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情事と事情

2022.06.21 更新 ツイート

#4 とびきり幸せなアラフォー。そんなのいる? 小手鞠るい

恋愛小説の女王、小手鞠るいさんの最新刊『情事と事情』の試し読みです。

すべての愛には、裏がある。上品で下品な大人たちの裏事情とは。

第1回から読む

(写真:iStock.com/Tero Vesalainen)

広々としたキッチンで、パエリアの下ごしらえをしながら、茜色からすみれ色に染まっていく、窓の向こうの空と、窓のこちら側にいる自分と、自分を取り巻く世界をひとまとめにして、愛里紗は問いかける。

幸せって、何色。

とびきり幸せなアラフォーって、何色。

とびきり幸せ、ということはつまり、ちまちました不幸から目を逸らす能力、見て見ぬふりのできる才能があるということ。あるいは、気づいていないふりをし続けているうちに、本当に鈍感になってしまった、ということ。

というような、理屈っぽい友人の彩江ちゃん、こと、中条彩江子のいかにも言い出しそうな論理は、愛里紗には、雲をつかむような言い草としか思えない。

──愛里紗は問題意識がなさ過ぎる! いい年をして、実家からも旦那からも、自立できていない。そんなことでいいと思ってるの、いったい何を考えて生きているの、何も考えてないんでしょ。

そんなこと言われたって、そもそも、なんの問題もない人生に、なぜわざわざ自分で問題を作らないといけないのか、愛里紗には皆目わからない。何も考えないで生きていることの、いったい何がいけないのか。

悩んでいる人というのはみんな、自分が悩みたいから、悩んでいるように、愛里紗には見えている。泣きたい人は泣けばいいのだし、笑いたい人は笑っていればいい。夫が外で何をしていようが、いまいが、家の中にいるとき、自分のそばにいるとき、明るくて優しければそれでじゅうぶん。健康で、お金をたくさん稼いでくれたら、なおいい。

そう思うことのどこがいけないのか、というようなことは、しかし実のところ、愛里紗の関心事ではない。

愛里紗が関心を抱いているのは、美しいか否か、それに尽きる。美しいものに囲まれていれば、それだけで幸せ。

だから、幸せの色は、薔薇色。

──そんなことだから、女性を取り巻くさまざまな社会問題がちっとも改善されないのよ。いい? 家庭内でも会社内でも、男女差別と年齢差別とセクハラが蔓延はびこっていて、先進国の中でいちばん女性の地位が低いと言われている国は、日本なのよ!

フリーライターとして「ジェンダー研究と女性問題」に真剣に取り組んでいるという彩江子の鼻息も荒い発言に、愛里紗はいつも、

──まあ、あなたも大変ねぇ。

のほほんと返しては、

──愛里紗はのれんに腕押し! だらしない! 女の敵!

と、目を三角にされ、叱責されている。

それでも愛里紗は彩江子を嫌いになれない。数少ない友人のひとりだと思っている。

もしかしたら、たったひとりの親友、なのかもしれない。

社会に裏切られ、女に裏切られ、男に裏切られながらも、なお、社会を信じようとし、女を信じようとし、男を信じようとして、彩江ちゃんは一生懸命、生きている。私には微塵もない、私とは似ても似つかない、あの頑固さ、一生懸命さがいい。

 

*   *   *

 

まるで猫が降りてくるみたい。

二階から一階へ降りてくる玲門の足音を聞きながら、流奈は壁の時計に目をやる。

午後七時。

今から一時間ほど、そのあとに休憩をはさんで九時から十時過ぎまで、気が向いたらもっと遅くまで、玲門はピアノを弾く。

ジャズの日もあれば、クラシックの日もある。常連客から出されたリクエストに応えて、フォークやロックやカントリーなどを適当にアレンジして弾くこともあるし、知らない曲をリクエストされても、タブレットで検索して譜面を呼び出すことさえできれば、即座に弾いてみせる。

ロンドンで知り合って、パリに移り住んで、屋根裏部屋のアパルトマンでいっしょに暮らしていた頃には、学生街のジャズクラブで弾いていた。ドラムとベースと玲門の三人で組んでいたバンドの名前は「ザ・ストレイキャット」だった。野良猫バンドのドラムはレズビアンのめす猫で、ベースはゲイのおす猫で、玲門はバイセクシャル。

シェイカーを振りながら、流奈は玲門にまっすぐな視線を送る。

レイモン、今夜もとっても素敵よ。あの頃とちっとも変わらないね。

玲門からは、波のような視線が返ってくる。

ルナも素敵だよ、あの頃よりも、もっとね。

母と息子ほど年の離れた、悪魔的に優雅な野良猫。

ときどきふっといなくなる。いなくなったら、いつ帰ってくるか、わからないけれど、帰ってきてさえくれたら、それでいい。私のそばにいるときだけは、公私共に私の専属ピアニスト。それでいい。

玲門は弾き始める。ドビュッシーの『夢』から入っていく。

『夢』のあとは『月の光』だ、きっと。

今夜もふたりでいっしょに働いて、同じベッドで眠れることの幸せに、流奈は一瞬、恍惚となる。

(つづきは『情事と事情』でお楽しみください)

関連書籍

小手鞠るい『情事と事情』

「すべての愛には、裏がある。」 恋愛小説の名手が描く、大人たちの上品で下品な恋愛事情、その一部始終。

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情事と事情

小手鞠るいさん最新刊『情事と事情』試し読みです。

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小手鞠るい 作家

1956年岡山県備前市生まれ。同志社大学卒業。1992年よりニューヨーク州在住。「詩とメルヘン」賞、「海燕」新人文学賞、島清恋愛文学賞、ボローニャ国際児童図書賞、小学館児童出版文化賞などを受賞。『エンキョリレンアイ』『幸福の一部である不幸を抱いて』『私たちの望むものは』『女性失格』、エッセイ集『空から森が降ってくる』『今夜もそっとおやすみなさい』など著書多数。児童書の作品も多数。1982年、詩集『愛する人にうたいたい』でデビュ―して、今年で物書き人生40年目を迎える。

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