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じっと手を見る

2020.04.08 更新 ツイート

『じっと手を見る』(窪美澄)を読んで

希望の光は眩しいとは限らない。(おぐらりゅうじ)【再掲】


介護の仕事と、富士山と、ショッピングモールしかない小さな町で恋をした――。
窪美澄さん『じっと手を見る』が4月8日文庫で発売となりました。解説は朝井リョウさんです。
単行本発売時にご寄稿いただいた書評をあらためてご紹介いたします。

*   *   *

多くの人生はありきたりな特別によって彩られる

窪美澄は欲望を隠さない。自ら欲望を制圧し、潔癖であることがもはや美徳とされるような昨今の風潮のなか、確固たる意思を持って欲望を目差している。性描写は常に緻密で、その気持ちにも、肉体にも、奥行きがある。言葉使い、視線、しぐさ、指先から結合部の中でどんな動きをしているかまで、あらゆるところに性衝動を宿らせる。欲望に向き合い、肯定することで、生の実感を表現する。

しかし、夢中の先には必ず冷静さが待っている。性的な行為よりもむしろ、その関係性にこそ快楽があることを私たちは知っているし、最中よりも終わった先に訪れる怠惰のほうがずっと長いことも知っている。

<深い、長い、くちづけだ。男がこういうくちづけをし始めたら、ちょっとまずい。私はどうやって、この人から、この町から、抜け出せるかを、その夜から割と本気で考え始めたのだと思う。>

地方に住む年下の女に清廉さを見出し、甘えた気持ちで肉体関係を持つ妻帯者の男。一方の女も、わざわざ東京から山道を通ってくる男に甘え、悦に入る。どちらもそれぞれが住む世界では普通であるのに、相手にとっては特別な存在として受け入れられる。お互いが「こんなことしてる自分」に酔っているようにも思える。しかし、その安易かもしれない陶酔感が明日を生きる糧になっているとしたら、そう簡単に他人が否定してよいのだろうか。普通や特別なんていう感覚は、自身の日常との距離によって作られる場合がほとんどで、多くの人生はありきたりな特別によって彩られている。

本作の舞台は、富士山が目の前にそびえる地方都市。登場する場所も非常に限られている。自宅、職場である介護施設や介護のために訪問する家、地元のショッピングモール、そして富士山下の湖。これらの行き来で生活のほとんどが完結している。そのことの閉塞感をじわじわと感じながらも、その先に広がる世界に飛び出すことを切に願ったり、実際に行動したりもしない。いつの間にか欲望は磨り減り、楽な方へ妥協している感覚もないまま、日々の生活を送ることで精一杯。全編を通じて、息苦しさを当たり前のこととして受け入れるような、そこはかとない虚無感をまとっている。

<誰とも深くかかわりたくない。それが私の本音だった。>

対比するように描かれる東京の街もまた、いざ近くまで来てみると灰色の雲に覆われていて、決して魅力的な街ではない。東京には二極化したステレオタイプがある。夢を叶える可能性に満ち溢れ、開放的で、楽しいことや人がたくさん待っているキラキラした街。でもその裏では、汚くて騒々しくて冷たくて、隣人の顔すら知らない希薄な街。

だがそんな二面性は、そのまま田舎にも言えることだ。豊かな自然、おいしい水と空気、温かくて密な人との繋がりは、不便と閉鎖性と表裏一体である。作中、遠くから眺めると美しく雄大な富士山も、近づいてみると麓には自殺の名所として知られる樹海が広がっていることの不穏さが繰り返し象徴的に描かれる。そのコントラストによって、そこに生きる人間を浮かび上がらせる。

登場人物たちが職業としている介護もまた、それぞれの家庭を遠くから見ているだけではわかりづらいが、確実に存在している問題である。私の家もかつて、祖父と祖母を介護していた。その当時の私は、30歳にもなろうかという年齢にもかかわらず、会社を辞めて定職にも就かず実家暮らしだった。ひたすら家にいたためトイレやオムツ替えを手伝うこともあった。小柄でしわくちゃな祖母なのに、ベッドのすぐ下にある簡易便器まで運ぶのも大変な労力だった。祖父にいたっては昔気質のプライドゆえにオムツを拒み続け、動かない体をおしてトイレまで這って自力でたどり着き、回復するのを待っていたのか2〜3時間は平気で出てこなかった。

ある日、いつも通り何時間もトイレに鍵がかかったままで、またかと思いつつもうひとつのトイレで用を足し、寝て、明け方に目が覚めてトイレに行くと電気は点いていて、まだいるのかよと思ってドアを開けようとしたら鍵はかかっていなくて、中で祖父は死んでいた。あまりのあっけなさに、正直拍子抜けしたような感覚だった。

祖母のほうは、次第に家族だけでの介護が困難になり、ヘルパーさんが通いで来てくれることになった。体を拭き、着替えをさせるヘルパーの人に対して「ものみたいに扱うなよ」という強い目線を向けていたことを今でも覚えている。しかし、当のヘルパーにしてみれば、平日の昼間でも必ず家にいて、常に上下スウェット姿で髪もボサボサの30歳になる孫が睨んでいるという、相当に不快どころか普通に恐怖を感じていたはずだ。今にして思えば「おばあちゃんの心配もいいけど、自分の心配しろよ」「というか無職ならおまえが介護しろよ」と冷静に判断できるのだが、その時は真剣に祖母を守らなければという気持ちだった。

本書にも、当時の私と似たような状況で、無職の実家暮らしでスウェット姿、ヘルパーと共同でおじいちゃんの介護をしている母親に平然と「めしは?」と言い放つ息子が出てくる。社会との接点を失うことで、常識が通用しない、というより常識を必要としない生活になってしまうのだ。もちろん、そんな彼にも、あの頃の私にも、そこに至るまでの経緯と理由がある。弱さといってしまえばそれまでだが、そうやって切り捨てられた人間があまり良くない末路をたどるのは、日々のニュースを見ても明らかだろう。

一見どこにでもいるカップルや家族のように見えていても、その内情はときに複雑で、深刻な事情を抱えていたりする。物語のために意図的に重さを演出するまでもなく、どんな人生にもそれなりの重さがある。

輝かしいはずの未来を目指すことだけが若者のあるべき姿ではないし、地方の閉ざされた社会の中でなんとなく生活することが不幸な生き方でもない。

人は誰しも環境によって生かされていて、その中で諦めることもひとつの立派な決断であり、後ろ向きだからこそ見える景色もある。そのことに窪美澄は自覚的で、内なる欲望を描き出すのと同じように、現実から目を背けず、丁寧に書く。希望の光は眩しいとは限らない。たとえ鈍くたって、弱くたって、屈折していたって、光であることに変わりはないのだ。

おぐらりゅうじ(編集者/構成作家)
@oguraryuji

窪美澄『じっと手を見る』

富士山を望む町で暮らす介護士の日奈と海斗はかつての恋人同士。ある時から、ショッピングモールだけが息抜きの日奈のもとに、東京の男性デザイナーが定期的に通い始める。 町の外へ思いが募る日奈。一方、海斗は職場の後輩と関係を深めながら、両親の生活を支えるため町に縛りつけられる。自分の弱さ、人生の苦さ、すべてが愛しくなる傑作小説。

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