
〔写真:齋藤陽道〕
長年使っているからだろうか、店に掛けている大きな時計は、何日かすると時間が少しずつずれてくる。最初はあまり気にならない程度、しかしある日ふと見上げると、仕事に支障をきたすほどの遅れになっているときもあって、そうした際には壁から外し、時間を少しだけ早めておく。
いまTitleにある時計は、かつて勤めていた職場の店長室に掛かっていたものだ。その書店は大きな店だったが、残念ながら数年前に閉店した。片付けの際ことわりをいれ、他のこまごましたものと一緒に、この時計も持って帰ってきた。だから時計にしてみれば、いわば〈第二の人生〉を、この場所で過ごしていることになる。
時計は店長室にあったとき、近寄りがたい厳格さを感じさせた。店長室にはスーツを着た取引先の会社員が毎日のように訪れ、何か問題を起こしたスタッフは、そこで上司から詰められることもあった。そのような場所での時間には、間違いがあってはならないのだ。
だから同じ時計をこの店の壁にかけたとき、最初それは場違いで、何か硬い感じがして見えたのだ。
「まあ時間は正確でなければならないから、時計はこのくらいしっかりとしたもののほうがよいのだろう」
そのように自分を納得させ、時計を使いはじめたが、それはいつのまにかTitleという店に馴染んだようで、そうすると次第に、少しずつ時間がずれてくる。
なんだお前。しっかりしていると思ったら、そんなところもあったのか。
それはどこか会社員の生活から自営業に慣れていくうち、人間が根底から変わってしまったわたし自身を見ているようでもあった。
しかしいくら硬い感じだったとはいえ、店にはじめて時計が掛けられる瞬間は、何といってもうれしいものである。それは開店まであと数日という頃で、それまで何となく、ただしまりなく広がっていた空間は、時計が掛けられることにより固有の時間を刻みはじめた。
「やっぱり店には時計がないとね」
その何か月か前からこの場所で工事をしていた中村敦夫さんも、そういいながらあかるく笑った。
店を準備していた数カ月のあいだ、時計はダンボール箱に入れられ、自宅の片隅に忘れられたように放置されていた。やはり時計は、それがあるべき場所に掛けられてこそなのだ。
退社してはじめてわかったことだが、会社員の時間には、どこか緊張を強いられる息苦しさがあった。仕事自体は楽しかったが、やむことのないクレームや万引きの対応、毎日検証される売上の前年比など、そう意識しなくとも、いつも自分を切り売りしながら過ごしていたのだと思う。
いまは仕事と余暇に明確な区別はない代わり、家にいるときと同じ〈わたし〉で店に立っている。仕事も生きることもすべて同じだと腹を括ったら、時間はいつか、自分を計るものさしではなくなった。
これもまた時計の話だが、開店当初していた腕時計も、何か月かするうちにつけることをやめてしまった。ここでの仕事には、必要ないものだとわかったから。
「会社を辞めても、仕事はちゃんとやっていますよ」
だれに向かってそういいたかったのだろうか。わたしにしては高価なブランド品の腕時計には、そのような意味が込められていたのかもしれない。
腕時計を外すと、自分がしがみついていたちっぽけなプライドまでもが消えてしまったようで、気持ちが楽になった。
今回のおすすめ本
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井上奈奈『うさぎまでのおさらい』刊行記念展
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版元サイト /Titleサイト
◯【寄稿】NEW!!
店は残っていた 辻山良雄
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)
◯【お知らせ】
「はたらき」を回復する /〈わたし〉になるための読書(5)
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