かつて「日本一有名なニート」と呼ばれ、定職につかず、家族を持たず、気ままに生きることを最上の価値としてきたphaさんが、年を重ねるなかで感じた自身の変化。最新刊『パーティーが終わって、中年が始まる』から、若さの魔法がとけた人生と向き合う日々を抜粋してお届けします。
ずっと練習のような気持ちで生きてる
壇上に上がると、客席はすでに人で埋まっている。照りつけるスポットライト。正面にはオンライン中継用のカメラ。自分の名札が置いてある席に座って、最後に一瞬だけ、今日話すことを書いたメモを見返す。
話の流れというものがあるので大体いつも用意した内容はほとんど話さずに終わるのだけど、それでもあらかじめ準備をしてしまうのは、とっさに何か話さないといけなくなったときに頭が真っ白になって黙り込んでしまいがちだからだ。保険としてある程度の話題のストックを持っておかないと不安なのだ。何も持たずにステージに上がってその場のノリで話しまくれる人は自分とは別の生き物だと感じる。
トークイベントに呼ばれることがときどきある。呼んでもらえることは光栄だし、会いたい人と話せるのはうれしいのだけど、しかし何度やってもずっと苦手感がある。慣れない。
昔から、一回こっきりで失敗したら取り返しがつかない本番というものが苦手だ。
小学校の頃のお遊戯会から最近呼ばれる書店などでのトークイベントに至るまでずっと、舞台の上に立つといつも、記憶が飛んでしまう。壇上でのことはいつもうっすらとしか覚えていなくて、本当にあったことなのか疑うくらいだ。緊張し過ぎているせいなのだろうか。
トークが得意な人は、調子よく話している最中も、自分が客席からどう見えるかという冷静な視点を持っているのだろうと思う。
自分は真逆だ。舞台に上がると状況が何もわからなくなって、霧の中でひたすら目の前にある壁を殴っている、という感じで、気がつくと一時間半くらいが過ぎて、終わっている。それがトークイベントだ。
話すよりも書くほうが好きなのは、文章にはリアルタイム性がないからだ。失敗したら何度でも書き直して、満足が行くところまで直してから人に見せればいい。安心感がある。
いつも、うんざりするくらい何度も書き直しをする。一度完璧に書けたと思ったものでも、翌日に見直すととてもアラが目立つ。そのアラを全部直しても、また次の日に読み返すと直したくなるところが出てくる。その作業を三回くらい繰り返すと、ようやく直すところがなくなる。
世の中には一発で完成に近い状態まで持っていける人もいるのだろう。そういう人は多分、舞台の上でも一発で満足のいくパフォーマンスができるのだと思う。憧れる。
自分はとっさの反射神経が弱いのだろう。アドリブや新しい状況に対応するのが苦手で、不意をつかれたり、予想外のことが起こると、何も出てこなくなってしまう。
そんな感じなので、今まで本番では失敗ばかりしていて、そして失敗をしたときは、こんなふうに考える癖がついてしまっている。
「今回は失敗したけど、勉強になった。次に活かそう」
一度目でうまくいくなんて、そんなうまい話はない。今回の経験を元にして、だめだった点を改善すれば、次はうまくやれるはずだ。
でも、実際に次に同じような状況になったときには、大体いつも前回のことは忘れてしまっていて、同じ失敗を繰り返すのだ。毎週トークイベントをやっていれば経験値が増えるのかもしれないけれど、そんなに得意なわけでもないから半年に一度くらいしか出演しないし、次にやるときにはもう前回のことを忘れている。そしてまた同じような失敗をする。その繰り返しで全く前に進んでいない。
それでも、「勉強になった」「次に活かせる」とでも思わないと、自分の人生が全く進んでいなくて失敗ばかりのようで、やりきれないのだ。
本当は知っている。トークイベントだけではなく、人生のすべてが一回きりの本番で、やり直しなんてものはないということを。同じ状況なんてものは二度と訪れないということを。
そのことを考えると怖くてしかたがない。ゲームみたいに失敗したらセーブポイントまで戻りたい。パソコンのようにアンドゥボタンやリドゥボタンがほしい。でも、そんなものは存在しないのだ。この世界はハードモードすぎる。
若い頃に読んで、今でも印象に残っているマンガの一シーンがある。
福本伸行『賭博黙示録カイジ』(講談社)の第一巻で、負けると人生が終わるようなギャンブルに負けたのに、パーティーの余興のゲームに負けたくらいのノリで、ヘラヘラ笑いながら退場していくモブキャラが出てくる。それを見た登場人物のひとりがこう言うのだ。
たぶんここまでの人生も
都合の悪いことからは目をそらし生きてきた甘ったれよ‥‥‥‥
おそらくはこの船にいる「今」さえどこかで現実だと思っとらん
半分夢見心地や
だからあれだけ気前よく負けられる
学生だった自分はこの話を読んで、まさに自分のことだ、と思った。
その頃は、現実や社会というものが怖くてしかたがなかった。知らない人に会いたくなかった。本やネットで得た知識だけですべてをわかったような顔をしていた。人生というものに現実感が持てなくて、すべてテレビゲームと同じように感じていた。人生の本番はまだ始まっていない。今はまだ何をやったらいいかわからないけど、そのうちもうちょっとちゃんとできるようになるはずだ。そのときがきたらがんばろう。そんなふうにいつも思いながら、何も行動には移さず、惰性のままにだらだらと無為な毎日を送っていた。
こんなんじゃいけない、というのは、わかっていた。でも、現実というものがよくわからなすぎて、怖かったのだ。
いつまでもいつだって、自分と現実とのあいだには、見えない薄皮が一枚はさまっていて、そのせいですべてがフィクションのように思えていた。どうしたら他の人と同じように、現実をリアルに感じることができるのだろう。もっとちゃんと、現実とつながりたい。この薄皮を取り去りたい。
人生経験が足りないのがよくないのだろうか。切実に生活が困窮したり、事故や病気で死にかけたりしたことがないから、現実感がないのかもしれない。外に出てもっといろんな経験を積めば「本物の人生」を生きられるのだろうか。そんなことをぐるぐると考えて、焦り続けていた。
『カイジ』を読んでいた大学生の頃から二十年あまりが経たって、四十代半ばになった。
この歳になるとさすがに、失敗をしたときに「次に活かせる」と思うのは難しくなってきた。結局、自分はいつまでも自分のままで、自分が陥りがちな思考や行動のパターンからは逃れられない、ということがわかってしまった。
若い頃は、試行錯誤を積み重ねれば、どこかに辿たどり着くのだと思っていた。いつか、完璧な自分になれるのだと思っていた。でも、そうじゃなかった。失敗は何かの糧じゃなくて、ただの失敗だった。自分はどこにも辿り着かず、ずっと中途半端なままで、同じ失敗を繰り返しながら生きていくのだ。
そして、もういい歳になった今でも、現実への現実感のなさは続いている。恥ずかしいから口には出さないけれど、未だに、これが本当に現実なのか、自分の人生というのはこれで本当に全部なのか、と、常にうっすらと思っている。
この現実感のなさは、人生経験を積んだら克服できるという種類のものではなくて、生まれつきの性格の問題だったのかもしれない。それだったらもうどうしようもない。常に見えない薄皮に包まれている、現実感がない状態が自分にとっての現実なのだ。
ただ、生まれつき現実感が薄いという性質にも、ひょっとしたらメリットはあったのかもしれない、と最近は考えることができるようになった。
現実感が薄いせいで、世界全体を外側から眺めるようなところが自分にはあって、そうした物の見方は生きていく上で役に立った場面もあったように思う。また、現実のことが実感できなくてちょっとぼんやりしている感じが、人に対して安心感を与えるところもあったのではないだろうか。そう考えると、自分のそういう性質も悪くないような気がしてきた。
多分、さらに年をとったら、自分が老人になるなんて噓みたいだ、と思っている老人になるのだろう。そして死が近づいてきたら、本当にこれで終わりなのか、人生って噓みたいだよなあ、いろんなことがあった気がするけど、あれは全部本当にあったことなのだろうか、妄想じゃないだろうか、まあどっちでもいいか、ははは、なんもわからん、まあすべてはそんなものだ、という感じで、意識がだんだんぼんやりとしていって、なんとなく死ぬのかもしれない。
それだったらまあそれでいいような気がする。
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