いよいよ本日発売となった、カツセマサヒコさんの新刊『憂鬱な恋の忘れ方』。
約2年ぶりの長編小説となった今作は、原点回帰の”一生モノ”の失恋小説。事前にお読みいただいた書店員さんからも「切なすぎる」「とんでもなく引きずってしまう物語」「こんなにグサグサ刺さる恋愛小説は初めて」など熱のこもった感想をたくさんいただいています。
主人公のユウスケがした人生最大の片想いの様子を描いた1章を、まるごと試し読みとしてお届けします。クリスマスイブの夜から始まる物語、ぜひ今夜、お読みください。
* * *
1 夜道はぴかぴかの
いい感じにお酒は入った。エレベーターで二人きりになって二秒後、舌が絡みそうな長めのキスまでしたんだからもう大丈夫でしょって安心して、俺は「泊まりたいです」とユウさんに言った。
靖国通り沿いにあるドンキの周辺は花火大会の帰り道みたく混雑していて、細身のスーツを着たお兄さんの頭には、サンタの帽子が載っかっている。
カラ館です! カラ館! あっちの!
枯れた声で叫び続けるお兄さんのあとを、十人くらいのおじさんやお姉さんがついていく。俺はがんばれーって心で応援しながら、隣に立つユウさんを見た。ユウさんもまた、お兄さんたちのことを目で追っている。
「年末だねえ」
目を細めながら、ユウさんは言った。俺は泊まりたいって確かに伝えたのに、聞こえなかったふりをされて、ちょっと苛立って、寂しくなった。
「泊まろう?」
こういうの、二回も誘うの恥ずかしいんだけど。ユウさんのコートの袖を引っ張ると、ユウさんは「はいはい」ってあやすように何度か頷いて、
「イブだもんね」
って、俺のこと、全部わかっているような顔をした。
全部わかってくれているなら、それでよかった。俺のことは全部わかっていてほしいし、ユウさんのことも、全部わかっていたかった。
クリスマスイブの歌舞伎町は、夏みたいな格好をした女の人がたくさんいる。外国の人はそれ以上にいっぱいいて、みんな酔っ払っている。素面の人間を見つけるのが難しいくらい、この街はもう酒に呑まれた。クリスマスソングがあちらこちらから鳴り響き、喧騒が喧騒を連れてきて、キングスライムみたいに一つの大きな喧騒になっていくから、早く逃げ出して、ユウさんと二人きりになりたかった。
ホテル街まで、近いのに遠い。
「ユウコとユウスケで二人ともユウだから、きみのこと、ユウくんって呼んでいい?」
それがユウさんから俺に届けられた、初めての言葉だった。
インターンの初出勤から二週間が経った、秋の初めの静かな夜。四ツ谷駅近くにある小さな制作会社で領収書やレシートを仕分け続けた帰り道に、俺はユウさんと二人きりになった。
ユウさんは社歴十年目とかで、俺から見ればすっかり大人で、何事にもあまり動じない人だった。いつもパーカーやスウェットで出勤するし、化粧すらしてない日もあるけど、仕事上のミスはほとんどしなかった。出社時間は会社の誰よりも遅いし、休憩時間を過ぎても昼寝をしていることもある。でも、昼食も取らずにずっと仕事に没頭している日もあって、そのギャップも魅力的で、どこか色っぽくて、格好良かった。
ユウさんは俺の教育担当でもなんでもないから、勤務中は会話を交わすこともほとんどない。それなのに、たまに何かを思い出したように俺のことをじっと見るから、それだけで俺の心はくすぐられたように痒くなって、つまり、恋に近い何かに触れていた。彼女に心を蝕まれ始めていた。
そんなユウさんから「ユウくん」と呼ばれることは、なんだか照れくさくて、でも、流れ星を二人だけが目撃したくらい、特別で、嬉しいことだった。
「じゃあ俺も、ユウさんって呼んでいいですか?」
「だめ。会社で誰も呼んでないから」
「二人のときなら、いいってことすか?」
「まあ、それならいいかな」
いいんだ。そんなの、なんか秘密ができちゃったみたいじゃんって、俺の心はまた痒くなった。
その日から俺は、できればユウさんと仲良くなりたいというか、「仲良く」のその先に行きたいと願うようになった。
俺が給湯室に行ったり、倉庫に行ったりするたび、ユウさんは静かに席から抜け出して、俺の背中にくっついた。ぼこぼこしている俺の腹筋を数秒触ってから、何もなかったかのように自分の机に戻っていったりした。
そういうのが一番嬉しくて、好きになっちゃうからやめてほしいのに、そういうのが一番嬉しいこともユウさんはたぶん気付いていて、だからやめてくれなかった。
俺はかんたんに手玉に取られて、ユウさんの手の上で踊る人形になった。初めて二人で終電を逃すまで時間はかからず、さらにあっという間にクリスマスになった。働き始めてからまだ四ヶ月だけど、俺の脳みそが何より覚えてしまったのは、ユウさんの存在に違いなかった。
毎日、欲しくて、欲しくて、仕方がなかった。頭のネジはとっくに外れて、今も、手の届かない快楽の隙間に、転がったままでいる。
でも俺は、クリスマスイブの性事情ってやつをちょっと舐めていたのかもしれない。歌舞伎町の奥にはラブホテルなんて雑草みたいに無限に生えているのに、その中でもとびきり古くてボロそうな店まで含めて、どこも満室だった。
三軒連続で断られるまでは二人で笑い飛ばしていられたけれど、四軒、五軒と続くうち、だんだんエロい気持ちは萎え始めてしまっていて、ユウさんからも、そんな気配を感じ取ってしまっていた。
「なんか、ちゃんとホテルとか、予約しとけばよかったすね」
酔いは醒めていくばかりで、息もだいぶ白くて、ユウさんの肌も、いつもよりさらに青白くなっている気がした。
「でも、きちんとしたホテルに泊まろうってサプライズされるより、ずっといいよ」
「どうして?」
「きちんとしたホテルには、きちんとした格好で行きたいから。こんな会社帰りに突然向かうなんて、最悪」
「そういうもんですか」
ユウさんは頷く。
「ユウくんは、そういうダサいサプライズをやる大人にならないでね」
急に先輩面されたから、俺はちょっと笑った。
俺たちは次のラブホに入った。比較的新しそうなロビーにはソファ付きの待機スペースがあって、顔の見えない受付から「あと三十分ほどで空くと思いますので、よければお待ちください」と声が聞こえた。
みんな、セックス目的でここにいて、クリスマスなのに泊まらずに休憩だけで帰るカップルもいて、その人たちはきっと改札前でこの世の終わりみたいな顔をしながら抱き合ったりするんだろうね、なんて話をしながら、俺たちもまた自分たちのセックスの出番を待った。
「プレゼント、いる?」
やっと部屋に入って、しばらく抱き合ったあと、俺たちは順番に風呂に入った。
浴室から出ると、中途半端にバスローブを羽織ったユウさんがソファに座っていて、プレゼントを買ってきたのだと話した。まだ半分濡れている髪が妙にエロかったし、バスローブの下には真っ青のブラジャーとショーツが覗いていて、それが俺の一番好きな色だったからすでにプレゼントはもらった気でいたけれど、ユウさんは小さな紙袋を俺に渡した。
「……開けていい?」
「今開けないと、意味がないもの」
何かを試すような顔で、俺を見た。なんだろう。アクセサリーか、財布か、香水? 箱の中を想像しながら、プレゼントを取り出してみる。包装紙を剥がして、パッケージが見えて、その時点でもう、笑ってしまっていた。
「どういうこと?」
俗に言う、プレジャーグッズってやつだった。もっと俗に言う、大人のおもちゃってやつ。ネットで見たことがある、ヘ音記号みたいな形をしたバイブ。それが、紙袋から出てきた。まるでエッチなものではありませんと、それこそジョークみたいな顔をして。
「これ、今、使うってこと?」
「うん。クリスマスプレゼントだから」
「でもこれ、俺用ってより、ユウさん用じゃない?」
「でも、ユウくんが喜ぶと思ったんだけど」
「いや、いいとは思いますけど」
「ええ? 待って?」
ちょっと笑ってから、ユウさんが俺の鎖骨に頭をくっつけるように抱きついた。
「え、もう興奮してる?」
「違う、猛烈に恥ずかしがってる」
「自分から渡したのに?」
「だって、もっと大歓喜するかと思ってた。ごめん、さすがにこれは恥ずかしい」
「なんなんすか。じゃあなんで渡したんですか」
「いいじゃん、喜ぶと思ったんだもん」
ユウさんが俺の鎖骨に軽く頭突きしてくる。
「使い方、わかんないですよ、俺」
「いいよもう、使わなくて」
「あ、怒った。使います。使いますから」
ゆっくり二回、キスをした。それだけで、会話とか言葉とかはすっかり役目を終えた。俺はユウさんを抱えるようにして、プレゼントの箱と一緒にベッドまで運んだ。高校時代からずっと続けている筋トレが、こういうときにだけは確かに役立っている。
風呂上がりのユウさんの体は、ずっとあったかくて、やわらかかった。俺たちはあんまり動かないで抱き合った。長い時間じっとしているだけで、どんどん溢れてきて、おかしくなるくらい気持ち良くなる。そうしてしばらくじっとして、お互いの体温が火傷しそうなほど発熱し、溶けていきそうな感覚がきたところで、ユウさんはベッドの端に置いていたプレゼントの箱を開けて、ヘ音記号みたいな偽物の性器の電源を入れた。
ぴかぴか光って、赤く点滅する。
暗い部屋で見るそれは、なんだか街のイルミネーションとか、渋滞している車のテールランプみたいだった。
震えているそれを、無言のままユウさんから受け取って、その形状から想像するかぎりもっともオーソドックスであろう使い方を考えて、ユウさんの股に、ゆっくり当てた。痛くならないように、と思うと、なんだか怖くて、豆腐にでも擦り付けるイメージで静かに触れる。しばらくそれを続けたあと、ヘ音記号を、ユウさんの体内に入れた。
ユウさんは、じっと我慢していたものを全部吐き出すように短く鋭い声を発して、その後、三分と経たずにのけぞった。初めて見る動きだった。痙攣して、俺を置いてけぼりにするように、たった一人で真っ白な世界に行った。赤いライトはずっと点滅していて、ユウさんの体は何度も跳ねて、俺を俺と認識しないまま、俺にひたすらキスを求めた。
俺はもう、ユウさんのおもちゃになったんだと自覚した。何も考える必要がなくなって、赤い点滅を引き抜くと、代わりに自分をユウさんに押し入れた。それから、何度も導かれるようにして、二人で果てまくった。おそらく俺は、一晩あたりの射精回数の人生最高記録を叩き出したと思う。全部がどうでもよくなって、全部がユウさんになっていった。幸せを噛みしめながら、ずっとこの夜が繰り返されることを願った。
それでも、やっぱり五時になった。
いつ寝たのかもわからないくらい一瞬で入眠していたみたいで、気が付けばベッドの脇に、すっかり身なりを整えたユウさんが座っていた。リップまで塗り終えたみたいで、ほんのりと唇が赤かった。
夢みたいだ。でも、どっちが夢なのか。さっきまでセックスしまくっていた時間のほうが、今よりよっぽど夢みたいだった。
「帰るね」
今夜この街でいちばん小さな声だった。ユウさんはまだ全裸でいる俺の頭を撫でた。
「いやです」
寝起きで絞り出した声は、もうすぐ死ぬんじゃないかと不安になるほど掠れた。
「いやだよね」
「今日こそは、いやです」
ユウさんの手首を掴む。こんなところまでやわらかくて、やっぱり気持ち良くて、悲しくなる。
「俺って、ユウさんの、なんなんですか」
その質問に、ユウさんは答えてくれなかった。だから、また俺は余計なことを口にする。
「俺の、サンタでいてください」
ユウさんはふふと笑って、俺の頬に手で触れた。
「プレゼントはもうあげたよ?」
「今日は、ユウさんが欲しいんです」
世界に聴力が存在しないみたいに、ユウさんは聞こえなかったふりをして、立ち上がった。
またね、と告げて、勝手に頬にキスだけして、甘い匂いだけ残して、出ていった。
部屋は真っ暗で、もう赤いぴかぴかした光も、どこにも見えなかった。
孤独が一秒ごとに強まるホテルの一室で、またユウさんは、俺をひとりぼっちにした。
朝陽が昇る前に、急いで部屋を出た。
今日で、何回目だろうか。ユウさんと一緒にホテルに行った回数。そして、一人でホテルを出る回数。
ユウさんは、一度も俺を家に招いてくれないし、俺は実家に住んでいるから、そもそも招きようもなかった。だから、俺たちはいつもラブホテルに行って、必ずユウさんは陽が昇る前に部屋を出る。
理由なんて、怖くて聞けない。
でもきっと、理由がなきゃ、そんなに早くに出ていかない。
わかっているけど、わかっていても、俺は理由とか事情を、これっぽっちも知りたくなかった。
ユウさんのことを全部知りたい、全部わかっていたいって思う。
でも本当は、全部を知るのも、全部をわかるのも、ものすごく怖かった。全部を知ったら、この恋は、坂を下るように終わりに向かって走り出す。第六感がそう告げていた。
俺にとってはユウさんが全てなのに、ユウさんにとっては俺なんて何かの一部でしかない。
そんな予感が、いつもしていた。ユウさんから感じられる余裕は、俺を失っても大丈夫という安心感からきているようにしか思えなかった。
新宿駅に向かう途中、肩から下げていたトートバッグの中で、何かが震えた。
スマートフォンはすでに右手で握っていて、じゃあなんだろうと考える間もなく、スマホ以外に震えるものなんて、今の俺は一つしか持っていなかった。
バッグを覗き込む。
つい数時間前までユウさんの中で震えていた、あのヘ音記号がぴかぴかと点滅している。まだ陽が昇る前の十二月の薄暗い夜道に、下品な光だけが陽気に輝いている。
俺は、ユウさんに会いたくて、たまらなくなった。
ついさっきまで抱きしめていた温もりが、確かな意思を持って離れていくことが、今は全く耐えられそうになかった。
新宿駅に向かう人影が増えていく。手を繋いで歩くカップルが、不意に立ち止まってキスをした。俺と同い年くらいに見えた。どうして俺には、あんなかんたんそうな光景が手に入らないのだろう。どうしてあれを、ユウさんは叶えてくれないのだろう。
ユウさんを、嫌いになりたいと思う。
自分のことはかんたんに嫌いになれるのに、ユウさんに対しては全然うまくいかない。
今もずっと、一緒にいたいと願ってしまう。チェックアウトの時間まで過ごしてみたい。昼まで一緒にいたい。次の夜も、その次もずっと。
俺はぴかぴかしている赤い点滅を震わせたまま、右手のスマートフォンを握りしめた。
ずっと一緒にいたい。
全身でそう思いながら、指先は、〈もう会いたくないです〉と、送っていた。
意味がわからなくて、送信を取り消そうとして、でも、普段は全然反応されないはずのLINEに、こんなときだけすぐに既読がついた。
聞こえないふりばかりされていた俺からのメッセージは、今しっかりと、ユウさんに伝わった。唸るような声が漏れた。意思なんか持たなくても、声は勝手に漏れ出るのだと知った。しゃがみ込むと、バイブレーションの音が近くなる。赤い点滅は光り続けていて、クリスマスソングみたいに、無邪気に俺を嘲笑っていた。
(続きは書籍でお楽しみください)












