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事実婚と夫婦別姓の社会学

2023.06.05 公開 ツイート

#3

夫婦別姓の法制化を望む人々が、家族破壊者でも個人主義者でもない理由 阪井裕一郎

夫婦同姓が法律で規定されている日本(民法750条及び戸籍法74条1号)。別姓にするなら、いまは「事実婚」にならざるを得ませんが、「“選択的”夫婦別姓」でも法改正がなかなか進まないのはなぜなのか。その背景にある様々な議論の枠組を分析・整理し、議論のもつれをやさしくほぐした書籍『事実婚と夫婦別姓の社会学』(阪井裕一郎著、白澤社刊)より、一部を抜粋してお届けします。

※記事中に出てくる表記——(名前、年代、ページ数)は、本書の引用参考文献です。幻冬舎plusの記事内では文献掲載を省略しています。/本書の注釈も省略しています。/太字は幻冬舎plus編集部によります。

*   *   *

「個人主義」という批判を考える

次に問題化したいのは、同姓原則論者に共有されている、夫婦別姓の法制化を望む人々は「個人主義者」であるという前提である。「夫婦別姓論者=個人主義者」という図式は、加地(1996; 1998)、宮崎(1996)、八木(1996)、長谷川(1996)など多数の論考に見られる。これらの議論の特徴は、まず批判対象を「夫婦別姓=個人主義」と限定化したうえで、その批判を展開することにある。
 

(別姓派に)一貫しているものは、いわゆる家制度への憎悪であり、個人主義への賛美である。(加地1998: 132、括弧内引用者)

(利己的)個人主義を頭の中に打ち込まれた日本人は、それが近代化だ、そうあるべきだと思い込んでいるので、(儒教的)家族主義をひたすら否定しようとするのである。(加地 1996: 98)

別姓推進派の目的は家族破壊にある。(……)彼らが目指すのは、家族というものがバラバラに解体された社会にほかならない。(千葉1996: 23-26)

ひとたび「個人主義」というイデオロギーが出てくると、なにしろあなたは個人であって、あなたがしたいと思うことができること、それが世の中で最上のことなんだ、ということなのですから、誰でも飛びつきますよね。(長谷川1996: 73)

縦横に連なっていた人的紐帯を散り散りに切断し、個々人を寄る辺ない砂粒のような存在に変えてしまう危険性について、彼らはあまり顧慮しない。かつて行き過ぎた個人主義のあとにやってきたものが、野蛮なファシズムであったという記憶も忘却してしまっているようだ。(宮崎1996: 48)

ただひたすら個人主義のひとこと(木村 1996: 200)

 

以上の個人主義批判の言説の特徴は、その主張の論理矛盾や飛躍、妥当性をひとまず置いておくとしても、あくまで【C】または【D】に対する批判でしかないということである。

図の詳細説明は第1回を参照

反対派の議論のいくつかは、確かに【D】に位置づけられる人が不可避的に抱える矛盾を突いているかもしれない。しかし、ここで改めて確認すべきは、「別姓の法制化」の妥当性は、ある意味では「個人主義」と対極にあるとさえ言えることである。「夫婦別姓の法制化」賛成派【B】が志向するのは「法律婚」であり、結婚という二者関係は法律婚として認められるべきと考えている点で、同姓原則論者が批判するような意味での「個人主義者」とは言えない。

しかしながら、賛成派のなかにも「夫婦別姓=個人主義」という主張を展開する場合がある。例えば、柏谷佐和子は、「夫婦別姓をすすめる会」では「家名存続のための別姓はとらないことが了解されている」と述べ、その理由を「家名の存続」が「姓とは個人の名、私とともにある名」という原則に反しているからだと説明する(柏谷1992: 111-112)。彼女は「姓が個人のものとして確立されていないこと」を問題とみなし、「姓とは個人の名、私とともにある私の名である。だから、姓を考えることは誰からも自立した私の生き方を考えること、妻のにせよ夫のにせよ、家の名は否定したい」と主張する。

しかし、このような論理は、選択的夫婦別姓制度をめぐる議論において、同姓原則論者に正当な反論の余地を提供してしまうリスクがある。柏谷においては、夫婦別姓は「家名としての姓」を否定する実践なのであり、ここでは、同姓=家族主義/別姓=個人主義という図式が前提とされている。しかし、こうした論法では、それならば「親子同姓であることはなぜ問題ではないのか」、さらに言えば「それなら姓を廃止せよと主張すべき」という批判を受けることになる。このように姓の本質を一律に「個人名」として論じることには限界がある。

とはいえ、反対派の主張は、「夫婦別姓の本質」という問題と「夫婦別姓の法制化」の妥当性という次元の異なる二つの問題を混同することによって一定の「論理」を得ているだけであって、【B】の主張を否定するための正当性は何ひとつ持ちえていない。たとえ同姓原則論者【A】の主張のなかで比較的論理が一貫しているものでも、それは賛成派の「矛盾」を突くことにのみ終始しており、現行の夫婦同姓原則が正当であることの論拠は提示していないのである。

(写真:iStock.com/RECSTOCKFOOT)

こうした議論を避けるために、賛成派は「個人主義」や「個人名」を選択的夫婦別姓制度の必要性を訴える論拠として展開することには注意深くあるべきだと考える。賛成派が「姓は個人の名である」と定義することは、その定義の妥当性にかかわらず、一つの信条に過ぎないともいえる。こうした(ある種の)「個人主義」の論理によっては、例えば、「家名」の継承を自らのアイデンティティとする人たちの求める「自由」は制約されるべきものとなる。

「姓は個人の名」とのみ断定し、夫婦別姓と夫婦同姓のどちらが正しいのかと問うことは、再び「姓の本質主義」に戻ってしまうことを意味する。「姓を選択する自由」を擁護するためには、「個人主義」ではなく、多様な信条を包摂する「個人の自由」へとその視座を移行しなければならない。この問題は後ほど第3章でも検討する。

夫婦別姓当事者の語りからは、別姓を求める人がいかに多様であるかを知ることができる。にもかかわらず、現実の論争において、同姓原則論者【A】の多くはこうした多様性を無視して、あらかじめ賛成派を同一なものと限定化し批判を展開している。本節では、夫婦別姓をめぐる主な争点について検討してきたが、選択的夫婦別姓制度の実現と今後の展望を考えるうえでは「対立軸」を明確にしておくことが重要だろう。

*  *  *

続きは『改訂新版 事実婚と夫婦別姓の社会学』(白澤社)をご覧ください。

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阪井裕一郎『改訂新版 事実婚と夫婦別姓の社会学』(白澤社)

日本では法律婚での夫婦同姓が定められているため、双方がそれぞれの姓を望む場合は「事実婚」にならざるを得ない。 本書では、「姓」をめぐる歴史や日本社会における事実婚と夫婦別姓についての議論の枠組を分析し、子どもの姓問題やリベラルvs.保守などの二項対立的な議論のもつれをほぐし、真に問うべき問題とは何なのかを示す。また、事実婚当事者へのインタビューを通して、「事実婚」に至った事情や「結婚」や家族についての思いなどがいかに多様であるかを浮き彫りにする。注目度が高まっている「夫婦別姓」の議論を整理するとともに、価値の多様性に家族のありかたを拓く「夫婦別姓」入門。

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事実婚と夫婦別姓の社会学

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阪井裕一郎

1981年、愛知県生まれ。大妻女子大学人間関係学部准教授。慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(社会学)。専門は家族社会学。主な著書に、『仲人の近代──見合い結婚の歴史社会学』(青弓社)、『社会学と社会システム』(共著、ミネルヴァ書房)、『入門家族社会学』(共著、新泉社)、『境界を生きるシングルたち』(共著、人文書院)など。翻訳書に、エリザベス・ブレイク著『最小の結婚』(共訳、白澤社)。

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