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奈良監獄から脱獄せよ

2023.09.28 公開 ポスト

二-5 警察の取り調べも裁判も、力がある人間でなければ受けられない。和泉桂

時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。

10月8日(日)に、旧奈良監獄で行われる「奈良矯正展」にて、和泉桂さんのトークショー&サイン会の開催が決定しました! 詳細は幻冬舎HPのお知らせにてご確認ください。

(1話目から読む方はこちらから)

*   *   *

今日の印象では、彼は頭が悪いわけではないようだ。

囚人の中には判断力の乏しさや善良さから犯罪に巻き込まれ、再犯を繰り返してしまう者もいる。再教育が難しいので、監獄側もそうした囚人には手を焼いていた。だが、羽嶋はそんな連中とは違って見える。

「うわああーっ! あああー!!」

野太い悲鳴があたりいっぱいに響いた。

ついで、ごっごっという鈍い音。

おそらく、分厚い木の扉に頭か拳かを打ちつけているのだろう。

ぞっとした。

三寸(約9センチ)ほどの厚みの扉は、僕たちが細工できないように内側に鉄板が張りつけられ、見るからに頑丈だ。ここまでの音なら、流血したっておかしくはないはずだ。

「うるせえぞ!」

耐えかねたらしく、囚人のうちの誰かが怒鳴った。

「こら! 声を出すな!」

さすがの僕でも何が起きたのか知りたかったが、扉を開けられないので廊下すら見えない。

外側と監房を明確に隔てるのは、この分厚い扉だった。

とはいえ、囚人たちを密室に閉じ込めれば、どんな悪事を働くかわからない。

そのため、室内を監視する手段が当然用意されていた。

それが視察孔だ。

看守の目線に合わせて高い位置に設けられた横長の覗き穴で、金網が張られている。

扉にはもう一つ穴があり、そちらは食器や排泄箱を出し入れする食器孔で、逆に床に近い場所にあった。こちらは普段は蓋がされている。

ほかに具合が悪くなった場合に備え、看守を呼び出す手段もある。扉近くのボタンを押すと廊下に向けて連絡板がぱたりと倒れ、看守に急を知らせる仕組みだった。

「うあああああああ!!」

なおも叫ぶ男は、称呼番号が偶数だったことしか記憶になかった。

つい最近、それまで収容されていた敷地内の隔離病舎から戻ってきたので、完治したのだろうと思っていた。もともと心が弱かったらしいが、ここに来て急速におかしくなったとの噂だ。

こういうとき、独房なのは有り難い。雑居房で気の合わないやつと二人か三人で空間を共有するのは、絶対に御免だ。相手が羽嶋だったら、こちらが変になりそうだ。

くたくたの薄い布団の上に座り、白い漆喰しっくいの壁に寄りかかって右手の窓を見上げた。

窓の向こうは、とっくに夜のとばりが下りている。

監房は窓の位置が高く、奥行きがあってガラスは手が届かない場所にまっている。身長が五尺二寸(約156センチ)の僕では、背伸びをしてもガラスに指が触れるかどうかだ。当然、窓には逃走防止の鉄格子が嵌められている。

僕がいる四監の窓から見えるのは、お隣の五監の煉瓦の壁だった。

この監獄は町外れに位置し、周囲は農家や監獄の管理する田畑に囲まれている。仮に窓の位置が低くても、風景を楽しむのは無理だったろう。

殺風景な監房は二畳ほどの広さだ。初日に一人になったとき、自分の掌や腕、足を使って房内のすべてを綿密に計測したのでほぼ間違いない。

入ってすぐ、扉の隣にはコンクリートで固めた小さな手洗いがある。ほかには文机ふづくえと円座、排泄箱、それから布団一式。

文机の上には持ち込みを許可された一冊の本と石板、そして石板に字を書くための赤茶けた石筆が置かれていた。

二級では石板以外は持ち込めないので、記録ができない。一級になればペンの持ち込みが可能になる。これが厳しいのは、囚人同士で秘密のやり取りをすることやペンに似せた脱獄の道具を持ち込まれるのを防ぐためだろう。とにもかくにも、早く一級になりたかった。

部屋を弱々しく照らすのは、自家発電ゆえにぼやけた裸電球の光だ。

「……」

ようやく静けさが訪れ、りーんりーんと、尾を引くように長く鈴の音が鳴り響く。分厚い扉の向こう、廊下を歩き回る看守が就寝の合図を響かせている。

もう、こんな時間か。

ここでは何もかもが時間割どおりに進み、体調が悪いなどの不測の事態以外で、レールから外れるのは許されない。当然、自由は極端に制限されている。

僕たちの行動は記録され、評価され、常に更生の度合いを測られていた。

外の世界から隔絶されており、たとえ戦争が起きても知らされず、ここから解放される日を心待ちにするしかない。

思考を巡らせているうちに、僕はあの五文字に辿り着く。

小笠原寧子。

その漢字の並びを、僕はここ二年ほど片時も忘れたことがなかった。

どうして、彼女は死んでしまったんだろう?

僕にとって、それが最大の謎だった。

僕が疑われた原因の一つは、彼女が日記に僕のことを書いていた点だ。しかも、僕に宛てられた手紙には、まだ嫁に行きたくないとの旨が切々と書き連ねてあったそうだ。

そこから警察は、寧子と『親密な』関係にあった僕が、彼女に裏切られたと思い込んで殺害したと断定したのだ。

まったく身に覚えがないが、放課後にしばしば同じ場所で顔を合わせていたのが災いした。

単に小鳥の巣立ちを見守っていただけなのに、それを目にした生徒や教師のあいだで、僕たちが密会していたと噂になっていたのだ。知らぬは当の本人のみだった。

そのうえ、下宿の大家はたまたま留守で、事件当夜の在宅の証明ができる者がいなかった。

朝のうちに京都へ向かったのは、証拠品を消す目的だったのではないかと糾弾きゅうだんされた。

幸い大野は僕に会ったと証言してくれたが、それはもう夕方だ。前夜に寧子をあやめ、何食わぬ顔で早朝の列車で京都へ行くのは十分に可能だった。

弁護士から手紙の内容を知らされたが、あの文面では自殺としか思えない。もしくは、僕が殺していない以上は、真犯人がいるのではないのか。

実際、捜査の初期は僕を容疑者と見なす一方で、自殺と見なす声も強かったと弁護士が教えてくれた。

なのに、いつの間にか僕が彼女を殺したという不出来な筋書きがでっち上げられたのだ。

事態を悪化させたのは、寧子の父親の小笠原重蔵しげぞうの存在だった。

市議会議員で地元の名士である小笠原に同情する者は多く、僕は令嬢をたぶらかした張本人と決めつけられた。おまけに、僕が城山と刃傷沙汰を起こしたと知った地元の新聞社がそれを記事にし、僕は若い男女をもてあそぶ異常者扱いをされてしまった。

そんな罪状はなかったのに、新聞記者たちは僕が寧子を乱暴したうえで殺したのではなどと書き立てたらしい。

母と幼いときの妹以外、異性と手を握ったことすらないのに、笑いごとじゃない。

小笠原は娘を失った悲しみに耐えきれず、僕に責任を押しつけたのだろう。

僕は天地神明に誓って無実だと主張できたし、それを曲げなかった。

けれども、議員である小笠原に比べて、僕は信望も地盤も何もないよそ者だ。どちらが信じてもらえるかなんて、火を見るよりも明らかだった。

僕の態度は罪を認めぬふてぶてしいものだと見なされ、裁判官の心証はどんどん悪化していった。それでも死刑や無期刑を免れたのは、小笠原が僕にいつか改悛の情を見せてほしいと訴えたせいだ。一瞬では死ねず、半端に希望が残る懲役二十年という刑は、僕にとっては最も耐え難い罰だった。小笠原はそれを見抜いていたのだろう。

──もしおまえが何の罪も犯していないのであれば。

不意に、裁判所で判決が出たあと、引き立てられようとする僕に放たれた小笠原の冷たい声を思い出す。

──もしおまえが何の罪も犯していないのであれば、潔白だというのならば、神はおまえを救うだろう。だが、救われないのであれば、それは──

小笠原は熱心なキリスト教の信者で、遅くにできた寧子をたいそう可愛がっていた。地元の名士として評判もよかったし、僕が教師を務める女学校への寄付金も多かった。

持てるすべてを使って戦ってくる相手に立ち向かい、官選弁護人は懸命に弁護してくれたが、無駄だった。

地方裁判所で有罪判決が出たので、当然ながら控訴院に控訴したが、『凶悪犯罪デアルコトハ明白ナリ』との文言を添えられ、あっさりと却下されてしまった。

愕然とした。

僕はこの社会においては、警察の取り調べも裁判も公正に行われると思い込んでいた。だが、それは幻想だった。

真っ当な法の裁きは、力がある人間でなければ受けられないのだ。

控訴を受理してもらえなければそれ以上は手の打ちようがなく、僕は犯罪者としてこの監獄に放り込まれた。

僕にできるせめてもの抵抗は、更生なんてしないことだ。

冤罪なのだから、反省の必要はないはずだ。反省するのは、僕をここにぶち込んだやつらに屈するようで悔しすぎる。

僕は絶対に、この監獄から晴れ晴れと出ていってみせる。

当然、模範囚として減刑されるだけでは意味がない。それでは、僕の罪は消えないからだ。

冤罪を晴らして、ここから堂々とおさらばする方法を僕はずっと模索していた。

関連書籍

和泉桂『奈良監獄から脱獄せよ』

数学教師の弓削は冤罪で捕まり、日本初の西洋式監獄である奈良監獄に収監されていた。ある日、殺人と放火の罪で無期懲役刑となった印刷工の羽嶋が収監される。羽嶋も自分と同じく冤罪だったことを知った弓削は、彼とともに脱獄をたくらむ。典獄からの嫌がらせ。看守の暴力で亡くなった友人。奈良監獄を作った先輩からの期待。嵐の夜、ついに脱獄を実行する――。 人気BL作家が描く、究極の友情。

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