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弱者はもう救われないのか

2020.08.30 公開 ツイート

憲法12条改正で、年収100万円だと健康保険も年金も受けられない社会になる? 香山リカ

大企業優遇の経済政策、生活保護など社会保障費の削減、社会全体に浸透する「人の価値は稼ぎで決まる」という価値観……。精神科医の香山リカさんは、そんな社会の潮流に警鐘を鳴らし続けてきた一人です。著書『弱者はもう救われないのか』は、古今の思想・宗教に弱者救済の根拠を探り、市場経済と多数決を乗り越える新しい倫理を模索する、香山さん渾身の論考。次世代をになう子どもたち、孫たちのためにも、自分ごととして向き合いたい本書から一部をご紹介します。

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「ユニクロ」柳井社長の驚くべき発言

2013年4月23日の「朝日新聞」では、海外事業の急進などにより、日本の衣料品業界で初めて売上高が1兆円を突破した「ユニクロ」の柳井正社長が、「将来は、年収1億円か100万円かに分かれて、中間層が減っていく」という衝撃的な発言をした。

(写真:iStock.com/takasuu)

柳井氏は「仕事を通じて付加価値がつけられないと、低賃金で働く途上国の人の賃金にフラット化するので、年収100万円のほうになっていくのは仕方がない」と断言し、「雇用したからには会社が年収400万円を保障します」などと言うことは決してない。

もちろん「年収100万の人を国が面倒見るべきです」とも言わず、「グローバル経済というのは『Grow or Die』(成長か、さもなければ死か)」と言い切る。

年収100万円で生活が立ち行かなくなった人たちは、自分に付加価値をつけることができないという「自己責任」でそうなったのだから、企業や国家が、その行く末をあれこれ心配したり手当てしたりする必要はない、という考えだ。

 

「それはユニクロなど極端にグローバル化した企業での話であって、日本でも一般の会社や政府はそこまで冷徹ではないだろう」と思う人もいるかもしれないが、それは違う。

アメリカのアップル社で長く働いていた松井博氏の著作『企業が「帝国化」する』では、アメリカでははっきりと「国家と企業の力関係が逆転しつつ」あり、ほかの国にもその傾向が広まっているため、国家が企業の存続のためにコントロールされるという現象が起きている、と述べられている。

その結果、「多くの先進国で健康保険や年金、あるいは生活保護といった社会保障制度が当てにならなくなってきて」いるが、日本もその例外ではない、と松井氏は言うのだ。

「現在の20代の若者が高齢者になったときに年金が維持されている可能性など、かけらほどもないでしょう。国民健康保険の維持すら厳しくなり、健康保険の民間化が急速に進むのではないかと私は考えています。国家による社会保障がない世界はもう目前です

破壊されようとしている「憲法12条」

日本は憲法で、国民の「最低限度の生活」を国家が保障するとうたっている国だ。いくらグローバル企業の発言力が増し、少子高齢化などで福祉財政が圧迫されたからといって、そう簡単に「年金もやめ、国民健康保険もやめ」となるはずはない……。そう考える人もいると思う。

(写真:iStock.com/NiseriN)

ところが、現在の政権与党である自民党が発表している新憲法の草案では、この点についても微妙な変更が加えられている。

第12条(国民の責務)

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

どのフレーズが新しいのか。現行憲法はこうだ。

第12条

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

比較すると明らかなように、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」という文言が新しく加えられたのだ。現在の「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」となっているのも気になるところだが、ここではそれには立ち入らないでおこう。だとしても、「自由及び権利」はただ保障されるものではなく、「責任及び義務が伴う」というのは大きな変更である。

この条文が先行していることを考えると、第25条の「最低限度の生活を営む権利」にも、「あくまで責任や義務をまっとうしている限りにおいて」という条件がおのずとつくことになる。

 

先のユニクロの社長の発言で言えば、年収100万円になってしまった社員が、国家に対して「憲法にもある“最低限の生活”を保障してほしい」と訴えても、「あなたは、自分に付加価値を身につける、というグローバル社会の義務を果たしていなかったので、福祉の対象にはなりません」と言われる可能性もある。

つまり、「なぜ弱者を守らなければならないのか」と問われた場合、少なくともこれまでの日本では「それは憲法で定められた国家の役割だから」と答えることも可能だったが、事態は世界規模で急速に変わりつつある。

そして、この先、憲法が変われば、憲法においても、弱者は保護されず、最低限の生活も無条件には保障されない、という事態が訪れるかもしれないのだ。

関連書籍

香山リカ『弱者はもう救われないのか』

大企業優遇の経済政策、生活保護費など社会保障費の削減、社会全体に浸透する「人の価値は稼ぎで決まる」という価値観……国による「弱者切り捨て」が進み、人々もそれを受け入れつつある日本社会。この流れは、日本だけでなく、グローバリズムに席巻された世界全体の潮流でもある。私たちは人類が苦闘の末に獲得した「自由と公正を柱とする福祉国家」のモデルを、このまま手放してしまうのか? 古今の思想・宗教に弱者救済の根拠を探り、市場経済と多数決を乗り越える新しい倫理を模索する、渾身の論考。

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弱者はもう救われないのか

大企業優遇の経済政策、生活保護など社会保障費の削減、社会全体に浸透する「人の価値は稼ぎで決まる」という価値観……。精神科医の香山リカさんは、そんな社会の潮流に警鐘を鳴らし続けてきた一人です。著書『弱者はもう救われないのか』は、古今の思想・宗教に弱者救済の根拠を探り、市場経済と多数決を乗り越える新しい倫理を模索する、香山さん渾身の論考。次世代をになう子どもたち、孫たちのためにも、自分ごととして向き合いたい本書から一部をご紹介します。

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香山リカ

1960年、札幌市生まれ。東京医科大学卒業。精神科医。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。豊富な臨床経験を活かし、現代人の心の問題のほか、政治・社会批評、サブカルチャー批評など幅広いジャンルで活躍する。『ノンママという生き方』(幻冬舎)、『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』『イヌネコにしか心を開けない人たち』『しがみつかない生き方』『世の中の意見が〈私〉と違うとき読む本』『弱者はもう救われないのか』(いずれも幻冬舎新書)など著書多数。

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