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ある日、逗子へアジフライを食べに ~おとなのこたび~

2025.06.07 公開 ポスト

麻布十番。「お顔そり」の張り紙に吸い込まれて大平一枝

 こたびと散歩は、どう違うのか。揺れかけると、麻布十番のある古い理容室を思い出す。そう、あれは私にとってたしかに小旅(こたび)だった──。

 その理容室は、土曜日の午後、見つけた。
 麻布十番の病院で健康診断がおもいのほか早く終わり、午後がぽっかり空いた。なじみのない街にせっかくきたのだから、この界隈でのんびりしてみようと決めた。
 こんなとき、私はまず床屋さんを探す。
 美容室ではない。できるだけ古くからやっている、地元客の多そうな家族経営の床屋さんだ。「理容室」というと、ちょっとかたい。「床屋さん」と呼ぶのが親しみやすくて、私にはしっくりくる。

 それらしい床屋さんを見つけると、ぶしつけに店のガラスや看板周りをキョロキョロする。「お顔そり」「レディースシェービング」というポスターや張り紙を探すためだ。
 銀座、新橋、秋葉原。出張先の地方でも、不意に時間が空いた時、そんなふうにしてポスターのある店を見つけて、顔そりをしてもらったことがある。

 麻布十番でも、久しぶりに顔そりを受けたくなった。あのほわほわモコモのあたたかな泡に、しょりしょりーっと滑らかな刃が頬を滑る感じ。絶対に家庭で味わえないプロの技術に存分に浸りたい。
 私が好んでいく昔ながらの床屋さんはどこも、顔そりのあと、化粧水のパッティングやフェイスマッサージ、パックがセットになっている。気持ち良すぎて最後は寝てしまうこともしょっちゅうだ。
 エステサロンにも劣らぬような至れり尽くせりのフルコースで、顔そり込み4千円前後。なのにお代は、サロンの半分以下だ。
 顔そりをすると、化粧ノリが良くなり、フェイシャルマッサージによって肌が数日は柔らかい。あんな夢見心地の床屋さんの顔そりは、もっともっと女性も利用したらよいと思う。

 麻布十番の賑やかな商店街から少し入った雑式通り沿いに、その床屋さんはあった。築年数は経っていそうだがこぎれいなビルの1階で、奥に広い。のぞくと息子さんらしき人と7、80代の女性が笑顔で立ち働いている。経験上、親子に違いないとわかる。個人経営の理容室は家族経営が多い。女性は、180度に倒した椅子に寝るお客さんに刃をあてていた。
 迷わず、「顔そりをお願いしたいのですが」と飛び込みで入る。少し驚かれた様子で、「1時間半後なら」と言われた。
 ああ常連さんが多いのだなと思った。お客は全員男性だった。見慣れない顔の中年の女が、予約もなしに入ってきたらそれは驚く。

 その間、商店街をあっちに行ったりこっちに来たり。
 豆源本店で菓子を買い、更科で蕎麦を食べる。パティオ通りのきみちゃん像は、童謡の「赤い靴」に歌われた女の子だそう。実在のモデルがいたとは驚いた。チーズが3割引きになったワイン専門店を物色し、いかにも古そうな呉服店を買う予定もないのに覗く。思ったより浴衣が安かった。

 楽しい暇つぶしをして、満を持して約束の時間に店に行くと、やさしそうなお母さんが「さあさあどうぞ」と促してくれる。相棒はやはり息子さんだそうで、この地で長く店を営んでいるという。

 そのお母さんの手が柔らかで、気持ちがいいこと。顔そりからフェイシャルエステまで、魔法にかけられたようにリラックスでき、脳みその芯まで癒やされた。
 施術の間、いろんな話を交わす。80代のお母さんは見習いの頃、昭和39年の東京オリンピック選手村で、理容室の手伝いをしたとのこと。
「柔道の外国の選手の髪を切ってね、そのときのことを誰かに話したら、取材させてくれって来て。これがその本なの」
 ノンフィクション作家が書いたオリンピック物語に、何ページにもわたって彼女のことが綴られていた。
 私も書く仕事をしているのだと言うと、「じゃあこの本貸してあげるわ」。「でもこれ貴重なものでは……」「1冊しかないから差し上げることができないんだけど、そのうち返してくれればいいから」。
 ぜひとも読みたかった私は、それ以上遠慮をしなかった。

 この街で子育てをしたお母さんは学校のことや、どのようにして共働きを乗り越えたか、麻布十番のお祭りについても詳しい。自主的に景観のために洗濯物を室内に干していることや、興味深い商店街の冠婚葬祭のエピソード、昔から残っているお店はどれか、この辺の人たちは食事はどこへ行くのか、尋ねると楽しそうに話してくれた。焼き肉ならここ、甘味なら私は渋谷や新宿に足を伸ばしちゃうわね、と。

 床屋さんという空間は、外の街から来た者にとってその街らしさを端的に堪能できる社交場だ。同じく飛び込みで入った銀座のはずれの床屋さんでも、秋葉原でもそう思った。街の大小の情報、常連客が持ち込む街の日常にあふれている。街の歴史も聞ける。顔そりは、一対一で対面している時間も長いから、よけいそう感じるのだろう。

 この床屋さんのおかげで私は、麻布十番という街にぐんと親しみを持った。誰かに聞かれたら、知ったかぶりをしてこことあそこの店入ったほうがいいと威張ってしまう程度に。

 旅は、人とのふれあいも醍醐味だ。行くたび担当者が変わる大きな店や、チェーン店、顔そりができない美容室にはない「床屋さん」ならではのふれあいもまた一興。
 だから私は、長く営む家族経営の小さな店を探す。

 

 じつは、血圧の関係で定期的に麻布十番の病院に通っていたのだが、最近は通院の必要がなくなり、お母さんにしばらく会えていない。あの頃は必ずこのお母さんに顔そりをしてもらっていた。
「ラジオであなたの本、朗読してたわよ。嬉しくなっちゃった」と言われたり、息子の結婚式には、パートナーにお母さんの顔そりを勧めたりもした。あとからきいたら、ご祝儀代わりにとんでもなく割り引いてくれたらしい。

 何度か通った頃、お母さんに聞いたことがある。
「あのとき、どこの誰かもわからない私によく大切な本を貸してくださいましたね。そのまま私がこなかったらどうしようと思わなかったのですか」
「長年こういう商売やっているとね、なんとなくわかるの。この人、きっとまた来るって」

 床屋さんは、旅人を待つ旅籠のようなものかもしれない。

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ある日、逗子へアジフライを食べに ~おとなのこたび~

早朝の喫茶店や、思い立って日帰りで出かけた海のまち、器を求めて少し遠くまで足を延ばした日曜日。「いつも」のちょっと外に出かけることは、人生を豊かにしてくれる。そんな記憶を綴った珠玉の旅エッセイ。

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大平一枝

文筆家。長野県生まれ。大量生産、大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に「東京の台所」シリーズや『人生フルーツサンド』『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』『そこに定食屋があるかぎり』など。「東京の台所2」(朝日新聞デジタル&w)、「自分の味の見つけかた」(ウェブ平凡)、「遠回りの読書」(サンデー毎日)など各種媒体での連載多数。

HP:https://kurashi-no-gara.com/

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