美しさを求める者たちは、わたしにとってどうでもいい、トイレで手を洗わないようなやつらなんだから。
花は美しい。月は美しい。夕日は美しい。朝日は美しい。でもそれぞれの造形はこんなに違う。違うものをそれぞれ全部美しいとわたしたちは思うことができる。そして何より、美しくなくたって本当は全然構わないのだ。
「今日の自分が一番若い」っていう、良く言われるあの言葉。その呪いも解いていこう。「だから何?」と言い続けていくんだ。
愛の病

恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。