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どうしてこうなっちゃったか

2022.03.13 公開 ツイート

第2章

ビジネスはビジネス! 藤倉大

15歳、才能だけを頼りに徒手空拳で単身イギリスへ! そのあとは……!? いまや「世界でもっとも演奏機会が多い」現代作曲家・藤倉大の超絶オモシロ自伝エッセイ『どうしてこうなっちゃったか』から、試し読みをお届けします。
※ 記事の最後に、藤倉大さんの貴重なオンラインイベント(配信まであと3日! 2022年3月16日19時半~)のお知らせがあります。お見逃しなく!<→イベントはご好評のうち終了いたしました。ご参加ありがとうございました>

*   *   *

ガーディアンとは、未成年の外国人が、親といっしょでなくイギリスに住む場合、イギリスで親代わりとなる人=家族で、これは必須条件だ。少なくとも僕が留学した時はそう。僕は2家族を訪問した。それで、どちらにするか決める。

だいたい今もそうだけど、僕は初対面で、その人を信じるべきか、信じるべきでないか、をまあまあ見抜ける力を持っている、と特に根拠もないけど思う。会った瞬間は、どちらかというと人を信用しない方向で考え、少しずつその態度を修正し、様子見するのだ。

言葉もわからず、いきなり会ったイギリス人家族を自分のこれからの生活の親代わりに決めるのだから、なかなか難しいし重要だし、だから慎重になる。イギリス生活が良きものになるか最悪になるかの分かれ目だ。

イギリスでの親代わりを決めるために、「ダイのガーディアンになりたい」という2つの家族から、僕は直感で、ヘレンという奥さんが中心の家族、レイヴン一家に決めた。

ヘレンには、夫クリスと3人の娘がいた。クリスの仕事は、土木工事の現場監督だった。娘たちは、たしか上から12歳くらい、あとは8歳、5歳とか、そんな感じだった。もしかすると僕が出会った時、下の2人は、もうちょっと幼かったかもしれない。3年後、僕が高校を卒業する直前には、さらに男の子が生まれた。そんな家族構成だった。

僕は現在(2021年)44歳なので、15歳でイギリスに来てから29年後の今は、この3人の娘さんたちとインスタグラムで繋(つな)がっている。いちばん下の娘さんと、長男は僕のことを覚えていないらしいが(そりゃそうだ)、2人が大人になってから、家族みんなで会った。

僕は正しい選択をしたと思う。今でもこの家族と交流があることが、大きな証明だ。素晴らしい記憶しかない。

ところで、ガーディアンとは、チャリティでもなんでもなくビジネスだ。

当時、ユーロトンネル(ドーヴァー海峡の下、イギリスのフォークストーンとフランスのカレーを結ぶ)を掘るチームの監督だったクリスは、仕事のためにドーヴァー海峡近くの町に引っ越してきた。僕は、ドーヴァー高校に進学するのだから、ガーディアンは当然ドーヴァー付近に住む家族が都合がいい。両者の利害は一致している。

ヘレンは、自分の子供の面倒を見ると同時に、僕がこの家に泊まる時の、食事を始めとする世話をしてくれるだけでなく、僕が学校で寮生活をする間も、僕の親代わりとしての責任を持つ。僕の両親はそれらの費用をヘレンに支払うわけだ。素晴らしい人間関係を築きながら、同時にちゃんとしたビジネスでもあった。

英語に「ビジネスはビジネスです(Business is business)」という言い回しがある。これはイギリス生活の上で大変よく聞くフレーズだ。これを、入学していきなりドーヴァー高校の校長先生から聞いた。校長は僕を校長室に呼び入れ、「君はなぜ奨学金をもらってるか、わかるかい? その分、学校のプロモーションでたっぷり働いてもらうよ。ビジネスはビジネスだ」と言った。

15歳の子供に、そんなことを直接、言うのか! とびっくりしたと同時に、なるほどビジネスなのかと清々(すがすが)しく思った。その具体的なプロモーションの話はまた、のちほど。

レイヴン一家の家はかなり大きく、その街の語学学校の生徒のホームステイ先でもあった。だから、けっこう頻繁にイギリス国籍でない人たちが出入りしていた。

ヘレンは、立派に3人(のちに4人)の子育てをしながらビジネスもする。僕は、ヘレンとも一家とも一度も揉めごとや問題を起こさず、とても良い関係で3年間を過ごした。ヘレンは、今でも必ず僕の娘のために、毎年、クリスマスプレゼントを贈ってくれる。彼女は3人の娘を育てた「娘のママのプロ」だから、毎年うちの娘がその年齢でいちばん喜ぶプレゼントがわかるらしい。うちの娘に会ったこともないのに。僕と妻は不思議でならない。

この大きな家にはカーテンがなかった。壁紙もない。ボロボロの家を安く買ったクリスは、毎週、一部屋ずつゆっくり改装していた。僕が到着した時は、半分は完成してるのかな、という感じだった。

僕に宛てがわれたのは、改装直後のとてもきれいな部屋だった。多分、僕が高校を卒業する時も、まだ全部の部屋の改装は終了してはいなかったはずだ。今でもクリスが日曜日ごとに改装する、楽しげな姿が眼に浮かぶ。

すでにユーロトンネルは全線開通したので、クリスは、今はロンドンの地下鉄の拡大工事で、掘削プロジェクトの監督をしているそうだ。

この一家の邸(やしき)はドーヴァーの近くの街フォークストーンにある。ドーヴァーと同じく、治安が悪そう、不良が多そう、といった感じで、なかなか汚い街だったが、噂では最近、文化の街として見違えるほどきれいになって栄えているらしい。

僕は1人っ子だから、自分以外の誰かと何かをシェアした経験がない。これは、この家にやってきた次の週から始まる、ドーヴァー高校の寮生活でも同じで、僕が困惑したことの1つだった。

レイヴン家には娘が3人。15歳の僕が見ても、かなり幼い女の子たち。まず最初の数日は大きな庭の先にある、子供が遊ぶための小屋に連れていかれ、次女と三女から「おままごとして遊ぼう!」と言われた。ままごとどころか、そんな小さな女の子と遊んだ経験もない僕は、ひどく緊張した。

当時、ほぼ日本の公立中学校で学んだだけだったので、僕の英語はもちろんカタコトで、その上「子供が話す英語」がまたかなり難しい。聞き取りづらいので何を言っているか全然わからない。

僕の娘は今10歳で、ロンドン生まれロンドン育ちのイギリス人なのに、つい5、6年前まで、時々、英文法を間違えていた。例えば「買った」は、もちろん「bought」だけど、彼女は平気で「buy-ed」と言ったりする。過去形に「ed」をつけるのは理にかなってるんだけど(じゃあ全部そうすればいいのに! 英語は例外が多すぎる)。イギリスの子でも、そういう間違いをするんだなって自分の娘を見て思った。

ドーヴァー高校は全寮制なので、僕は、高校の寮に住むことになる。でも週末や休暇は、ガーディアンの家に帰ってもいいよ、ということだった。

もし僕が、学校で問題を起こしたら、親代わりのヘレンが呼ばれ、叱られたりする。だけど、僕にはそんな事態は一切、起こらなかった。それは僕が悪さをしなかったわけではなく、ある理由があって、僕は何をしても絶対に叱られない、罰せられない、外国人だからといじめられることなど皆無の、最強の立場だったのだ。その理由は、もうちょっとあとで書こう。

1週間ほどレイヴン一家と過ごした後、いよいよドーヴァー高校の寮生活がスタートした。寮生活はもちろん初めてで、それまで部屋を誰かとシェアしたこともなかった。ここの寮は最上級生になると1人部屋になるが、それまでは2人部屋だ。

最初のルームメートは香港人のアランだった。寮は、これまたすごく変なデザインの建物で、「適当に設計建築しただろ?」という代物。部屋の大きさや構造が、2つとして同じものがないバラバラな間取りで、この寮に家族で住んでいる寮長(歴史と経済学の先生でもある)が、建物のあらゆる場所からいきなり出没できる作りになっていた。

僕らの部屋の奥に1人部屋があったが、その部屋から外へは、僕らの2人部屋を通らずには出られなかった。大変迷惑な作りだ。気の毒な1人部屋に住んでいたのはノルウェー人のオラ。

当時、この寮は、すべての部屋に鍵がなかった。なので盗難も頻繁にあったし、ドラッグでハイになる子は、すぐに先生らに見つかった。聞いたところによると、ドラッグを試す生徒は、たいてい成績優秀者らしい。あまりに頭がいいからなんでも器用にできて、成績もベストで、とにかく暇だからドラッグに手を出す。マイケル・ダグラス主演のアメリカ映画「トラフィック」(2000年。スティーブン・ソダーバーグ監督)で、育ちのいい子がドラッグにハマっていくシーンがあったけれど、それに似ている。

元来、僕はそっち方面に、全然、興味がないので、いつも「へーっ」と言って、その種の話を聞くだけだった。

そんな感じで、初めてのイギリス生活がスタートした。僕が入学した4月は、イギリスでは第3学期だ。つまり僕は、高校1年の最終学期にやってきた転校生だった。

当初は9月に入学する予定だったが、日本で3月に中学を卒業して9月まで何もせずにブラブラと暇を持て余すのもなんだし、英語の勉強も兼ねて、授業についていけなくてもいいから、とりあえず4月にイギリスの学校に入って馴染んで、9月になったら、またその学年をやり直す予定だった。

イギリスでは2年間でGCSE(General Certificate of Secondary Education)という全国統一試験のために勉強し、そのGCSEでパスした分野から3科目を選び、さらに2年間かけてその選んだ科目で「Aレベル(A-Level=イギリスの大学入学資格統一試験)」という次の試験に挑む。「Aレベル」の結果で行ける大学が決まる。なので高校は4年間、行くことになる。

GCSEは何科目でも取れるが、「Aレベル」はだいたい2年間で3科目のみ。4科目以上取る人もいるけど、せいぜい、そんな程度。なので毎日その3科目だけを勉強することになる。

大変偏ったシステムだけど、自分に向いた科目がわかっていたら、不得意な科目はまったく勉強せずとも、オックスフォードやケンブリッジといった名門大学に、得意な3科目の成績さえ良ければ行ける。イギリス特有の教育システムだ。

けれど、16歳の時点で将来、何になりたいかわかっていない場合は、かなり大変だ。

3科目なので、例えば理数系が得意な子は「数学」「物理」「化学」などを取る。場合によっては「数学」「数学II」「化学」という人もいる。つまり、まったく文学に触れなくても卒業できるし、大学にも行けて、その分野の職に就くことができる。向いているものを生かそう! という方針なのだ。僕にはとても合っていた。

話を戻すと、僕が最初に入ったのはGCSEのコース1年目の3学期。その年の9月からGCSEの1年生をやり直すつもりだった。ところが、年度末の試験で僕はビリじゃなかった。英語がわからないので、そもそも試験問題の質問の意味をほとんど理解できないから、人生初の40点とか、そんなひどい点数にショックを受けたけど、なぜか僕より下位の生徒がいた。

それで厚かましくも、「そいつらが留年しないんなら、僕もそいつらと同じく次の学年に進みたい。9月から1年生をもう1回やるなんて嫌だ!」と校長に直談判したら、校長は「お前のためを思って言ってるのに……」と言いつつもOKしてくれた。

(つづく)

 

(お知らせ)※イベントは終了いたしました。ご参加ありがとうございました。

2022年3月16日19時半〜、新刊や作曲の裏話がたっぷり聞ける藤倉大さんオンライン対談を開催します。詳しくは幻冬舎大学のページをご覧ください。

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藤倉大 作曲家

1977年大阪生まれ。作曲家。15歳で渡英し、D・ランズウィック、E・ロックスバラ、G・ベンジャミンに師事。国内外の作曲賞を多数、受賞(2019年は3回めの尾高賞を受賞)。数々の音楽祭、音楽団体から作品を委嘱され、いま「世界で最も演奏される現代音楽作曲家」と呼ばれる。2017年、東京芸術劇場「ボンクリ・フェス」アーティスティックディレクターに就任。2019年公開の映画「蜜蜂と遠雷」の音楽を手がける。主な作品:オペラ「ソラリス」「アルマゲドンの夢」、管弦楽曲「レア・グラヴィティ」「グロリアス・クラウズ」など。ホームページ http://www.daifujikura.com

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