
32歳の不妊治療中に遺伝性乳がんが発覚した哲学者である飯塚理恵さんが、その治療の経緯と子どもを諦めたくない気持ちを綴ったエッセイ『35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる それでも子どもを望むということ』が発売になりました。本書の冒頭を抜粋してお届けします。
映画『ソフィーの世界』を見てからの夢が叶いそうなときに
2022年の5月の終わり、日本で最も歴史ある哲学の学会である日本哲学会に出席するため九州大学にいた。32歳の春だった。
20代の後半、イギリスの北部スコットランドに留学した。エジンバラという都市で約4年間学び、2020年の3月、世界がコロナ禍で閉ざされる直前に博士号を取って日本に帰国。2020年からは大阪に住み、関西大学でポスドク(PD)研究員となり、非常勤講師として哲学やクリティカル・シンキングを授業で教えたり、論文を書いたりして過ごした。イギリスで博士号を取り日本に帰国して2年が経っていた。
ポスドク研究員という3年間の任期つきの職の、最後の年次が始まっていた。この学会発表が終われば、全国の大学が翌年4月採用の講師や助教という職の公募を出し始める。つまり、若手研究者としてのわたしの就職活動が本格化する、そんな時期だった。九州大の学会では、学生の頃からの知り合いの先輩たちから激励を受けた。来年にはどこかの大学で、哲学の先生になれるかもしれないという期待が膨らんだ。
中学生のとき、映画『ソフィーの世界』を見てから、わたしの夢は哲学者になった。「ソフィーの世界」は少女が西洋哲学の歴史上の偉人に会う旅で、ソフィーはそのまま当時のわたしの憧れとなった。地元の高校を卒業し、上京して大学へ、その後は大学院へと進学し、哲学と呼ばれる分野の勉強を約15年続けてきた。
中学生の頃に思い描いていた哲学者のイメージは、海外の分厚い本に囲まれて、歴史上の哲学者の著作を原語でじっくりと読み、その著者の考えについての理解を深めることを通じて世界の理解を広げる、職人肌の人という感じだった。しかし、現在の自分の哲学研究は、現在社会が抱える実践的な倫理課題をどうしたら少しでも解消できるのか、世界中に実在する学者たちと共に議論している、と言った方が近い。二つの哲学の研究スタイルはかなり異なるにせよ、幼い頃からの「哲学の研究者になる」という途方もない夢が少しずつ現実味を帯び、もう少しで夢が叶いそうで、すべてがキラキラして見えていた。
学会から帰って1週間くらい経った頃、大阪の自宅で、ふと自分の右胸のしこりに触れた。週末に夫と焼肉を楽しんでいるときだったと思う。何だろう、この大きなしこり。いつからだろう、悪いものだったらどうしよう、という不安が体中にぶわっと広がった。週明け、わたしはすぐに近所で乳がん検診を受け入れているクリニックに行くことにした。
クリニックに行くことに葛藤はなかった。わたしは自分が置かれている状況がわからない、宙ぶらりんな状態が一番苦手だった。手で触るとすぐそこに感じられるしこりが、一体何なのか、とにかく早く知りたかった。
クリニックの医師は、「右胸の乳首から血が出ていますね」と告げた。ひとしきりエコーをすると、大きな病院を紹介すると言う。それから数日後には、わたしは大阪大学医学部附属病院(阪大病院)の乳腺外科の初診に来ていた。物事が進むスピードの速さが、状況の悪さを反映しているようだった。
6月の初めには、初診時に採った細胞の検査結果(細胞診:1~5段階評価で5は乳がん)からクラス5と判定され、早々に乳がんであることがわかった。32歳で、乳がんになった。
主治医は、検査台に呆然と横たわるわたしに、今年になってAYA世代(15~39歳の若年の患者を指す)の乳がん患者をもう数名診ていると言った。乳がんは女性のがん罹患者数第1位、今や9人に1人の女性が乳がんになる時代とは言うが、32歳はあまりに早すぎるではないか。マンモグラフィー、造影CT、造影MRI、骨シンチグラフィー……、あっという間に1週間の予定が体中の検査で埋まっていく。
さらに主治医は、「年齢が若いから遺伝性の乳がんの検査もしましょうか。親族に乳がんや卵巣がんの患者さんはいますか?」と聞いてきた。わたしのがんが、もしも遺伝性とわかれば、阪大病院ではさまざまなサポートができるらしい。その月なら、もうすでに色々な検査をする必要があるから、おそらく医療費の限度額に達し、患者にとって実質追加負担なしでがんが遺伝性かどうかの検査もできるという(医療制度については第2章でまた述べる)。わたしはわが家が特別がん家系だと聞いたことはなかったが、患者の懐具合まで考えてくれる優しい主治医の言葉に、軽い気持ちで二つ返事に検査をお願いした。
乳がんのサブタイプが妊活を左右する
乳がんであることがわかると、次に、その乳がんがどんなサブタイプなのかを明らかにしなければならなかった。乳がんはいくつかの種類に大別され、どのサブタイプかによって、その後の治療期間や方針も大きく異なるからだ。
サブタイプの可能性は4種類(5パターン)あった。まずは、女性ホルモンががんの増殖にかかわる「ホルモン受容体陽性乳がん」がある。ホルモン受容体陽性乳がんはルミナルと呼ばれ、乳がん全体の7割を占めるほど多いとされる。ホルモン受容体陽性乳がんの中には、がんの増殖スピードが遅いタイプのルミナルA型、速いタイプのルミナルB型の区別がある。
次に、がんの増殖にかかわるHER2タンパク質ががん細胞の膜に発現している「HER2陽性型」かどうかを調べる。HER2陽性型の場合には、そうしたサブタイプに合った治療法が存在するためだ。HER2陽性型には、ホルモン受容体陽性かつHER2陽性の、ルミナルB型(HER2陽性)と、ホルモン受容体は陰性でHER2のみが陽性のピュアHER2型の2種類がある。
そして、がんの増殖に、女性ホルモンもHER2タンパクも関係がない、「トリプルネガティブ型」と呼ばれるサブタイプが存在する。
以上の4種類(5パターン)のサブタイプのうち、わたしの乳がんはどの種類かを知ることができれば、その後の治療の方針が決まってくるのだ。
しかし、乳がんと言われてから、わたしのサブタイプがわかるまで、1ヶ月以上かかった。大学病院の病理検査部は多忙であり、恨み言を言う気はないが、今後の治療方針が定まらなかったこの時期が、一番混乱していたし、宙ぶらりんな状態に焦燥感を覚えた。突然、今後10年間の人生の見通しがまるっきり立たなくなったのだ。
わたしを悩ませたのは、治療の長さ、予後の悪さ、妊活への影響だ。ホルモン受容体陽性の乳がん、つまり、女性ホルモンが原因で生じる乳がんであれば、女性ホルモンを止める治療が良く効くことが知られている。がんに有効な治療法が存在するのは長所である。そして、ホルモン受容体陽性乳がんの中でも、がんの増殖が穏やかなルミナルA型であれば、予後も良いとされ、長期の生存が期待できる点が何よりも魅力的だった。
しかし、ホルモン治療は5~10年と長期にわたるという問題がある。閉経前のホルモン受容体陽性乳がんの患者には、タモキシフェンと呼ばれる薬が処方されるが、こうした薬を飲んでいる間は妊娠が禁忌であることが気がかりだった。32歳のわたしが10年間のホルモン治療をすれば、42歳になってしまう。
ホルモン受容体陽性乳がんのうち、がんの増殖スピードが速いルミナルB型には、ホルモン治療だけでなく、数ヶ月間にわたって抗がん剤が投与されることも多い。HER2陽性型の乳がんには抗がん剤に加え、がん細胞のHER2タンパクの増殖を阻止する分子標的薬と呼ばれる薬が約1年投与される。また、ホルモン治療やHER2を標的とした治療が効かない、トリプルネガティブ乳がんは比較的予後が悪い乳がんと言われている。しかし、抗がん剤(化学療法)が主な治療となるため、数ヶ月~1年程で乳がんの治療は終わってしまう。抗がん剤治療後に体調が戻れば、理論上は、数ヶ月後に妊活を再開することもできるのだ。
このように、治療の長さ、予後の悪さ、妊活への影響の観点から四つのサブタイプを考えると、どのサブタイプにも長所と短所があるように感じられた。
しかし、そもそも抗がん剤は卵巣機能を低下させることがあるため、どのサブタイプであれ、抗がん剤治療が必要な場合、わたしの体は不妊になってしまう可能性があった。抗がん剤治療が必要な場合、子どもを望むならば将来的な妊活のために、そうした薬を投与する前に受精卵を採取・凍結しておくことができる。こうした措置は、「妊孕性(にんようせい)温存治療」と呼ばれる。乳がんは、どのサブタイプかによって、今後数年の治療計画が大きく異なるため、それに応じて家族計画にも大きな影響が生じる。
また、抗がん剤治療が必要になれば、現在の仕事を休職するか否か、就職活動を中断すべきかといった、キャリア上の大きな変更も余儀なくされてしまう。
2022年はわたしにとって、就職活動の年になるはずだったのだが、体に大きな負担のかかる治療が予定されれば、現在の職務を一時中断して1年後に再開するという休業の可能性も検討しなければならない。知りたい。一刻も早く自分のがんのサブタイプを知りたかった。しかし、無情にも、わたしの乳がんの詳細な情報はなかなか更新されなかった。
より詳しい細胞の生検(針生検・組織診)のために何度も通院するたびに、病理検査部からがんの情報が少しずつ更新された。わたしの乳がんの正体は、ゆっくりと明らかになっていったのだ。
「がん細胞の増殖スピードの指標であるKi(ケイアイ)67が50%と高値で、がんの細胞分裂の状態を示す組織学的グレードが1~3段階のうち最も高い3でした。顔つきの悪いタイプのがんのようですね」と、主治医は言った。
サブタイプはまだはっきりとわからないのに、早々にルミナルA型の可能性だけは除外されてしまった。進行度にもよるが、ルミナルA型の患者は抗がん剤をしなくても良いことが多いと言われていた。わたしはこの時点で、抗がん剤治療をすることが決定的となった。細胞診では良性とされた、自覚もなかった左胸の小さなしこりも、造影MRI検査で引っかかってしまい、詳しい検査をすることになった。あっという間に両側乳がんの可能性まで出てきてしまい、もう目の前は真っ暗だった。
35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる

『35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる それでも子どもを望むということ』について