野党代表までが「保守」を名乗る今だからこそ、「保守思想の古典」という原点に帰ろうではないか――戦後を代表する保守思想家・批評家たちの名論考を精選したアンソロジー『保守とはなにか――新たなる日本像のための保守思想入門』より、編者・小川栄太郎さんによる「はじめに」をお届けします。
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混迷きわまる日本の再生は、真の保守思想を知ることから始まる。
その為には何が必要か?
昭和から平成にかけて書かれた保守思想の古典的名作(クラシック)を、まずひもとくことである。
過去の重要な著者たちによる傑作評論、エッセイ、論文などにまず目を通すことである。
今、「保守」という言葉は世に溢れている、それも肯定的な意味を帯びて。そして、我こそ真の保守だ、そちらは偽(にせ)保守だというような、真正「保守」争いも多発しているようだ。
それぞれが信じる政策や保守の定義を掲げて本家争いをするのは、この概念が生きている証拠ではあるのだが、そのまま放置していては混乱と分断が進むのも間違いない。
何しろ、枝野幸男元立憲民主党代表が自らを「保守本流」と標榜し、日本共産党の志位和夫前委員長が、「自民党政治はまともな保守政治と言えない」と批判して、「野党共闘は広大な保守の人々と共産党を含む共闘に発展している」と述べるような時代である。
世間公認のラディカルな左派政治家が「保守」を前面に出してくるのまで認めてしまえば、「保守」は概念として成立しなくなってしまう。「保守」とは、何らかの日本固有の価値や形、その歴史を守り、日本の尊厳と国益を守る立場だという最低限の共通了解さえ危うくなってくる。
だからこそ、皆で一度原点に帰ろうではないか、保守思想の古典という原点に。そこには個々人が思い思いにするオリジナルな保守の定義や保守を巡る諍いに左右されない、歴史の中で蓄積されてきた保守思想の静かな佇まいと本質が、いぶし銀のように深い光沢を放ちながら眠っているからである。
そうしたクラシックに戻り直してから、保守を自称したり、論じ始めたりしても、決して遅いことはない。
では何が保守思想の古典なのか?
本書は、それに対する私の回答の試みとして編んでみた。
福田恆存、三島由紀夫、江藤淳、渡部昇一、西尾幹二、長谷川三千子ら、戦後を代表する保守思想家たちの名論考。
その一方で、川端康成、小林秀雄、保田與重郎、ドナルド・キーンを始めとする文藝批評で辿る日本の精神史。
歴史的な大物たちの渾身の作品ばかりを集めたものだから、歯ごたえはある。読み流して分かろうとしても通用する相手たちではない。
腰を据えてしっかり熟読してほしい。
今の時代の早わかり志向、「○分で分かる○○」式の理解を拒んだところに、保守思想の真髄はあるからである。
……と、これだけ言っておいて、早速本文を読んでいただいてもよいのだが、その前に、保守思想の歴史についてまるで触れないわけにもゆくまい。
皆さんの中には、愛国心に駆られ、またマスコミの反日的な誘導に怒りを覚えて、保守の側に身を置いたが、その歴史や内実を知るのはこれからという人もおられるのではないか。いや、寧ろそれが今の保守派の圧倒的多数なのだろうと思う。
そこで、本文に入って頂く前に、簡単に保守思想の歴史を振り返り、最低限の共通了解の土俵を作っておくことにしよう。
明治二十二年、日本で最初に出版された近代辞書『言海』(大槻文彦著)では、「保守」を「習慣(ならはし)を保ち行く事」と定義している。生活実感に寄り添った理解であり、今の皆さんが「保守」という言葉に込めているニュアンスとは若干異なるのではなかろうか。
『言海』による「保守」の定義は、この語の根幹にある方向性や気分を表している。保守とはその本質において先祖伝来の生き方や暮らし方を保ち行く事に他ならない。
だが、人類はある段階から、突如急激な変化の波に襲われることになる。よほど意識し、問題を正確にとらえ、時に変化の波と激しく戦わない限り、正しく「習慣(ならはし)を保ち行く事」ができない時代が到来する。
それが近代であり、厳密に言えば一七八九年に勃発したフランス革命から後がそれにあたる。
思想としての「保守」、主義としての「保守」は、王政を倒したフランス革命への批判として生じた。保守思想の最も重要な古典はイギリスの思想家エドマンド・バークが革命翌年に著した『フランス革命についての省察』であり、これは今も動かない。その後も、保守思想は、過激な急進主義、社会主義、共産主義などを批判してきた。
とりわけ一九一七年、ロシアにおいて共産党政権が成立すると、彼らは世界各国で革命を誘発する工作を展開し始め、ついに第二次世界大戦後、東欧やアジア諸国における数多の共産党政権の誕生へと帰結する事になる。この地球を覆う共産化の波に抵抗して発生したのが、欧米と日本における保守主義である。
こうして、「習慣(ならはし)を保ち行く事」としての「保守」は、明確な反共産主義としての「保守主義」となったのだ。
だが、戦後日本の場合、事情は一層複雑である。保守主義は二正面戦を強いられた。ソ連の思想工作との戦いのみならず、GHQの占領政策とも、我々は戦わねばならなかったからである。
GHQは日本国憲法の強制と軍隊放棄、皇室弱体化、戦争犯罪史観の洗脳、政財界の対米従属などを推進し、日本は軍事・政治・経済における真の独立と国民的な気概とを、根こそぎ奪われた。
他方、ソ連の思想工作は、主として東京大学、朝日新聞、岩波書店という日本の最高頭脳部への浸透に成功した。これはGHQの占領政策よりも致命的だったと、私は思う。東大-朝日-岩波は、当時、知のヒエラルキーの頂点だった。そこが共産化すれば、赤化の波は卒業生を通じて、知識人共同体のネットワークに広く浸透し、アカデミズム、教育、出版、マスコミ、霞が関、司法など各界に影響し、それは人事利権として半永久的な影響力を持つことになるからである。
こうした左翼による知的洗脳の巨大な潮流は、昭和戦後を通じて、GHQが植え付けた自虐史観と、ソ連による共産主義礼賛とを結びつけ、日本の再軍備=自立を恐れる米ソ共通の思惑がそれに加わって九条平和主義となり、戦後日本の思想空間を歪め続けたのだった。
これを一言で反日左翼と呼ぼう。
政財官界や出版、教育界のみならず、文学、芸能、映画、芸術各界に、この反日左翼の波は浸透し続けた。
学生は軒並み洗脳され、革命を狙った暴動やデモに多くの人間が動員された。保守派は保守反動と呼ばれ、蔑(さげす)まれた。少数派であり、侮蔑の対象であり、それどころか革命が勃発すれば処刑の対象となるだろう──それほどの緊迫感が昭和四十年代半ばまで続いていたのだ。
例えば、本書に登場する小林秀雄の妻は、「こんなに毎日、全国で学生たちが荒れてくると、本当に革命がもうすぐ来るのじゃないかしら。そうなったら小林なんかは一番先に処刑されてしまうんじゃないでしょうか」と真剣に案じていたと伝えられる。福田恆存にも自身の暗殺を覚悟していたとの逸話がある。そうした革命熱の中で三島由紀夫は自決したのだった。
思想は生々しく、血なまぐさかった。
本書は、その時代に危険と孤立とを恐れず、発言を続けた人達の言論から始まり、平成時代を通じて成熟してきた保守思想の系譜をたどっている。
このように、保守思想はそれ自体重層的な歴史を担っているのである。
それはフランス革命以後の近代革命や、進歩・人権の妄信への批判としての歴史を持ち、二十世紀後半には共産主義の浸透を阻止する政治闘争でもあった。
日本ではそれに加えて、自虐史観やGHQの遺制との戦いが加わる。一方保守とは、文化概念でもある。「習慣(ならはし)を守る」という本質的な志向から考えて当然であろう。
左派は、フランス革命やマルクス主義革命の教義を人々に強制し、歴史的に培われた宗教、文学、思想、生活習慣、社会関係を、全面的に否定しようとする。底なしの世俗化と価値観の相対化が生じる。
その意味で、保守主義が守ろうとしてきたものは、歴史であり、文化の中核としての文学──国語──でもあった。
本書第四部で文藝批評に紙幅を割いたのはその為である。
配列の方針は次の通りだ。
第一部「「戦後」との闘いから日本の「保守」は始まった」では、まずGHQの占領政策と、それに対する日本側の抵抗についての文献を紹介する。占領政策の遂行の中、昭和天皇が昭和二十一年元旦に発出された詔書は、日本の最後の叫びだった。巻頭にはあえてそれを掲げた。江藤淳「忘れたことと忘れさせられたこと」では、昭和二十年八月十五日から十月までの占領軍と、日本政府、ジャーナリズムとの力較べと、全面的な屈服の様が描かれている。しかし政治的屈服の中で、日本人であることを守ろうとする抵抗の痕跡も残された。次の桶谷秀昭の一文はそれを辛うじて、今に救出する試みである。
第二部「昭和時代のイデオロギー戦──「人間性」を守るために」では、昭和三十四年に書かれた福田恆存の「私の保守主義観」から、昭和五十九年に書かれた長谷川三千子の「フェミニズムといふ病理」までの、戦後保守思想を辿った。戦いの相手は、進歩主義であり、日教組教育であり、自虐史観であり、文化破壊的な共産主義イデオロギーであった。その諸相を熟読いただきたい。
第三部「平成の保守思想──新たなる「日本」像を求めて」では、昭和天皇の崩御を感慨深く自らの父の死と重ね合わせた徳岡孝夫の美しいエッセイをまず読んでいただきたい。戦争に敗け、左翼イデオロギーが浸透する中で、日本が失ったのは「父」だった。しかし昭和天皇という父を喪った中で、新たな自画像を求める戦いも始まる。この第三部では自己喪失から「日本」を取り戻そうとした一群の保守思想家の文章のうち、啓蒙的な分かり易いものを中心に集めている。本書の中では一番読み易いのではないかと思う。
だが、私は敢えてこの第三部を、私たちは国柄における本質的な問い──象徴天皇制とは何かという主題から、結局逃げ続けてきたのではないかという富岡幸一郎の深刻な問いで閉じている。天皇の地位を歴史的な継続と敬意抜きに、人気稼業か何かのように気安く語る言説が溢れ返る現状を見れば、富岡の問いはまさに今の我々の危機をそのまま射当てていると言ってよい。
第四部は「歴史と文学──保守の精髄」と題した。戦後史を辿ってきた第三部までとは趣を変え、優れた文藝批評を精選している。冒頭には、川端康成によるノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本の私」を掲げた。日本の文藝を語った最も美しい文章の一つである。
以下、執筆の年代順ではなく、扱っている時代順に、保田與重郎の「萬葉集名歌選釈 概説」に始まり、小堀桂一郎による大東亜戦争の英霊とその妻たちの和歌を紹介する切ない一文までを網羅している。文藝の精華に一人静かに向き合っていただければと思う。
保守とはなにか──本書が表題として掲げたこの問いへの回答は、こうして歴史と文藝に読者諸氏が一人静かに向き合い、各人の心に映し出されてくる感動の中にこそ求められるべきなのだろうと、私は信じているのである。
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