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35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる

2025.06.04 公開 ポスト

「親族に遺伝性がん患者がいる。自分は…?」可能性を持つ人たちへの影響を考える飯塚理恵(哲学者)

32歳の不妊治療中に遺伝性乳がんが発覚した哲学者である飯塚理恵さんが、その治療の経緯と子どもを諦めたくない気持ちを綴ったエッセイ『35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる それでも子どもを望むということ』が発売になりました。本書の一部を抜粋してお届けします。

病的な遺伝子変異が人生に与える影響を想像してみる

どこの親族にも、おしゃべりな人がいる。その存在の良し悪しは一旦置いておいて、ひとたび誰かがHBOC(遺伝性乳がん卵巣がん症候群)であるという知識が家族に共有されたら、きっとその情報は、そうしたおしゃべりな人を通じて親族中を駆け巡るだろう。

そして、親族の中に若い女性がいた場合、「あなたはもしかしたら、若いうちに、乳がんや卵巣がんになるかもしれない」という情報がもたらされる。男性の場合は、「あなたはもしかしたら、人生のどこかで前立腺がんや男性乳がん、膵臓がんになるかもしれない。それと、将来娘ができたら50%の確率でとてもがんになりやすい体質が受け継がれる」といった情報かもしれない。こうした情報が、どの程度告知された者の人生を左右するのかは、大きな個人差があり、一般化できない。

わたし自身、告知から約2年が経った今、毎日ずっとHBOCのことを考えているわけではない。しかし、自分ががんになりやすい遺伝子変異を持っているという情報は、頭の中の開きやすい引き出しに、いつも入っているような感覚だ。

たとえば、今晩の献立を何にしようかとか、長期休暇の旅行はどこに行こうかとか、忙しくなりそうな仕事のオファーを引き受けるべきだろうかと考える際に、その引き出しが、すーっと勝手に開いてくる。美味しそうだが体に悪そうな食事を見たり、長期フライトや時差を伴う旅行を想像したりすると、そこで経験できるはずの楽しい感覚や出来事への期待と共に、自分の体力やがんになりやすい臓器への負担、疲れや睡眠リズムが狂ってしまうことで、体にダメージがあるのではないかという不安が頭をよぎる。

HBOCという知識が、生活習慣を変えることもある。

わたしは学生時代、パキスタン人の親友から水たばこ(シーシャ)の楽しさを教えてもらった。2週間に一度くらい水たばこをぼーっと数時間かけて吸いながら友人とおしゃべりしたり、一人で本を読んだりする、ゆっくりとした時間がとても好きだった。また、研究発表の前など、ストレスがかかるときは水たばこを吸う頻度も高くなった。

しかし、がんの告知を受けて以来、わたしはほとんど水たばこを吸わなくなった。喫煙は乳がんの診断ガイドラインでも、発症リスクを上げる証拠があることが示唆されているからだ。わたしにもう乳腺はないが、BRCA2遺伝子の病的変異を持つ人は、膵がんや卵巣がんのリスクもある。水たばこはHBOCでなければ続けていた習慣かもしれないし、煙の中でゆったりと思索に耽るあの時間を、とてつもなく恋しく思うこともある。

日常生活の健康リスクはみんな平等に抱えていることで、何もHBOCだけが例外ではないと思う人もいるだろう。もちろん、これは程度の問題だろう。しかし、20代や30代で、事あるごとに「がんになるかもしれない」と不安に襲われる日々を過ごすことを想像してみてほしい。

そうした知識がわたしたちに与える影響は、その人の不安傾向がどれだけ強いか、リスクをどれだけとるタイプかといったことによっても変わるだろう。

不安傾向が強い人は慎重な人でもあるだろうし、リスクをとる人は物事に動じない代わりに、自分を危険に晒してしまうこともあるかもしれない。どちらの性格を持っていても物事がうまく働くこともあれば、うまくいかないこともある。そうした傾向を持つこと自体が良いとか悪いとかは言えないだろう。

しかし、不安傾向が強い人が、HBOC(遺伝性乳がん卵巣がん症候群)だった場合、「がんになるかもしれないから○○はしないでおこう。△△するのはやめておこう」と考える機会は多くなるだろう。こういったことが重なれば、人生の始まりの数十年間で、自分の人生の持つ可能性を極端に狭めてしまうことになるかもしれない。

また、子育てがかかわってくると、この問題はより複雑さを増す。不安傾向が強くて、自分が子どもにとっての最善を判断してあげられると思う親ほど、おそらく、HBOCの子どもの人生への介入は増えるのではないか。

たとえば、子どもが、日本ほど医療制度が整っていない国に移住したいという夢を抱いているとしよう。それはサッカー留学かもしれないし、国際協力団体に入りたいのかもしれない。もしその子がHBOCだとわかっていたら、あなたはもしかしたら、我が子の健康を心配して、「日本にいた方がサーベイランスを楽に受けられて、安心して生活できるんじゃない?」と思うかもしれない。そうした思いから、娘や息子に、決断を思い留まるようアドバイスをするかもしれないし、「わたしはその夢を応援できない」と、強い形で反対することもあるだろう。

いずれの思いや行動も子どものためを思って、良かれと思ってなされるだろう。でも、その介入が強ければ強いほど、子どもの人生の可能性は狭められてしまうかもしれない。

わたしの親族の「知らないでいる権利」は守られたか?

遺伝子検査が保険適用で行われることになり、わたしを含め、今まで自分がHBOC(遺伝性乳がん卵巣がん症候群)だと知らなかった人たちがどんどん、自分の病的遺伝子変異の存在について知るようになってきている。わたしの例で言えば、父からの遺伝でHBOCであることが判明したために、父方の親族、たとえば、父の兄弟姉妹、その子どもや孫たちにも、HBOCではないかという可能性が生じている。

わたしが遺伝性のがんであるという情報を持つことで、特に父方の親族の若い女性たちは、自分もHBOCかもしれないという事実に向き合わなければならなくなり、半分告知されたような状況に置かれる。彼女たちはきっと「あなたも、りえおばさんのようになるかもしれない」と言われているのだろう。

でも、そもそも彼女たちは、そうした情報を知りたかったのだろうか。生命倫理学では、遺伝学的情報を知らされたくないという人は、「知らないでいる権利」を持つと考えられ、そうした権利がどんなものかが研究されている。HBOCは遺伝病の中でも、確立された治療や予防方法、または病気の進行を変えるかもしれないアプローチが存在している病気であるために、遺伝子変異が見つかった場合、本人がその事実を知ることが有益であると考えられている。

しかし、こうした対処の可能性がある遺伝病と違って、自分が重大な病的遺伝子変異を持っていると知っても、その病気に有効な治療法や予防法が何もないのであれば、保持者(病的遺伝子変異を持つが病気を発症していない者)の受けるショックは計り知れないものとなるだろう。知らないでいる権利は、後者のような条件において、より尊重されるべきものとなるはずだ。

現状、未成年のうちには、HBOCががんにならないためにできる予防法は確立していないため、対処可能性は低い。そして、遺伝学的検査では「自己決定」が重視されるため、基本的には自己決定が難しいとされる未成年の検査は推奨されていない。

同意能力も対処可能性もない、未成年のHBOCは「知らないでいる権利」を尊重すべき例に思われるだろう。おそらく、わたしの父方の親戚のうち、未成年の子たちはすぐに遺伝子検査を受けることはないだろう。でも、わたしの存在を知り、半分ほど告知を受けたような状態は、完全な告知とどれほど質的に違うのだろうかと疑問に思う。

わたしがHBOCであるという知識が彼女たちにもたらされたとき、そうした情報を開示した者は、彼女たちの「知らないでいる権利」を害してしまったのだろうか? HBOCである可能性さえ知りたくなかった、という子もいるかもしれないし、半分知らされるくらいなら、宙ぶらりんな状態にいるよりも、きちんと検査して白黒はっきりつけてほしいと感じる子だっているかもしれない。そうした個人差をルールに反映することは難しい。基本的には、未成年への遺伝情報の共有は、より慎重に行われねばならない。

知らないでいる権利について、外野にいる者たちが熟慮に基づいて議論できることには限界があると思う。少なくとも、遺伝病の当事者・家族を含めて議論をしていくべきテーマだろう。こうした懸念を知り、遺伝子検査なんてすべて禁止してしまえば良いのにと感じる読者もいるかもしれない。しかし、未来はそういう方向には進まないだろう。

「「個別化医療」の時代にがんになるメリット・デメリット」で述べたように、時代は個別化医療・精密医療に邁進しているし、そのメリットはデメリットをはるかに上回る。今まさにがんになってしまい、有効な治療法を探している患者の命を救うことは、保持者の「知らないでいる権利」への配慮よりも緊急性の観点から、優先されるはずだ。とはいえ、人生の始まりの可能性に満ち溢れた時期に、大きな病気になるかもしれないという情報を無防備な状態で与えられて、その後の人生が台無しになったと感じる人が出てこないように、わたしたちは努めねばならない。

こうした問題に唯一の対処法はないが、一応の相談窓口が存在する。それが遺伝カウンセリングである。HBOCの当事者が、家族への情報共有について迷う際、まず頼りにすべきなのは適切な科学的情報を、中立の立場から提供することを仕事としている、認定遺伝カウンセラーだろう。自分と同じ立場の人の意見が知りたければ、当事者団体に入ったり、当事者団体の主催するイベントに参加したりすることも一つの策である。HBOCにはNPO法人クラヴィスアルクスという当事者団体が存在し、全国で活発に遺伝性乳がん卵巣がん症候群についての啓蒙活動が行われている。

あなたがHBOC(遺伝性乳がん卵巣がん症候群)やその他の遺伝病の当事者であり、ここで紹介したような問題に直面する場合、一人で悩まずに、ぜひ仲間や協力者を見つけて情報を共有してみてほしい。それが、病的遺伝子変異のせいで「人生が台無しになってしまった」と思いつめることを防ぐ助けとなると信じている。

関連書籍

飯塚理恵『35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる それでも子どもを望むということ』

子どもがほしい。でも病気は遺伝させたくない。 32歳の不妊治療中に発覚した遺伝性乳がん。今の日本では、子どもに病気を遺伝させない技術が使えない。なぜ――? 遺伝性がん患者の着床前診断は本当に「命の選別」なのか? わたしは哲学者として、答えのない問いを考え続けなければならない――。日本社会が長く目を逸らしてきた問題に勇敢に挑む。

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35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる

『35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる それでも子どもを望むということ』について

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飯塚理恵 哲学者

広島大学共創科学基盤センター 特任助教。1989年北海道生まれ。2012年お茶の水女子大学文教育学部卒業、2014年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了、2020年エジンバラ大学にて博士号を取得。専門は、現代分析哲学、認識論、倫理学、フェミニスト哲学。2022年に遺伝性乳がんが発覚。自身ががん患者・遺伝病であることを生かしながら生命倫理学やELSI/RRI研究を行い、当事者の視点を社会にどう反映させられるかという観点から研究に取り組んでいる。

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