低賃金、貧困、引きこもり、孤独死、自殺……残酷な世界の現実と、「やればできる。私は変われる」といった自己啓発の福音から離れ、幸せの掴み方を探った名著『残酷な世界で生き延びるたった一つの方法』(橘玲著、幻冬舎文庫、2015年刊)。今なお衝撃の本書から、試し読みを一部お届けします。
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幸福とはなんだろうか。
チベット仏教の活仏(菩薩の化身)ダライ・ラマ十四世は、「幸福とは人生の目的である」と端的に定義した。
開拓時代のアメリカの作家ナサニエル・ホーソーンは、「幸福は偶然やってくる。追い求める対象にしたら、決して得られない」と嘆いた。
ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、「幸福とは奇怪な妄想で、苦しみこそが現実である」という不吉な言葉を残した。
ぼくの好きなのはアメリカの作家マーガレット・リー・ランベックの、「幸福とは旅の目的ではない。旅の方法である」という箴言だ。
幸福は主観的なものだから、ひとそれぞれちがうのは当たり前だ。それでも進化心理学の登場によって、ぼくたちはようやく「幸福」という蜃気楼の輪郭を捉えるところまで到達した。
無限の快楽をつくる技術
幸福の「科学的」定義はきわめて単純だ。
ヒトの感情は、進化の過程のなかで、自分の遺伝子を子孫に伝えるよう最適化されてきた(だからぼくたちは、いまここにいる)。
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幸福や快感は、ヒトの感情のひとつだ。
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だとすれば幸福は、個体の生存と繁殖を利するようにはたらいているにちがいない。
生存のためには、食べ物が必要だ。ヒトの歴史の大半を占める狩猟採集時代では飢えは日常で、食べることに貪欲な個体だけが生き残った。彼らの直系の子孫であるぼくたちが、食に強い快感や幸福を感じるのはそのためだ。
ヒトは有性生殖だから、繁殖のためには異性との性交が不可欠だ。子孫を後世に残すのに成功したのは、異性を獲得する強い衝動を持ち、子どもを産み育てた個体だけだ。だからぼくたちは、性や愛を激しく求める。
ところが科学が進歩し、食糧が安価に生産できる飽食の時代を迎えると、ヒトの幸福は奇妙なねじれを起こすようになった。アメリカの貧困地域では、いまや飢餓ではなく肥満が大きな社会問題になっている。社会的な成功への方途をすべて奪われ、その一方で安価な食糧(ジャンクフード)が無尽蔵に手に入るのなら、もっとも簡単に「幸福」を感じる方法はひたすら食べつづけることだ。
豊かな社会では子育てに大きなコストがかかるから、ひとびとは性を繁殖から切り離し、純粋な快楽として楽しむようになった。だが性の快楽とは、原理的には、異性との肉体的な接触ではなく、そこからもたらされる脳内の化学反応のことだ。だとすれば、リアルな恋人との面倒な関係を通じて快楽に到達するよりも、ファストフードのように便利で後腐れのないヴァーチャルなセックスが好まれるようになったとしても不思議はない。
いまでは美食もセックスも、お金さえ払えば好きなだけ手に入るようになった。こうした傾向は、最終的には、ドラッグやテクノロジーによる快楽へと収斂していくだろう。
大脳生理学では、視床の前にある中隔が大脳の快楽中枢で、ここを磁気によって刺激すると「一〇〇〇回のオーガズムが同時に襲ってくる」ほどの喜悦を感じることがわかっている。サルの頭部に磁気刺激装置を装着し、ボタンを押して中隔を刺激することを教えると、エサも食べずに餓死するまで狂ったようにボタンを押しつづける。ドーパミンやエンドルフィンのような快楽物質が放出されれば脳は生理的に快感を覚えるのだから、近い将来にはすべての快感が解析され、化学的に再現することが可能になるはずだ(技術的には)。
とはいえ誰もが知っているように、幸福はこうした生理的快感の集積のことではない。麻薬中毒者はすべての快楽を知っているかもしれないが、だからといって彼の人生が幸福だと思うひとはいないだろう。
幸福になるためには、快楽だけでは足りない。いったいなにが必要なんだろう。
大富豪とマサイ族
アメリカでは一九八〇年代から、幸福を心理学的に計測するという試みが行なわれている。これは厳密に科学的なものではないけれど、さまざまな調査によって、統計的にほぼ同一の傾向を確認できる(大石繁宏『幸せを科学する』新曜社)。
ある調査によれば、人生の満足度を七点満点とすると、アメリカのビジネス誌『フォーブス』に載った大富豪たちの満足度の平均は五・八だった。彼らは資本主義社会の頂点に立つ成功者で、豪邸やプライベートジェットなど、望むものはなんでも手に入れることのできるひとたちだ。
アフリカのマサイ族は、ケニアとタンザニアに住む半遊牧民で、必要最小限のものしかない貧しい暮らしをしている。同じ調査で、彼らの人生の満足度は五・四だった──目の眩むような大金は、ひとをたった〇・四ポイントしか幸福にはしてくれないのだ。
もちろんこれには、さまざまな解釈が可能だ。大富豪がマサイ族の村に行けば、自分はなんて幸福だと思うだろう。マサイ族の若者がニューヨークを訪れれば、極貧と不幸に打ちのめされるかもしれない。幸福感は相対的なものだからだ。
マサイ族が幸福なのは、家族や仲間との強い絆(愛情空間と友情空間)のなかで暮らしているからだ。それに対して貨幣空間の成功者である大富豪は、その成功ゆえに愛情や友情から切り離されて幸福を感じられなくなってしまう。でも彼の人生は、まだマシな方だ。
この調査によれば、世界でもっとも不幸なのはロサンゼルスなどの大都市で生きているホームレスだ。彼ら貨幣空間の敗残者は自分たちより過酷な生活をしているインドのスラム街のひとたちよりはるかに幸福度が低い。
もっともこれは、それほど奇異な結果ではないだろう。お金が幸福の必要条件ではあっても、十分条件でないことは誰だって知っている。
ぼくたちがお金にこだわるのは、それが「安心」や「安全」という大切な価値と結びついているからだ。ヒトはずっと不安のなかで生きてきたから、安心を得ることは幸福の大事な条件のひとつだ。そして市場経済においては、この安心はお金で買うしかない。
日本国の財政が未曾有の赤字に陥り、少子高齢化で年金制度が破綻必至になったことで、この国を重苦しい不安が覆っている。老後を国家からの現金支給(年金)に頼っていたひとたちが、安心を奪われてしまったのだ。
でもこれは単純な経済問題だから、お金によって解決できる。財政破綻で年金の大幅減額が行なわれ、日本じゅうが大混乱になったとしても、宝くじで一億円当たったなら(当たらないけど)どうだっていいと思うだろう。幸福になるためにお金を求めるのは、きわめて合理的な行動だ。
ところが皮肉なことに、宝くじの当せん者を追跡調査すると、彼らがじつはあまり幸福になっていないことがわかっている。逆に、以前よりも不幸になることも多い。
宝くじに当たったという噂が流れると、つき合いのなかった親戚や同級生や幼なじみがぞくぞくとやってきて、少しでも分け前に与ろうとする。彼らを邪険に扱うと、これまでの近所づき合いや友人関係もいっしょに消えてなくなってしまう。このようにして、買い物や豪遊で賞金を使い果たす頃には、自分にはなにも残っていないことに気がつくのだ。
マサイ族の幸福は、一人ひとりが部族共同体から認知され、尊重されていることからもたらされる。それは彼らが、愛情空間と友情空間のなかに生きているからだ。
人生にとって大切なもの(愛情や友情)は貨幣空間では見つからない。これが、お金が幸福の十分条件ではない理由だ。
幸福になるためにはお金が必要だけど、お金は幸福をむしばんでしまう。マサイ族とちがって、高度資本主義社会に生きるぼくたちは茫漠とした貨幣空間を漂っている。だとしたらぼくたちの世界から、幸福は永遠に失われてしまうのだろうか。
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※続きは本書をお手にとってぜひお楽しみください。
残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法
貧困、格差、孤独死、鬱病、自殺……世界はとてつもなく残酷だ。しかし絶望は無用。生き延びる方法は確実にある。「努力すれば夢は叶う」と鼓舞する自己啓発書は捨てて、幸福の秘密を解き明かす進化の旅に出かけよう! 橘玲氏の原点と言える代表作。