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ゆりかごに聞く

2019.05.26 更新 ツイート

#3 「父」との対面…家族の愛をめぐる感動のミステリーまさきとしか

新聞社で働く柳宝子は、虐待を理由に、娘を元夫に奪われていた。ある日、21年前に死んだはずの父親が変死体で発見される。宝子は父の秘密を追うことになるが、やがてそれは家族の知られざる過去につながる。一方、事件を追う刑事の黄川田は、自分の娘が妻の不貞の子ではないかと疑っていた……。『完璧な母親』などの作品で根強いファンを持つ、まさきとしかの最新作『ゆりかごに聞く』。その発売を記念して、一部を公開します。

*   *   *

(写真:iStock.com/KatarzynaBialasiewicz)

父は生きていたら七十五歳だ。母とは十二歳離れていた。

はじめて父と会ったのは宝子が小学校に上がる前、クリスマスが近い日曜日だった。そのころ宝子と母は、仙台で暮らしていた。母とデパートに行き、お子様ランチを楽しみに最上階の食堂に入ると、知らないおじさんがテーブルから遠慮がちに手を振ってきた。あのとき父は四十八歳だったが、短い髪は白髪が目立ち、陽に焼けた顔にはしわが刻まれていた。小柄で、猫背で、歳をとっていた。おじさんというより、おじいさんに見えた。やさしそうなおじいさん。それが第一印象だった。

宝子は警察署の遺体安置所で、そのときのことを思い出していた。

目の前に横たわる男にはやさしげな雰囲気はなく、弱々しく、哀れで、惨めだった。白く固まった皮膚は黄みがかり、いくつもの老人斑がある。鼻も口も耳も小さく、閉じた目のまつげはまばらだ。やさしさを見いだそうとすればするほど、年老いた男はただ悲しいだけの存在になっていく。

父のはずがない。

父は二十一年前に死んだのだから。

この人は、ただのかわいそうなおじいさんだ。たとえ父の面影を宿していたとしても、父のはずがないのだ。

遺体には、鈴木和男という名前がついていた。

鈴木和男は、三日前の早朝、水戸市内の神社の境内に倒れているところを発見された。発見されたときはすでに亡くなっていた。身元を証明するものは身につけていなかったが、財布に入っていたスーパーの領収書の宛名から、市内の建設会社の寮に住んでいることが判明した。鈴木和男が偽名であることは、会社では暗黙の了解だった。十年ほど前、どこからともなく流れ着き、当初は工事現場で働いていたが、体が衰えてからは会社の寮にそのまま住まわせてもらう代わりに炊事や掃除をしていたらしい。鈴木和男の素性を知るものはなく、遺体の引き取り手もいなかった。

検視の結果、死因は心臓死とされ、事件性はないとのことだった。

「お父様でまちがいありませんか?」

背後からの声に、宝子の体は勝手にうなずいていた。しかし、父のはずがない、という内からの声は大きくなるばかりだ。

警察から職場に電話があったのは、今日の九時半ごろだった。あれから五時間しかたっていないのに、世界が変わったように感じられた。

「どういうことですか?」

無意識のうちに声にしていた。さっきから繰り返している言葉だが、何度聞いても足りなかった。

数秒の沈黙を挟んだのち、「神社の境内で」と、控えめながらも思いついたような声が返ってきた。返事があるまで時間がかかったのは、どういうことですか? と繰り返す宝子に、まだ伝えていない情報がないか考えていたせいかもしれない。

「神社の境内で酒を飲んでいたらしく、ご遺体のそばにはカップ酒の空瓶が落ちていました。三本です」

定年間近に見える刑事の声が、宝子の鼓膜に届き、言葉が意味を持つまでしばらくかかった。

死亡推定時刻は、午前〇時前後とのことだった。深夜に神社の境内で、おそらくたったひとりでカップ酒を飲む、老いた男。幸せだったとは思えない。

宝子が思い出す父は、いつも穏やかな笑みを浮かべている。父と暮らしたのは六年間だけだったが、はじめて会ったときの印象のままの人だった。口数が少なく、いつも静かにそこにいた。いちばんにぎやかなのはテレビの野球中継を観ているときで、「おっ」「あー」「よしっ」などと、短いながらも興奮した声を発した。

父の印象は薄い。その薄さが父だった。

宝子は、横たわる男から二十一年分の年月を差し引いてみた。記憶のなかの父に二十一年分の歳をとらせてみた。ふたりがぴたりと重なることはなかった。

父の面影はすでに曖昧になっている。写真を見なければ顔の細部を思い描くことはできないし、声を正しい音にして再生することはむずかしい。けれど、いつも満足そうにほほえんでいたことと、目の端で母の姿を追っていたことはあざやかに覚えている。

(写真:iStock.com/botamochi)

父の葬儀は三日後に行った。

葬儀社の安置所は六畳の和室で、父が眠る棺と簡素な枕飾りがあるだけだ。

ふいに線香のにおいが強く感じられ、二十一年前の葬儀がよみがえる。

父は単身赴任先の青森で死んだ。部屋のストーブから火が出て、就寝していた父は逃げることができなかったらしい。

宝子は父の亡骸を見ていない。見ちゃいけないと母に言われたが、こっそり棺をのぞくと人間の輪郭をした白い布が納まっていた。髪の毛一本見えなくて、この白い布の下に父がいることが信じられなかった。遺体の損傷がひどいことは、説明されるまでもなく理解できた。宝子に亡骸を見せないためだろう、母は「お父さんはもう天国に行ったの。ここにいるのは抜け殻なの。だから、心のなかでお別れをしなさい」と言った。

あれは父ではなかったのだ。

じゃあ、誰だったのだろう。

宝子は棺のなかの父を見つめ直した。

警察署の安置所で対面したときよりも父の面影が濃く感じられた。それでも宝子の知らない二十一年を生きた父は、記憶のなかの父とは重ならない。

「お父さん」

そっと呼びかけた声は、父に届く前に霧散した。

ノックの音がして、ドアを開けると喪服を着た男が三人立っていた。父が働いていた建設会社の人たちで、焼香に来たと告げた。五十歳前後の社長と、寮で一緒だったという六十代に見えるふたりだ。

「娘さんが見つかったと警察から聞いて、私らもほっとしました」

焼香を終え、社長が言った。六十代のふたりは、こくこくうなずいている。

「父が大変お世話になりました。ご迷惑をおかけしました」

宝子は畳に手をつき、深く頭を下げた。

「いやいや。このたびはご愁傷さまでした。でも、スーさんも娘さんに会えて喜んでると思いますよ。いや、気の毒なことだったけど」

社長の言葉に、六十代のふたりはまたこくこくうなずく。

聞きたいことがたくさんあった。ありすぎて、こんがらがってうまく取り出せない。「あの、父は」と口にしたきり、次の言葉が出てこなかった。

三人は神妙な顔をして宝子の言葉を待っている。

「父は、記憶喪失だったんでしょうか」

口をついた言葉に自分自身で驚いた。

父が記憶喪失だった可能性など考えてもいなかった。それなのに、自分の言葉を認知した瞬間、そうだったにちがいないと結論づけた。

わからないことだらけだった。

なぜ父は二十一年前に死んだことになったのか。父は二十一年間をどのように生きたのか。二十一年前に死んだのは誰だったのか。

そして、いまはっきりと現れた疑問。生きていたなら、どうして母や宝子に連絡をしなかったのか。家族思いだった父がそうしなかったのは、記憶を失ったからとしか考えられない。

いやあ、と社長は首をかしげ、「そんなことはなかったと思いますよ」と答えた。なあ、と六十代のふたりに確認する。

「はい。記憶喪失ではなかったと思うけど。わけあって会えない娘がいるって言ってたし」

宝子のなかで時間が止まった。思考も心臓も動きを止めた。それなのに外側の時間は容赦なく流れていく。

「なあ。記憶喪失なんかじゃなかったよなあ」

小柄なほうが、もうひとりの男に同意を求める。

「うんうん。酔っぱらうと、よく昔のことしゃべってたし。っていっても、最近のスーさんはたいてい酔っぱらってたけどな」

男は前歯のない口を開けて笑い、はっとして顔を伏せた。

「昔のことって……」

息が続かず、言葉がちぎれた。

「昔のことって、たとえばどんなことですか?」

「家族のことばかりだったよ」

小柄なほうが慰める口調で答える。

「スーさん、普段は自分のこと全然しゃべらないんだけど、ここ最近急に酔っぱらうとおしゃべりになって、よく奥さんとか娘さんの自慢をしてたなあ。奥さんがやさしいとか十以上歳が離れてるとか、毎朝弁当つくってくれたとか、娘さんは俺とちがって勉強ができるとか。そういえば、居酒屋に行ったときは、俺の嫁のつくる玉子焼きのほうがうまいとか言ってたなあ」

幼いころの日々があざやかによみがえった。母のつくるきれいな黄色の玉子焼き、その端を「あーん」と口に入れてもらったこと。母から弁当を受け取るときの嬉しそうな父の顔。肩車されたとき、父の頭皮から漂ったどこかなつかしいにおい。

じゃあ、父は自分の意思で姿を消したことになる。そんなことがあるはずないのに。

「でも、なつかしそうにしゃべるようになったのはここ半年くらいのことかな。スーさんもやっと吹っ切れたんじゃないかな。うちに来たばかりのときはつらそうだったなあ。奥さんを亡くしたばかりだって言ってたから」

「えっ」

大きな声が出て、それきり声を失った。

父は、母が死んだことを知っていた──。

父が建設会社に流れ着いたのは十年くらい前だと聞いていた。看護師だった母が通勤中に倒れ、そのまま逝ってしまった時期と一致している。

「酔っぱらったときに、ぽつりと漏らしてね。スーさん、泣いてたなあ」

なにを、どう考えていいのかわからない。父は生きていただけではなく、思いがけず近くにいたのではないだろうか。少なくとも、母の死を知ることができる距離に。

わけあって会えない娘がいる、と父は言っていたらしい。いったいどんなわけなのだろう。

会社の寮には、ボストンバッグひとつ分の父の荷物があるという。明日、火葬のあとに取りにいく約束をして男たちを見送った。

「お父さん、二十一年もなにしてたの?」

棺のなかの父に話しかけた。

頬にそっとふれる。冷たい。こちらの体温を拒むような決然とした冷たさだ。二十一年前の葬儀ではこんなふうにさわることができなかった。けれど、よかったのだ。あれは父ではなかったのだから。

宝子は、血のつながった父親のことをなにひとつ知らない。幼いころに、どうしてうちにはお父さんがいないのかと思ったことはあったし、母に聞いたこともあった。けれど、会いたいと焦がれたり、自分の境遇を恨んだりしたことはない。そうなる前に、柳正孝という人間が父になってくれたからだ。

「お父さん」

呼びかけた声はどこに届くのだろうと考えた。

宝子の知らない二十一年を過ごした目の前の父ではなく、自分の記憶のなかの父に届く気がした。

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まさきとしか

1965年、東京生まれ、札幌育ち。2007年、「散る咲く巡る」で第41回北海道新聞文学賞を受賞。文庫『完璧な母親』が話題に。その他の著書に、『いちばん悲しい』『玉瀬家、休業中。』『ある女の証明』『ゆりかごに聞く』など多数。

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