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夜のオネエサン@文化系

2020.05.15 更新 ツイート

ポリコレと発狂のあいだ~Ally Mcbeal鈴木涼美

ヴォンダ・シェパードによる「Ally Mcbeal」のオープニングテーマ曲「Searching My Soul」

 

「勝手にしやがれ」(原題 À bout de souffle)はこの話題で多くの人がパッと思いつく例だと思うのだけど、他にも素晴らしい名邦題というのは数多ある。昔、福田和也センセが授業中に映画タイトルの名訳の代表例として挙げていたのはマルクス兄弟の「我輩はカモである」(原題 Duck Soup)だったし、個人的には本だが、澁澤龍彦訳の『大股びらき』(原題 Le Grand Écart)が好きだし、「風と共に去りぬ」(原題 Gone With the Wind)とか「ライ麦畑でつかまえて」(原題 The Catcher in the Rye)なんかは、ほぼ直訳なのに細かな言葉の響きが、むしろ原題より美しいんじゃないかとすら思う。

 

映画で原題が英語の場合は最近ではそのまま中途半端なカタカナ英語にして公開するのが流行ってる気がするが、それでは今「第三の男」が公開されたら、邦題は「ザ・サードマン」なのだろうか。バードマンとかスパイダーマンの一種と勘違いされそうだけど。原題そのままというのは素直でいいのだが、日本語ルールやカタカナルールに合わせるがために中途半端に直す(冠詞を取るとか単数形に直すとかスラングを使用しないとか)くらいなら、一応ローマ字は日本でも義務教育で習うことになってるんだから、ローマ字表記のままにすればいいと思うんだけど、まぁでも確かに「グッドフェローズ」(原題 Goodfellas)が「グッド・フェラズ」だったら、加藤鷹の潮吹き調教に対抗した女性による素晴らしきフェラの奥義みたいな誤解を呼ぶかもしれないので、良し悪しではある。

いずれにせよカタカナ英語は日本人の英語会話力が世界でも群を抜いて低いことに最も大きい影響を及ぼしている元凶なので、カタカナ系のタイトルは疑ったほうがいいのだが、「パルプ・フィクション」(原題 Pulp Fiction)や「サタデー・ナイト・フィーバー」(原題 Saturday Night Fever)、「スタンド・バイ・ミー」(原題 Stand by Me)みたいに、そのままにしてくれてよかった、という例もあるので必ずしも悪くはない。

というか、こんな邦題つけるなら素直にカタカナにしてくれればよかったのに、という翻訳タイトルが稀にあって、最近だと「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」は原題はLittle Womenのままなのになぜこの、どこから出てきた?!みたいなトリッキーなカタカナ邦題がついたのか謎すぎる。ついでに、ストーリーとオブ、オブとマイの間に中黒があるのに、マイとライフの間にないのも気になる。あといまだに許し難いのが、シンディ・ローパーのGirls Just Want to Have funが当初「ハイ・スクールはダンステリア」の題名で日本リリースされたことで、このように、日本語でもない、原題でもないタイトルというのは失敗しやすい。

なんでこんな話をしているかというと、パンデミック下の状況でできることが限られる日常が全く似たようなルーティーンの繰り返しだな、と思って、そういえば永遠に同じ1日を繰り返す男の映画があったよな、と思って、タイトルなんだっけ、と思って、そうだモグラが春の訪れを伝える地域のお祭りの話でたしか原題はGroundhog Dayだったな、と思って、もう一回見よう、と思って、邦題を調べたら「恋はデジャ・ヴ」なんていう、気が触れたとしか思えないタイトルが付いていたからだ。ハイ・スクールはダンステリアといい勝負である。

ただシンディ・ローパーの歌がもう超傑作! というレベルにはこのGroundhog Day、aka「恋はデジャ・ヴ」は傑作というほどではなく、またエンディングは結構「恋はデジャ・ヴ」の名に釣り合うほどダサいのだが、毎日似たようなことを繰り返している我々にとって、ある日突然、同じ1日が延々と繰り返される状況に陥った男の物語は示唆的でもある。

簡単に内容を紹介すると、嫌味で自尊心が強く、冷笑的であまり誰にも好かれていないとある天気予報士の男が、モグラが春の訪れを予言する定番のイベントの取材に田舎町を訪れる。ダサい田舎町なのでカメラマンとプロデューサーを連れ立ってさっさと都心に帰るつもりが、吹雪で道路が閉鎖され、足止めを余儀なくされる。そして翌朝6時に目覚めると、その日は昨日すでに経験したはずの「モグラのイベントの日」になっていて、そこから毎朝6時を境に、全く同じ内容の同じ日が延々と繰り返されるのだ。

道で声をかけてくるホームレスから、天気から何から何まで一緒で、彼だけが昨日も同じ日を経験したことを覚えているが、他のみんなは新しい一日としてその日を過ごしている。そして彼は警察に捕まってみたり、自殺してみたり、事故を起こしてみたりもするが、それでも朝6時にはリセットされて同じ日に戻っている。

しつこくしつこく繰り返される同じ内容の1日の中を、彼は全く同じことをしても過ごせるし、全く違う行いをしてみることもできる。昨日と同じ、嫌味で自尊心の強い男としても過ごせるし、考え直していい人になってみることもできる。声をかけてくるとわかっている人に嫌味を言うこともできるし、素敵なことを伝えることもできる。最初はしつこい1日にブチ切れまくっている彼だが、徐々にその1日を無駄にせずに進化のために使い、ピアノを上達させ、街の人々全員について詳しくなり、そして恋に落ちていく(←恋はデジャ・ヴな所以)。

なるほど日々違うレストランを開拓することも、海外に飛んだり温泉に出かけたりすることも、学校で事件に巻き込まれることも、会社で新しい出会いにときめくことも封じられた今の私たちの毎日は、毎日時計を午前6時に巻き戻されている彼と大差ないような気がする。逆に言えば、普段は何かと外に出かければ昨日とは違う人に出会い、昨日と違うものを食べて、昨日と違う場所で寝ることができる日常は、そういった刺激や変化に惑わされて目眩く流れの中にいるような錯覚を起こすが、実際人は1日という箱を毎日毎日飽きもせず与えられ、それを似たようなものとして過ごすか、違う者となって過ごすか、自由な選択肢を与えられながらも、反復の中にいることは間違いないような気すらする。

そして私は外出が制限された日常の中で、朝ごはんを食べながら、高校大学時代によく観ていた米ドラマを1話か2話観るというルーティーンが出来つつあって、というのは朝ごはんは映画を見ながら食べるには軽すぎるし、テレビのニュースは憂鬱になるからなのだけど、それで「アリー・マイ・ラブ」(これも原題はAlly McBealで、アリーと後ろのMの頭文字が一緒な上に、原題じゃないのにカタカナタイトルなので非常に紛らわしい失敗訳だと思うんだけど)を全話見返して、奇妙なデジャ・ヴを感じているのだ。

アリーは97年から2002年まで米国で人気を集めていたテレビシリーズ(時代としてはセックス・アンド・ザ・シティと似ているので、ゲスト俳優などがしょっちゅう被っている)で、いわゆる法廷を舞台にしたコメディである。変人ばかりな上に請け負うケースも珍妙なものばかりの弁護士事務所のメンバーたちが、時々恋愛関係になったり、真面目に事件に取り組んだりする様が、米コメディらしいシニシズムと風刺を交えて描かれる。

そして、90年代終わりからゼロ年代の米国でまさにホット・トピックだったのが、セクシャル・ハラスメントやLGBTの問題だったわけで、当然、セクハラ、パワハラ、ゲイがらみの珍妙な訴訟が次から次に登場するのだが、その様子がまさに全世界でその後繰り返される終わりなき議論と一致する。女性がセクシーな服を着ているのは社会の要請か、職場に色恋を齎す女子社員は糾弾されるべきか、エロい格好で郵便物を配る事務係は罪があるか、ゲイであることを隠して婚約したら罪に問われるか、男性が女を顔で判断するのと女性が男を金で判断するのはどちらが罪深いか、部下の男性による上司の女性へのセクハラは適用されるか、女性によるセックスの誘いは男性によるそれより罪が少ないのか、などなど。

象徴的なのはシーズン3で死んでしまうアリーの同僚で、彼は変人と変態だらけの事務所の中で唯一真面目でフェミニスト、弱者の権利に敏感な良心的な存在だったのが、ある日そんなポリティカリーにコレクトすぎる自分に発狂して、「俺だって本当は女にリスペクトされたいし奥さんが自分より活躍したらやだし子供作ったら女は家にいて欲しいし巨乳美女侍らせたいし男らしくたててもらいたいんだーーーー」となっていきなり黒っぽかった髪を染め、金髪豚野郎に変身する。その様はまるで、黒人のリベラリストを大統領にした後に、気の触れた前髪のアメリカ・ファーストおじさんを大統領に押してしまったアメリカ国民の未来を占うようである。

フェミニズム後進国と言われる日本が今直面している、人権や自由や伝統や進化の問題は、それをもっと極端にしたレベルですでにアリーたちが経験済みである。そしてアリーが地上波でも放送されていたはずのこの国でも、実に見事に似たような過ち、似たような不毛さを繰り返している。その様子は「恋はデジャ・ヴ」のおっさん天気予報士が、反復を不毛なものとしていた様に非常によく似ている。

後進国の強みは、前例のある問題と対峙できる点である。しかし人間は愚かなので、工業的な後進国は先進国と同じようにすでに原因が解明された公害を撒き散らし、人権的な後進国は先進国が経験したジレンマを同じようにジレンマする。不毛な反復を繰り返すその先に何かしらの進化を見たいのであれば、歴史を学ぶしかないのだけど、そしてそれは教科書なんて引っ張り出さなくてもちょっとした課金で気軽に見られる位置にいくらでもあるのだけど、それでもそれを参考にせずに、反復を学びなきものとして、ある意味毎日をフレッシュに過ごすのはそれはそれで自由なのだろう。

せっかく先に失敗して見せてくれたセクハラ先進国には申し訳ないが、日本でもこのまま脇が甘い割に暴力的な女性運動が続けば、金髪豚野郎が発狂するような気はするし、そういった愚かな人間たちは、モグラが何度春を告げても、進化しきるなんてことはないのだろうと思う。

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鈴木涼美

1983年東京都生まれ。蟹座。2009年、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。著書『AV女優の社会学』(青土社/13年6月刊)は、小熊英二さん&北田暁大さん強力推薦、「紀伊國屋じんぶん大賞2013 読者とえらぶ人文書ベスト30」にもランクインし話題に。夜のおねえさんから転じて昼のおねえさんになるも、いまいちうまくいってはいない。

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