
私は基本的に優しくって穏やかでお人好しなのだけど、自分が引っ越しが好きすぎて、住処に執着する人の心をつい蔑ろにしてしまう時がある。だから他のトピックに比べて立退とか再開発とか沿岸部の危険とか集落移転とか、あるいは免許返納は田舎のお年寄りには酷だとか、そういう話題になると人の話を聞きつつも喉の奥で、いいじゃん引っ越し楽しいじゃんという言葉を転がして、新自由主義のいけすかないオジサンと同じようなことを言わないように気をつけている。
この世に賃貸住宅の更新手数料というものがなければそれでももう少し長く一つの場所に住むことがあったかもしれないけど、たとえ引っ越しよりは安く済むとしても、同じところにとどまるためのお金なんてビタ一文払いたくないので、大抵は2年経つ前に新しい家を探して住み替えて生きてきた。掃除が嫌いだから、掃除をしないで生きていくために、限界まで汚れたら引っ越すということにしていたこともある。
自分で借りた部屋の中で一番住んだ期間が短かったのは、乃木坂の駅から六本木のミッドタウンに向かって歩く途中の、マンションというには色々と足りていない雑居ビルの一部屋で、確か4カ月で別の家に引っ越した。場所は何かと便利だったし、部屋は15畳くらいの広いワンルームで良かったのだけど、住んでみて気づけば洗濯機置き場がなくて、同じフロアにデリヘルの待機所があった。デリヘルはいいとしても、パンツやストッキングを洗うのにいちいち六本木西公園の裏手にあるコインランドリーまで行って、レストランのナプキンやマッサージ店のタオルしか回っていないそこで、数年前までは1枚1万円の値段がついたけど、女子高生の制服を脱いだ後には一銭にもならない私のパンツを、よく雨宿りしていたホームレスらしきオジサンへのサービス的な感じでぐるぐる回すのも面倒と思って、住み始めて3カ月経たないうちに次の物件探しを始めた。マンハッタンの住民はこの不便とともに生きてるんだろうか。散々引っ越した私も洗濯機が置けない物件はその一軒だけだったので、東京に住んでてよかった。
ちなみにそこに住む2年前に1年弱だけ住んだ下北沢の3階建ての低層マンションは見事な欠陥住宅で、一定以上の雨が降ると玄関と靴箱の2段目まで全てが浸水するので、AVのギャラで買い揃えた一足10万円近いヒール靴の類を8足も捨てることになった。西麻布の権八の裏手のマンションに住んでいた頃は、ご近所に男女トラブルが多く、深夜に帰ってきたらエレベーター2機の両方に人間のものと思われる糞尿が大量にばら撒かれていたり、誰と間違えたのか私の部屋のドアを「死んでやる!」と狂ったように叩き続けた女がいたり、クラブでナンパされた男に送ってもらったらおんなじマンションの住民だったりした。そんなことも、引っ越しと刺激のある人生の一部である。
特に、夜職の頃の住宅事情というのはめちゃくちゃで、平気で大して仲良くもない人を居候させたり男に鍵を渡したりしていたので、自分の家とはいえ時折非常に治安が悪くて現金や貴金属を置いておけないことも多かったのだけど、その代わり、なぜか6畳くらいしかないワンルームに3人とか友人が泊まっていても、狭さを感じずに心は豊かだった。他人と自分の境界が曖昧だったのだろう。ついでに所有物の境界も曖昧で、大きなものが無くなってもあまり気にならず、逆に誰のかよくわからないものが部屋の備品としていつの間にか我が家に定着しているようなことも多かった。ちなみに数年前まで使っていた巻き髪用の太いコテは、私は買った記憶が一切なく、最後に壊れるまで一体誰が買ったものなのか分からなかった。確か横浜の馬車道に住んでいた頃からうちの洗面所に置いてあった。
そうやって暮らしてきたことで素晴らしいこともたくさんある。場所やものへの執着がなく、男に出ていけと言われても別に悲しくない。今の家だってお金やるから立ち退いてくれと言われれば3日で立ち退ける。引っ越し慣れしているので、いざ住み替えとなるとやるべきことの優先順位がすぐにわかるし、仲良しの業者もできた。家やエリアやご近所住民に不具合があっても、どうせ移動するまでの間だしと思って目をつぶれるし、いざとなったらすぐに引っ越せると思っているので、引っ越し先を決めるのも早い。この世には色んな場所があって色んな人が住んでいて、色んな暮らしが紡がれているということを身にしみて体得しているので、変な価値観で生きている人に出会ってもそう驚かないし、大切なものを踏みにじられた的な怒りや悲しみを感じることもないので、私には何か特定の話題でブチ切れるような地雷がない。
かといって、得られたものばかりというわけではもちろんなくて、おそらくなくしてしまったものも多いのであろう。なくしてしまったものの方が多くて、なくしてしまったものの方が重要であることも十分に考えられる。そんなことを、「椿の庭」を観ながら思った。
夫と娘の1人を亡くした富司純子とその孫で母を亡くしたシム・ウンギョンが住むのは手のかかる古い日本の家屋で、襖を入れ替え、落ち葉をはき、急須でお茶を入れて暮らしている。使い込まれていながらこの後もいくらでも長く使われそうなテーブルの木の質感や、足に吸い付く畳の温度や、庭の石に溜まった水の透明度を愛していて、そこに紡がれる暮らしがどこか別の場所に移管可能だとは思っていない。かつてそこに暮らした多くの者はすでに不在で、生きているもう1人の娘も時折訪ねてくる程度だけど、家と生活が不可分なのだから、売却したり引っ越したりする気が起きない。家がなければ気に留めないでいいような家族の不在も後悔の記憶も、まとめて手放してしまえるチャンスはあるのに、その記憶を留めた家を守って、2人で静かに暮らしている。
愛着というものが音と形を持っていたとしたら、この映画のようになるのかもしれないし、寂しさに洒落た名前があるとしたらこんなタイトルなのかもしれないとも思う。そして寂しいというのは愛着がなければ生まれないのと同じように、愛着は寂しさを感じられる人間の特権のようだとも思う。2人とともに家を見守る観客の、映画の終わった後に感じる痛みや怒りのようなものは、数時間の愛着の結末だとも言える。
そう考えると引っ越し魔の私に地雷がないのは単に身軽だとかいうよりも、ものを大切にすることによって人が引き受けざるを得ない、ものにつく傷やものの喪失を、はなから拒絶した態度だと考えた方が素直なのだろう。思えば単に服や靴にしても、自分の身体にしても、人との間につくる関係性にしても、私はあえて粗末に扱って、最初から汚してみせて、愛着のないように振る舞う癖があった気もする。この世は結構荒々しいから、綺麗なものを持っていては、それを傷つけられたり失ったりするリスクが高すぎて身動きが取れなくなる。最初から汚れた身体を、いつでも出ていける部屋に詰め込んで暮らしていれば、人が踏みにじったところで白い布を踏んだようにはその穢れは目立たない。それでも、あそこまで場所にこだわらずにふらふらと暮らせたのは、いつでも帰れる実家が同じ地に根を張ってあり続けたからかもしれない、と母が死んでから少し思う。
「椿の庭」を観た前の週に、たまたま仕事が休みだった友人と町田市にある武相荘に出かけた。武蔵と相模の間にあるのを無愛想とかけて名付けたらしい、白洲次郎と正子の暮らした家だが、今は食器や車とともになるべく当時の暮らしを保存する形で展示されている。実は新聞社にいた頃、一度取材で訪れたことがあったのだけど、たまたま大雪の日にアポイントを取ってしまって、雪に埋まったところしか見ていなかった。雪に埋まった家屋もそれはそれで綺麗だったけど、戦時中に野菜など育てていたという広大な庭を、雪のない状態でも見たかった。
思いっきり晴れた3月の平日に友人と訪ねたら、以前は雪の中にあった家も車庫もしっかりと地面から生えるように根付いていて、しかし庭の花は咲き誇るような季節ではなかったらしく、所々に水仙と椿が咲いているくらいだった。家のまえの椿の花は全て枝の上にあったが、庭を歩いて下に降りたところにある椿の花はいくつかが木の上に、またいくつかはすでに地面に落ちていた。実家の庭にある椿が首を切られたようにボトッと地に落ちるのは不気味で、幼いころは好きな花ではなかったが、枝で咲きそびれた花は地面に落ちて朽ちることもないのだと思うとどうせなら咲いてから首を切られたいような気もするし、久しぶりに実家に帰りたくなった。
夜のオネエサン@文化系

夜のオネエサンが帰ってきた! 今度のオネエサンは文化系。映画やドラマ、本など、旬のエンタメを糸口に、半径1メートル圏内の恋愛・仕事話から人生の深淵まで、めくるめく文体で語り尽くします。
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