JR京都駅から15分。風に吹かれながら鴨川に沿って歩いていくと、昔ながらの町家や商店が連なる一角へと入る。ゆったりとした時間が流れる通りのその先にアールデコ調の装飾が施された4階建てのレトロモダンな洋館が見えてきた。サンドベージュのタイルを張り巡らせた外壁。花緑青(はなろくしょう)の真鍮の表札には「トランプ・かるた製造元、山内任天堂」とある。山内任天堂とは、任天堂が世界的ゲームメーカーに成長するよりもずっと昔、花札やトランプを製造していた頃の呼び名。「丸福」はその屋号。長らく使われていなかった、この歴史的建造物がホテルとして蘇ったのが「丸福楼」なのだ。
表札と同色の玄関の扉には黄金色で「MARUFUKUROU」の文字。一歩足を踏み入れると、そのふたつとない空間に「!!!」。今はもうなかなかお目にかかれない細かいタイルの床、市松模様の大理石の壁。アールデコ調のデザインが施された窓格子の下では等身大のシロサギのオブジェが出迎えてくれる……と思ったら、あれ? シロサギはこちらに背を向けている。その視線の先、天井では魚が飛び跳ねている。天地が逆!? 日常がくるりと裏返るような、心地よい違和感。いきなり愉しい。
いざチェックイン。年代モノの木箱が置かれたフロントの前を通り、ゲストラウンジへ。ほの暗さの中、やわらかく滲む琥珀色の灯りにブラインドから入る自然光がまじりあう。任天堂旧本社で使われていた皮張りソファに腰をおろし、ウェルカムティーのほうじ茶を飲んでいると、昔懐かしい応接間で寛いでいるような気分だ。窓際に置かれた年代もののデスクにはレゴで作られたミニチュアモデルが。応対してくれたスタッフが、小さな丸福楼を指さしながら、このホテルは旧任天堂社屋(事務所、倉庫、住居)を受け継いだ既存棟と安藤忠雄設計による新築棟の4つの建物から成るのだと教えてくれた。今回泊まるのは既存棟と新築棟がつながる、一部屋で二度おいしい客室だ。いったいどんな設えになっているのだろう。渡された真鍮の鍵は心地よく重い。
客室は4階なのに、エレベーターは3階まで。ドアを開け、階段をのぼった先にまたドアが。隠し部屋に入っていくようにワクワクする。そおっとドアノブを引く。おおっ。飴色の格子窓から入る光が緑を基調としたリビングを照らす。かすかに色褪せた花緑青のソファに身をしずめ、部屋を見まわす。壁の小さな傷や木目、ファブリックの経年変化……折り重なる時間がそこにある。ふと、バスルームへとつながる短い廊下で視線がとまる。差し込む陽の加減で常盤色のカーペットが青みがかって見える。ただそれだけなのに、眺めているだけで不思議と満たされる。これが既存棟の持つ力。腰をあげ、隣の寝室へ。こちらは大きな窓から自然光が入る真綿色を基調とした造り。シンプルかつモダン。空気がふわりと軽くなる。リビングとはまるで違う。でも、違和感なくつながり古い空間だからこそ出せる深みと新しい空間だけが持つ軽みが穏やかに共存している。ふたつの部屋を行ったり来たり、新旧どちらの良さもたっぷり味わえる。
格子窓から入る陽が翳ってきた。そろそろ、館内ツアーの時間だ。既存棟と新築棟の4つの建物は、任天堂がこの地で作っていたトランプの絵柄にちなみスペード、ダイヤモンド、ハート、クローバー棟と名付けられている。中でもひときわ目を引くのが倉庫として使われていたクローバー棟の階段わき。♧マークの照明のもと、商品を出荷する際に使われていた旧式エレベーターが往時のままの姿でオブジェのように佇んでいる。
スペード棟の2階ある「dNa」ライブラリーも見逃せない。デジタルアートで表現された花札や初代ファミコン、これまで任天堂が発売してきたゲーム機、書籍が並び、任天堂の歩みに触れることができる。その隣のバーカウンターでは自分好みのカクテルを自由に作ることができる。しかも、オールインクルーシブルなので飲み放題♪ とにかく館内、至るところに任天堂のDNAあり。階段の踊り場に残るステンドグラス、天井を飾る装飾、大理石、幾何学模様の壁紙、旧式のタイムカード、消火栓、柱時計……花札やトランプを扱っていた創業当時の遺産が、新たに手をくわえられた部分と溶けあい、ホテルを彩るアートとして息づいている。
館内ツアーでもうひとつ気になっていた場所。それは新築棟一階のダイニングラウンジだ。安藤忠雄による寄贈品や草間弥生のアートで囲まれたこの空間は24時間利用できて、ドリンクや生ハム、チーズなどがいつでも食べられる。お目当ては夜食の「うなぎり」。カウンターに置かれたセイロから取り出すと、程よい温度。だし汁とお茶漬けセットと共に、臙脂色のソファに戻って食す。まずはおにぎりの状態でひとくち。うなぎの柔らかさがふわりと広がり、濃すぎず薄すぎず、噛むほどに甘辛いタレがゆっくりしみ出てくる。ああ、口福なり。もうひとくち、さらに……。うん? この食感。ぴりりと辛い実山椒がたまらない。口の中がリセットされたところで、海苔とあられ、ワサビを加え、だし汁をまわしかける。サラサラとうな茶をかきこみながら、頭に浮かぶのは次の予定。部屋に戻ってまったりしたいような、エントランス前のアオサギと共に長い廊下を眺めたいような。それとも「dNa」ラウンジのバーへ行って、カクテルでも作ってみるか。いや、せっかくだからもう一個、「うなぎり」を食べてから……。はてさて、何をしよう。贅沢な悩みとともに丸福楼の夜は更けていく。
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暮らすホテル

遠くへ出かけるよりも、自分の部屋や近所で過ごすのが大好きな作家・越智月子さん。そんな彼女が目覚めたのが、ホテル。非日常ではなく、暮らすように泊まる一人旅の記録を綴ったエッセイ。










