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わたしの容れもの

2018.05.06 公開 ツイート

親しい人には見える「たましいに似た何か」 角田光代

人間ドックの結果だけで、話が弾むようになる、中年という世代。老いの兆しは、悲しいはずなのに、なぜか嬉々として話すようになるのです。そんな加齢の変化を好奇心たっぷりに綴った角田光代さんの『わたしの容れもの』が、文庫になりました。一部抜粋して、変わることのおもしろさをお届けします。

昔からの友人が変わらなく見える

 他人を認識するとき、目に見えるのは外側だけだ。私たちは他者をまず外見で区別して覚える。けれども、見かけで認識した人とだんだん仲よくなってくると、相変わらず目に見えるのは外見だけなのにもかかわらず、私たちは何か違うものを見はじめるように思う。

 なぜそんなことを思ったかというと、昔からの友人たちがあまりにも変わらなく見えるからだ。

 私の周囲で同窓会はあんまりないのだが、十年近く前、中高時代のクラブ活動の同窓会があった。そのとき私は三十代後半。三十代、四十代の人たちが中心に集まった。卒業してそれっきりの私は、先輩後輩ともに、二十年ぶりくらいに会ったのだが、中高生のときとまるきり変わっていないので驚いた。もちろん、年齢は重ねている。黒かった髪が茶色だったり、直毛だったのがパーマになっていたり、素顔だったのが化粧していたり、当然ながらの変化もある。でも、なんというか、変わっていない。

 みんな、私にも変わってない、と言う。そのとき私はふとあやしんだのである。変わっていないはずがないよ……みんなでいっせいに老けたから、わからなくなっているだけでは……? と。中高のときから変わってない変わってないと手を取り合う三十代、四十代の女たちを、現役の中高生が見たら、「おばさんたちがお世辞を言い合って、はしゃいでいる」と認識するだろう。

 この「変わってない」は、年齢を重ねていくとどんどん増えていく。町で大学時代の同級生にばったり会う。卒業以来会っていないのに、すれ違っただけで「あ!」とわかる。これがもう、変わっていない証拠。「あれ、〇〇ちゃん?」「やだ、カクちゃん!」「変わってないからすぐわかった」「やだー、カクちゃんだって変わってないー、この近所なの?」と、短く会話して別れる。

 学生時代の先輩後輩、アルバイトしていた会社の人、デビュー当時に仕事をした編集者。淡いつきあいだと顔も忘れているが、いっときでも親しくつきあうと、名前が出てこなくても顔を見ればすぐわかる。

 去年、大学時代に私の所属していたサークルが四十周年を迎え、その記念パーティが開催された。もう六十代のサークル創立者の世代から、現在の大学一年生まで、百数十名が揃った。ここでも私は先輩後輩がたに久方ぶりに会ったわけだが、みんな、変わっていないのである。変わっていないはずはないとわかっていても、現役大学生から見たら、「はしゃいでいるおじさん、おばさん」だと理解していても、やっぱり、みんな大学生のときのままに見える。

 そうして私は思ったのである。いっせいに老けたから、わからないのではなくて、私たちは、顔じゃない部分を見ていたのではないか、と。

 その人とまず認識するのは顔や体型だ。けれど親しくなっていくうちに、その顔や体つきに、私たちはべつのものを見る。あるいは、顔や体つきを介して、べつのものに触れる。それはおそらく、その人の核とか芯(しん)のようなものに違いない。個性や品性ではない。加齢も経験も、何ものも手出しできない、増えることも減ることもない不変の何か。そうしたものを、私たちはだれしも持っているのに違いない。親しい人ほど、その部分を見るようになるのだ。

 だから、何年会っていなくても、何年経過していても、すぐわかる。町ですれ違っただけでわかる。まったく変わっていないように見える、のではなく、事実、まったく変わっていないのだ、というのが、私の仮説である。

 そうしてこうも思うのだ。その、不変の部分のかたちか、サイズか、色合いか、何かが似ている人とこそ、親しくなるのではないか。

 つねづね、縁について不思議に思っていた。学生時代に顔と名前が一致しなかったような人と、三十代になってから再会してものすごく仲よくなる。いっとき親しくて、でもずーっと会ってなくて、でも二十年後、またやりとりが再開する。なぜなのか、自分ではわからない。

 疎遠になることは、ふつうのことだと思っている。環境や趣味や立場が異なれば、共有するものもなくなる。そして異なっていくのが、あたりまえのことだ。不思議なのは、続くこと。なんでこの人と三十年もいっしょに飲んでいるんだろう? とか、なんでこの人と、数年に一度しか会わないのに、それでも会い続けているんだろう? とか、考えても、よくわからないのだが、でもその「不変の何か類似説」をここに持ってくると、私は納得できるようにも思う。類は友を呼ぶの「類」は、性質や環境ではなくて、もっともっと深い何かなのだ、きっと。

***
『わたしの容れもの』は、共感せずにはいられないカラダの変化にまつわる文章が詰まっています。ぜひ続きは、本でご覧ください。

関連書籍

角田光代『わたしの容れもの』

人間ドックの結果で話が弾むようになる、中年という年頃。ようやくわかった豆腐のおいしさ、しぶとく減らない二キロの体重、もはや耐えられない徹夜、まさかの乾燥肌……。悲しい老いの兆しをつい誰かに話したくなるのは、変化するカラダがちょっとおもしろいから。劣化する自分も新しい自分。好奇心たっぷりに加齢を綴る共感必至のエッセイ集。

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角田光代

1967年神奈川県生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。「対岸の彼女」で直木賞、「ロック母」で川端康成文学賞、「八日目の蝉」で中央公論文芸賞、12年「紙の月」で柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花賞を受賞。他に『空の拳』など多数。

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