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歴史と戦争

2018.08.06 公開 ツイート

猛火、爆風、死体の山……これが戦争のリアルだ 半藤一利

 平成最後の「終戦の日」を迎えるこの夏。改めて「戦争」について考えてみませんか?

 そのための格好の一冊が、作家・半藤一利さんの『歴史と戦争』です。80冊を超える著作の中からエッセンスのみを厳選、再構成した本書は、まさに「半藤日本史」の入門編にして集大成。幕末・明治維新から、軍国主義への突入、太平洋戦争と敗戦、そして戦後の復興までを一気につかむことができます。

 今回は特別に、その中から一部を抜粋してお届けします。

iStock.com/LewisTsePuiLung

私が体験した「東京大空襲」

 中川の河岸に辿りつくと、平井橋畔のちいさな広場はすでに避難の老若男女で埋まっている。とにかく人が大勢いることは力強いことで、助かったとホッと息をつく思いをしたが、それはとんでもない間違いであった。追ってくる猛火の凄絶さは、火と風とが重なり合ってちょっとした広場なんかないにひとしいのである。

 ついに迫ってきた火の柱から噴き出される火の粉が喊声を上げるようにして人びとにとりつく。逃げ場を失って地に身を伏せる人間は、瞬時にして、乾燥しきったイモ俵に火がつくように燃え上がる。髪の毛は火のついたかんな屑のようでもあった。背後を焼かれ押されて人びとがぼろぼろと川に落ちていく。広場も川も生き死にをわける修羅場と化して、人間そのものが凶器になっている。

(『日本国憲法の二〇〇日』)

もう「絶対」という言葉は使わない

 家に、いや、家のあったところに戻ったのは、もう太陽も高くなった朝の九時ごろではなかったかと思う。びしょ濡れの洋服を乾かさないことには寒くて寒くてたまらなかったし、それに靴下だけでは焼け跡を歩くことはできない。洋服を乾かす火は周囲に山ほどあった。靴は川に飛び込もうと人が脱いだのが何足もあった。すべてそれを利用した。

 いま回想すれば、まわりには炭化して真っ黒になった焼死体がいくつも転がっていたのである。その人たちは船に乗る前にたしかに目にした、あのかんな屑のように燃え上がった人たちであったのであろう。しかし、過去に多くの死体を見てきたためか、感覚は鈍磨していた。

 家は綺麗に焼けている。あまり帰りが遅いので焼け死んだかと思っていたらしい父が、どこからともなく姿を現わして、何もいわずにニコニコとしたのが嬉しかったことも覚えている。

 そしてその焼け跡で、俺はこれからは「絶対」という言葉を使うまい、とただひとつのことを思った。絶対に正義は勝つ。絶対に日本は正しい。絶対に日本は負けない。絶対にわが家は焼けない。絶対に焼夷弾は消せる。絶対に俺は人を殺さない。絶対に……と、どのくらいまわりに絶対があり、その絶対を信じていたことか。それが虚しい、自分勝手な信念であることかを、このあっけらかんとした焼け跡が思いしらせてくれた。俺が死なないですんだのも偶然なら、生きていることだって偶然にすぎないではないか。

 中学生の浅知恵であろうかもしれない。でも、いらい、わたくしは「絶対」という言葉を口にも筆にもしたことはない。

(『日本国憲法の二〇〇日』)

坂口安吾が見た戦争の恐ろしさ

 この無差別爆撃の惨状について、わたくしがウムと唸らせられた描写がある。戦後の二十一年春にかかれたものであるが、作家坂口安吾の『白痴』という小説である。この夜の絨毯爆撃後の下町の情景を、大森に住んでいた安吾はわざわざ“見物”にきたのである。わたくしが同じ話をくり返すよりも、これを引用したほうがずっといいことかと思われる。

「人間が焼鳥と同じようにあっちこっちに死んでいる。ひとかたまりに死んでいる。まったく焼鳥と同じことだ。怖くもなければ、汚くもない。犬と並んで同じように焼かれている死体もあるが、それは全く犬死で、然しそこにはその犬死の悲痛さも感慨すらも有りはしない。人間が犬の如くに死んでいるのではなく、犬と、そして、それと同じような何物かがちょうど一皿の焼鳥のように盛られ並べられているだけだった。犬でもなく、もとより人間ですらもない」

 このリアリズム! そう思う。辛うじて生きのびたわたくしが、この朝に、ほんとうに数限りなく眼にしたのはその「人間ですらない」ものであった。たしかにゴロゴロ転がっているのは炭化して真っ黒になった物。人間の尊厳とかいう綺麗事はどこにもなかった。しかし、いま思うと、わたくしはそれまでにもあまりにも多くの爆弾で吹きちぎられた死体の断片を見てきていたために、感覚がすっかり鈍磨しきっていて、転がっている人間の形をしたそれらがもう気にもならなかったのである。

 戦争というものの恐ろしさの本質はそこにある。非人間的になっていることにぜんぜん気付かない。当然のことをいうが、戦争とは人が無残に虐殺されることである。

(『B面昭和史』)

 

関連書籍

半藤一利『歴史と戦争』

幕末・明治維新からの日本近代化の歩みは、戦争の歴史でもあった。日本民族は世界一優秀だという驕りのもと、無能・無責任なエリートが戦争につきすすみ、メディアはそれを煽り、国民は熱狂した。過ちを繰り返さないために、私たちは歴史に何を学ぶべきなのか。「コチコチの愛国者ほど国を害する者はいない」「戦争の恐ろしさの本質は、非人間的になっていることに気付かないことにある」「日本人は歴史に対する責任というものを持たない民族」――八〇冊以上の著作から厳選した半藤日本史のエッセンス。

半藤一利『靖国神社の緑の隊長』

あの悲惨な戦争のさなかで、こんなにも立派に生きた日本人がいた。 終戦75回目の夏にどうしても次の世代に語り継ぎたい8人の将校・兵士の物語。

半藤一利/池上彰『令和を生きる 平成の失敗を越えて』

平成元年、ベルリンの壁とともに世界秩序も崩壊したことに気づかず、バブルに浮かれていた日本人。バブル崩壊後も、相次ぐ大災害と長きデフレにより、目先の生活を守ることに追われて、志向はさらに内向きに。そして日本は、理念を持たない「戦争ができる国」となり、「デマと差別が溢れる国」となった。その姿は、国際社会から取り残され、無謀な戦争に突き進んだ戦前の日本とあまりに重なる。過たずに済む分岐点はどこだったのか。昭和史研究の泰斗と現代を代表するジャーナリストが、平成の失敗を徹底的に検証した白熱対談。

半藤一利『歴史と人生』

『史記』でも『万葉集』でも、人間の悩みは現代と変わらない。失意のときにどう身を処すか、憂きこと多き日々をどう楽しむか。答えはすべて、歴史に書きこまれている。歴史こそ究極の人間学なのである――敬愛してやまない海舟さん、漱石さん、荷風さん、安吾さんの生き方。昭和史、太平洋戦争史を調べる中で突きつけられた人間の愚かさ、弱さ。天下国家には関係ないが、ハハハと笑えて人生捨てたもんじゃないと思わせてくれるこぼれ話等々。80冊以上の著作から厳選した歴史探偵流・人生の味わい方。

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半藤一利

1930年、東京・向島生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。松本清張、司馬遼太郎らの担当編集者をつとめる。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、専務取締役などをへて作家。「歴史探偵」を名乗り、おもに近現代史に関する著作を発表。著書に『漱石先生ぞな、もし』(正続、文春文庫 新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(文春文庫 山本七平賞)など多数。『昭和史1926‐1945』『昭和史 戦後篇1945‐1989』(共に平凡社ライブラリー)で毎日出版文化賞特別賞、2015年、菊池寛賞受賞。

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