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ゆりかごに聞く

2019.05.24 更新

#1 さらわれた赤ん坊…家族の愛をめぐる感動のミステリーまさきとしか

新聞社で働く柳宝子は、虐待を理由に、娘を元夫に奪われていた。ある日、21年前に死んだはずの父親が変死体で発見される。宝子は父の秘密を追うことになるが、やがてそれは家族の知られざる過去につながる。一方、事件を追う刑事の黄川田は、自分の娘が妻の不貞の子ではないかと疑っていた……。『完璧な母親』などの作品で根強いファンを持つ、まさきとしかの最新作『ゆりかごに聞く』。その発売を記念して、一部を公開します。

*   *   *

(写真:iStock.com/grafxart8888)

あの女さえいなければ──。

心の奥底から湧き上がる憎しみの言葉。

息を吐いたら、体が震えた。呼気のなかにも、こめかみをつたう汗にも、あの女さえいなければ、という言葉が溶け出している。

あの女は夜の通りを歩いている。

右側にはオフィスビルやマンションが建ち並び、左側には目隠しフェンスが続いている。目隠しフェンスの向こうは古い木造家屋が並び、その背後にはJRの線路が走っている。再開発されたばかりの地区は、道路を挟んだ右側と左側で別々の時代が流れているようだ。

女は、整備された右側を歩いている。石畳の歩道、街路灯と街路樹、すっきりとそびえるビル。日付が変わるまで二時間近くもあるのに、通りはすでに寝静まっている。

街路灯の白いあかりが、女の姿を浮かび上がらせる。むっちりとした体に、ジーンズとパンプス。足を踏み出すたびに、尻がむっちむっちと左右に動く。

ヒールの音に混じって、カラカラとまわるタイヤの音が響いている。女が押すベビーカーの音だ。ベビーカーにはピンクのうさぎのぬいぐるみがぶらさがっている。赤ん坊はさっきまであうあうと泣いていたが、眠ったのだろうか、いまは静かだ。

あの女さえいなければ──。

憎しみの言葉は体じゅうを満たし、いまにも皮膚を食い破り、あふれ出しそうなほどだ。

この憎しみから解放されれば、苦しみも痛みも焦燥感も不安も恐れもすべて消え失せるとわかっているのに、まるで魂を乗っ取られたように激しさが増すばかりだ。

この憎しみはいま生まれたのではない。「あの女」の存在を知った瞬間、恐ろしいスピードで芽生えたのだ。

女は猫背ぎみでベビーカーを押している。うさぎのぬいぐるみが揺れている。だるそうにも投げやりにも見える歩き方。結んだ髪のあいだからのぞくうなじは白く、甘ったるいにおいがしそうだ。

きっと赤ん坊もむせかえるように乳臭いのだろう。

そう思った瞬間、自分が憎んでいる「あの女」は前を歩く女ではなく、ベビーカーのなかの赤ん坊ではないかと思いついた。

その考えに衝撃を受けたのは一瞬のことで、すぐに受け入れていた。

あの女は自分の罪を知ることなく生まれてきた。無邪気に泣き、笑い、生きるために貪欲におっぱいを求め、幸福になろうとするだろう。自分のせいで幸せになれなかった人間がいることなど想像もせずに。

女は歩道を右に折れ、ビルの陰に入っていった。

整備された広場があった。植え込みと花壇が配置され、東屋とベンチがある。外灯と自動販売機のあかりが広場をほの白く照らしている。女のほかに人の姿はない。

女はベンチに座り、煙草に火をつけた。

こんな時間にこんな場所でなにをしているのだろう。ただの散歩か、それとも待ち合わせだろうか。

そもそも自分はなにをしているのだろう。いや、なにをしようとしているのだろう。目的や企みがあるわけではない。ただ、あの女さえいなければ、という強い憎しみに引っ張られているだけだ。

マンションを出たときから女は無防備だった。まるで招くように誘うように、人通りの少ない通りをのんびりと歩いた。一度も振り返ることはなかった。

いまもそうだ。ひと気のない広場のベンチに座り、無防備に背中を見せている。警戒する様子は微塵もなく、自宅にいるかのようにくつろいでいる。まるで招くように誘うように。

女は煙草を投げ捨て、立ち上がった。尻を揺らしながら、自動販売機が並ぶ広場の奥へと歩いていく。ベビーカーはベンチの前に置きっぱなしだ。

飲み物の自動販売機の前に女は立っている。ぼんやりとしたあかりが、肉づきのいい輪郭を縁どっている。女は振り返らない。なにを飲もうか、頭のなかにはそれしかないように見える。

ゆっくりと広場に足を踏み入れる。女は気づかない。石畳の上の吸殻が弱々しい火の色を見せ、細い煙が真上へ昇っている。そのすぐ横にはベビーカーが放置されている。まるで招くように誘うように。そこから奥に目を向けると、植え込みが女の姿を隠している。電車が走り抜ける音がするが、こことは隔たった世界から聞こえるようだ。

ベビーカーをのぞき込んだ。赤ん坊がいる。眠っている。安らかに。無防備に。自分の罪深さを知ることもなく。想像どおり、甘ったるい乳臭さを放っている。まるで自分は無垢な存在だと主張するように。

この女さえいなければ──。

その瞬間、「あの」が「この」に変わった。

この女が生まれてこなければ、幸せになれたのに。この女が、すべてを奪った。じゃあ、この女を亡き者にすれば、失ったすべてが戻ってくるのだろうか。そんな考えがよぎる。

ベビーカーに両手を伸ばし、赤ん坊を抱き上げた。赤ん坊はぐったりと重く、その生々しい重みにたじろいだのは一瞬で、赤ん坊を胸に押しつけ、駆け出した。

怖かった。女に気づかれることでも追いかけられることでもなく、自分がしていることが。それよりも、これからすることが。

女に気づいてほしかった。追いかけてほしかった。赤ん坊を奪い返してほしかった。それでも、足は止まらない。ぐったりと重い憎しみを抱きしめ、暗いほうへ、暗いほうへと向かっていく。

(写真:iStock.com/JaCZhou)

子供が泣いている。暗闇に溶け込み、姿は見えない。けれど、押し殺した泣き声が聞こえる。いや、押し殺しているのではなく、もう声が出ないのかもしれない。空気を求めてあえぐような頼りない声。

女の子だ。閉じ込められているのか、それとも置き去りにされたのだろうか。真っ暗な場所には彼女しかいない。彼女はあきらめている。いくら声をあげても誰も助けてくれないことを、そこから出られないことを、知っている。

彼女を俯瞰するまなざしがある。ゆっくりと彼女に近づいていく。暗闇に、小さな姿が浮かび上がる。床にぐったりと横たわり、力なく手足を投げ出している。目を閉じ、口は半開きだ。涙で濡れた顔に髪の毛が張りつき、嗚咽が華奢な肩を震わせる。

かわいそうな子供。このままでは死んでしまうかもしれない。

けれど、彼女を見つめるまなざしに感情はない。彼女を救う方法はあるのに、手を差し伸べようとはしない。

これは夢だと気づく。彼女を見つめているのは自分だと、彼女を救えるのは自分だけだと、そう認識する。それでも感情は生まれない。夢のなかのまなざしは、代わり映えのない風景を眺めるように、見捨てられた子供を見つめている。

そこで目が覚めた。

宝子は息を吸い込んだ。呼吸を止めていたのだろうか、体が空気を求めていた。

覚醒し切らない頭で、いまのは愛里だったと思う。泣き疲れた愛里を、自分は無感情に眺めていた。

カーテンはまだ沈んだ色だが、ほの暗い部屋には朝の気配が漂っている。目覚ましアラームを聞いていないから六時半前だろう。

愛里が泣いていた、とベッドのなかでもう一度嚙みしめた。その途端、不吉な予感に駆られて飛び起きた。

愛里になにかあったのではないだろうか。

反射的に携帯を手にしたところで理性が生まれた。五時五十分。こんな早朝に電話をして、なんて言えばいいのだろう。

変な夢を見たんだけど愛里は無事? そう聞いたことは過去に何度もある。しかし、宝子の夢と、現実の愛里がつながっていることは一度もなく、呆れと怒りが入り混じった声が返ってきただけだった。

手にした携帯で、電話をする代わりにニュースサイトを開き、函館で子供が事件や事故に遭ったニュースがないかをチェックする。交通事故、行方不明、殺人事件、傷害事件、転落事故。ひととおり閲覧し、恐れているニュースがないことに少し安堵した。

玄関ポストから新聞を取る。自社の東都新聞のほかに全国紙が二紙。いつもはコーヒーを飲みながら、まずは自社新聞の一面を読み、次に社会面を読むが、この日はすぐに社会面を開いた。大きな事件や事故でない限り、北海道の記事がここに載ることはない。

〈八王子男性殺害 交際中の女性を事情聴取〉

社会面の見出しに目が留まった。

やっぱり女だったのか、と思いながらも、ほかの記事に視線を流す。函館の記事も、子供が事件や事故に巻き込まれた記事もなかった。

夢の感触がまだ身の内に張りついている。愛里を見つめる無表情なまなざし。あれはまぎれもなく自分だった。そう思うと、胸がふさがれたように苦しくなった。

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まさきとしか

1965年、東京生まれ、札幌育ち。2007年、「散る咲く巡る」で第41回北海道新聞文学賞を受賞。文庫『完璧な母親』が話題に。その他の著書に、『いちばん悲しい』『玉瀬家、休業中。』『ある女の証明』『ゆりかごに聞く』など多数。

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