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事実婚と夫婦別姓の社会学

2023.05.22 公開 ツイート

#1

夫婦別姓をめぐる4つの異なる主張 阪井裕一郎

夫婦同姓が法律で規定されている日本(民法750条及び戸籍法74条1号)。別姓にするなら、いまは「事実婚」を選ばざるを得ませんが、「“選択的”夫婦別姓」でも法改正がなかなか進まないのはなぜなのか。その背景にある論争の対立軸を明確化し、「家族主義か、個人主義か」「保守か、リベラルか」といった二項図式になりやすい議論の問題点を指摘、議論のもつれの核心をやさしくほぐした書籍『事実婚と夫婦別姓の社会学』(阪井裕一郎著、白澤社刊)より、一部を抜粋してお届けします。

※記事中に出てくる表記——(名前、年代、ページ数)は、本書の引用参考文献です。幻冬舎plusの記事内では文献掲載を省略しています。/本書の注釈も省略しています。/太字は幻冬舎plus編集部によります。

*   *   *

夫婦別姓をめぐる争点

(1)「姓」をめぐる対立軸の整理

具体的な言説の検討に入る前に、夫婦別姓をめぐる議論がどのような対立軸で構成されているのかを明確にしておきたい。繰り返しになるが、夫婦別姓をめぐる論争は二項対立で構成されているわけではない。

夫婦別姓については、これまで久武綾子(1988; 2004)による一連の歴史的研究や「氏の法理」をめぐって法学領域での研究が蓄積されてきた。また、夫婦別姓問題を扱った社会学の先行研究としては、草柳千早(1996; 2004)や苫米地伸(1996)などによる、構築主義の観点からの「レトリック分析」を挙げることができる。これらの構築主義的研究は、夫婦別姓論争における「レトリックの構造」を知る上で本研究にとっても多くの示唆を含んでいる一方、「夫婦別姓の法制化」の是非そのものを問うことを目的としていないこともあり、賛成派と反対派の複雑な対立軸を明確に描き出してはいないように思われる。

もちろん、研究の目的が異なることを考慮すれば、このことが彼らの研究の意義を損なうわけではないが、本章の課題である、「別姓の法制化」の是非を語るための視座を明確化するうえでは、これらの先行研究が依拠している二項図式はいったん回避する必要がある。

本章では、図2‐1のように対立軸を整理しておく。もちろん、ここに示す分類は、夫婦別姓の賛否をめぐる多くの言説を集め検討した結果得られた知見であるが、議論を進める上で便利であるため、冒頭に提示しておくことにしたい。ここでは夫婦別姓論争を構成している異なる主張を以下、A~Dの四つに類型化する。
 


【A:夫婦同姓原則】とは、言うまでもなく、結婚をすれば夫婦同姓であることが望ましいという考えに基づき、夫婦別姓に批判的な人々を指す。しかし、注記すべきは、ここには「複合姓」や「夫婦創姓」を提唱することによって夫婦別姓を批判する論者も含まれることである。この「夫婦創姓論」の代表例として鎌田(2007)や坂井(1992)を挙げることができる。彼らは「男女不平等」や「家制度」を問題化している点で多くの別姓反対派とは性質を異にする。しかし、「夫婦同姓原則」という観点から「別姓」を批判しており、本研究の視点ではここに分類される。

次に【B:「夫婦別姓の法制化」賛成派】であるが、これは「夫婦別姓の法制化」を求める人々全般を指す。すなわち、「法律婚」そのものには肯定的であり、「法律婚の中で別姓の選択を承認すること」を求める人々である。諌山(1997)の言葉を借りるなら「届への自由」派である。注意すべきは、「私が別姓法案を待望する理由は、ハッキリ言って『先祖代々伝わってきた家名を残すため』なんです」(光文社2009: 63)といった「家名の継承」を理由に「法制化」を求める人々もここに含まれることである。

【C:戸籍制度の廃止】は、戸籍や結婚制度自体が問題であるという視点から、「夫婦別姓の法制化」を批判する立場である。諌山(1997)の言葉では「届からの自由」派となる。というのも、別姓夫婦を「法律婚」のなかへと回収することは、現行制度を補強することで、法律婚の内外の差別をさらに強める契機を持つからである(善積1997: 16)。また彼らは「個人単位社会」の実現を願うゆえ、「夫婦別姓の法制化」には与さない人々である。例えば上野千鶴子と小倉千加子([2002]2005)がこれに該当する。上野は自分の性関係を国に届ける法律婚そのものを「あほらしい」と述べる。また、夫婦別姓を求める人が「なぜ子どもの姓の父系主義を問題にしないのだろうか」と問い、「結婚しても夫婦が自分の姓を自由に選べるのなら、なぜ子どもの姓も自由に選べるよう主張しないのだろうか」と疑問をつきつけている(上野 1989: 162)。

最後に【D:戸籍制度の廃止/「夫婦別姓の法制化」賛成派】である。おそらく夫婦別姓をめぐる対立軸が「不明瞭」となる原因の一つは、ここに位置づけられる人々の存在を【B】と混同することにある。【D】に位置づけられるのは、基本的には【C】と同様、現在の法律婚に否定的であり、「戸籍制度の廃止」や「個人単位社会の実現」などを目標に掲げる人々である。しかし、【C】と異なるのは、同時に「夫婦別姓の法制化」に賛成している点である。「個人的には『届からの自由』を求め実践している」が「社会的には『届への自由』を求めて運動しているという矛盾」(諌山1997: 14)を抱えた存在がここに含まれることになる。次のような言葉がこの立場の主張を象徴的に示している。
 

事実婚をしている人の中には、婚姻制度の補強につながると法律婚での別姓を批判する人もいる。しかし、事実婚にして自分が折れるのではなく、それぞれが生きやすい社会にするため、法律の方を変えていく解決法も意味があるのではないか。法律婚=正しい結婚、の意識を崩していかなくてはならないのは言うまでもないが。(柏谷1992: 113)
 

氏からの解放、氏追放を視野に入れた別姓要求とはまた、脱戸籍、脱「家」を展望したもの。(……)夫婦別姓を求める声がこうした視点、観点に立つものなら、脱戸籍を目指す人々が心配する法律婚の強化につながる心配より、たとえ改正が法律婚内部の、戸籍名内部の改良にとどまるとしても、次のステージに踏み出す現実的な一歩になる可能性のほうが大きい。(佐藤 1989: 62-63)


戸籍制度に否定的であるが、同時に別姓の法制化には賛成する立場の人は、法制化を「次のステージに踏み出す現実的な一歩」など「次善の策」と設定する傾向にある。


このように整理したうえで、本章が問うのはあくまで【B】に位置づけられる人々の主張の正当性である。選択的夫婦別姓制度それ自体の是非は、ひとまず【B】の主張や要求が承認に値するか否かに絞られるはずである。にもかかわらず、現実の夫婦別姓批判は、主に【A】の立場から【C】や【D】の正当性や矛盾を批判すること(あるいは、実際には存在していない主張に対する批判)に終始している。本章では、このような対立軸の“錯綜”を問題化しつつ、果たして【A】の主張が、【B】の人々の求める「自由」の正当性を反駁するための論拠を持ちえているか否かを明らかにすることが主要な課題となる。それでは、具体的に言説を検討していくことにしよう。

 

(2)歴史をめぐって

最初に検討したいのは、夫婦別姓の争点としての「歴史」や「伝統」という論拠についてである。一九九〇年代初頭に民法改正法案が審議された際、最終的には「日本の伝統を破壊する」といった意見が多数を占めたことはよく知られている。

先に述べたように、夫婦同姓原則が定められたのは明治民法が施行された一八九八(明治三十一)年のことであった。戦後の民法改正の過程では、当初政府が作成した「夫婦ハ共ニ夫ノ姓ヲ称ス」という案がGHQの「司令部からの示唆」によって批判され、「夫の氏ということが、両性の平等に反するじゃないかということで、結局『夫又は妻』になった」(我妻編 1956: 131)。こうして一九四七年に現在の民法七五〇条が成立したわけである。

夫婦別姓賛成派は、「夫婦同姓こそが日本の伝統」であるという反対派の主張に対して“正しい”歴史的事実を根拠として反駁してきた。賛成派は「同姓は日本の伝統」という見解の誤りを実証的に批判してきたのである。しかし、こうした議論を踏まえたうえで、ここで主張したいのは「夫婦別姓の法制化」の論拠として歴史を持ち出すことはできないということである。ある事柄の「正しい歴史を認識すること」と、ある事柄を「正当化すること」は別次元のことだからである。

(写真:iStock.com/Dan Daltn)

ここで問題化したいのは冒頭にも触れた「姓の本質主義」である。姓の本質主義とは、「同姓」の本質や「別姓」の本質を語りその正当性を問うことを指す。より具体的に言えば、「夫婦同姓は家制度である」とか「夫婦別姓は男女平等の思想である」といった同姓/別姓をある特定の理念や思想と結びつけ本質化してしまうことを意味する。ここでは、こうした本質化によって、【B】の正当性を否定ないし肯定しようとする一連の言説を問題化したい。

例えば、「夫婦同姓が日本の伝統である」という反対派の主張に対し、賛成派が夫婦同姓の歴史は「たかだが一〇〇年程度の歴史しかない」(榊原1992b: 74)という歴史的根拠から反批判を浴びせたとしても、「結局百年しか経っていないにしても現在の『同姓』は『伝統としてすでに国民の間に定着しているなどと、『伝統』の立場からのこれも『正しい』反論を呼び起こすだけ」であろう(諌山1997: 106-107)。

現在もなお、明治以前の氏姓に関する歴史的事実についてはさまざまな議論が存在しているが、これらはあくまで歴史的事実の真偽を問う以外のものではなく、現代の夫婦同姓/夫婦別姓の正当性とは無関係である。このような歴史を根拠として「同姓か別姓か」とどちらかの正当性を語るのは「姓の本質主義」である。

こうした本質主義の問題は、「歴史」という争点のみならず、同姓原則論者が理由として持ち出す「別姓によって家族が崩壊する」といった「破壊的結果の警告」(草柳 2004)のなかに特徴的に見ることができる。例えば、「家族名という共通のシンボルを持ちたくないというのは、一体感を否定することになる」(太田1996: 182)、「これは伝統的な価値観の問題であり、日本人が大切にしてきた心の問題であると思います。親と子の絆にしても子どもとお母さんの姓が違うというのは、私は絶対にいいとは思わない。(……)(姓が同じことには)不思議な力が絶対にありますね」(高市 1996: 188)、「夫婦別姓法制化を強行して日本の家族を死に至らしめようとしている」(千葉1996: 15)などである。

*  *  *

続きは『改訂新版 事実婚と夫婦別姓の社会学』(白澤社)をご覧ください。

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阪井裕一郎『改訂新版 事実婚と夫婦別姓の社会学』(白澤社)

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事実婚と夫婦別姓の社会学

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事実婚と夫婦別姓を巡る議論の枠組を分析、二項対立的な議論のもつれをほぐし、真に問うべき問題とは何なのかを提示。事実婚当事者へのインタビューを通して、「事実婚」に至った事情やそれぞれの多様な価値観を浮き彫りにする。

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阪井裕一郎

1981年、愛知県生まれ。大妻女子大学人間関係学部准教授。慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(社会学)。専門は家族社会学。主な著書に、『仲人の近代──見合い結婚の歴史社会学』(青弓社)、『社会学と社会システム』(共著、ミネルヴァ書房)、『入門家族社会学』(共著、新泉社)、『境界を生きるシングルたち』(共著、人文書院)など。翻訳書に、エリザベス・ブレイク著『最小の結婚』(共訳、白澤社)。

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