長瀬ほのかさんによる、これまでの人生における思い出深いエピソードを綴っていく本連載。3回目の今回は、「子供の頃の習い事」について。編集担当は、陸上のスポーツは得意でしたが、水泳などの水中で行うスポーツは苦手だったため、スイミングスクールを数か月で辞めた——そんな過去を思い出しました……。それでは、長瀬さんとスポーツのつながりについて、今回もクスッと笑えて心がアツくなるエッセイをお楽しみください!
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子供の頃に習っていたのは、ピアノ、書道、公文、英語。スポーツには縁がなかった。背の順ではトップ争い、徒競走では最下位争い、跳び箱も飛べなければ逆上がりもできない、鈍を極めたお子様の習い事がこのような文化系ラインナップに偏るのは然もありなんである。
運動音痴の側に属している自覚はあったが、一方で、当時の私にはまだ自分の運動神経を諦め切れていないところがあった。圧倒的な身体能力を持つ武闘派のセーラージュピターこと木野まことちゃんに憧れていた影響も大きい。自分の中にもそういう素質が眠っているのではないかと夢想する日々だった。
身の丈に合わない憧れは、時に私を珍妙な行動に走らせた。
幼稚園児の頃、広場に落ちている木の枝を片っ端から折りまくっていた時期があった。最初、何の気なしに一本折り、それを見た先生から「おっ、意外と力あるねぇ!」とおだてられたのを真に受け、自分はこれから怪力キャラでいくのだと見定めたのである。
「ふんぬっ」と力を込めて、枝を一本、また一本と折って鍛錬を積むたび、こんなことができてしまう自分はとんでもない怪力に違いないと自信を深めていたが、そんなことに励む馬鹿が他にいないというだけのことであった。
ビンタによる制裁に憧れたこともあった。無礼な振る舞いを受けた者が相手にビンタを喰らわす場面をアニメなどでよく見かけたからである。現実でそのような暴力沙汰を目撃したことなどなかったが、強烈な一発をバチーンと決める自分の姿を想像すると、なんだかめちゃくちゃ格好いいような気がした。
長らく機会を伺っていたある日、下校中にしつこくちょっかいをかけてくる男子がいたので、今こそビンタチャンスかもしれないと思った。意を決して一歩踏み出し、相手の頬に向けて平手を振り抜く。しかし、初めてのことなので距離感を誤り、指先が顎のあたりを掠っただけになった。ほぼノーダメージだったはずだが、私の思わぬ反撃に驚いたのか、その男子はウエーンと泣き出してしまい、張り倒してやったという爽快感を得られるでもなく、普通に反省して終わった。
小学生のころ近所に住んでいた同い年のいくちゃんは、女子の中では体格が良く、男子とも互角に渡り合うような子だったので、私は彼女に羨望の眼差しを向けていた。いくちゃんは弟と一緒に柔道を習っていたのだが、ある時、私の双子の弟たちも同じ道場に通うことになった。手に負えないほど騒々しい双子のありあまるパワーを発散させ、ついでに礼儀作法を叩き込んでもらおうという、両親にとって窮余の一策であった。
それを聞いた私は、自分も習いたいと懇願した。武闘派になるまたとないチャンスだと思ったからだ。しかし、チビひょろ運動音痴の私には無謀という判断で、あえなく却下された。しばらくゴネてみたが、仕舞いにはいくちゃんママにまで「ほーちゃんにはちょっと合わないかも……」とやんわり諭され、自分の属性を客観的に突きつけられる結果となった。
とはいえ最終的に押し負けたのは、やはり自分でも不安があったからに他ならない。「投げられたり抑え込まれたり、痛い思いするんだよ」と言われたら腰が引けてしまうような、その程度の願望だった。
体育の授業中にドッジボールで人の後ろに隠れて逃げ回っていたら、いつのまにか自陣の最後の1人になっていたことがあった。いつもならスポーツ万能な子にしか回ってこない場面である。皆の視線が集まり、緊張が走る。と同時に、私はその状況に燃えたぎっていた。目に物見せてやる。とはいえできることといえば、飛んでくるボールを必死でかわすのみである。奇跡的に2、3回凌ぐと周囲から歓声が上がり、恥ずかしいのと誇らしいのとでどうにかなりそうだった。足にボールを当てられるまで1分もかからなかったが、教室に戻っても、家に帰っても、その高揚がずっとおさまらなかったのを覚えている。私が求めていたのは、そういう一瞬の輝きだった。
中学では卓球部に入った。小さい学校だったので部活の種類が少なく、運動部の中で唯一自分にもできそうだと希望を持てたのが卓球だった。最初は先輩たちが練習している周りで球拾いに勤しみ、素振りや壁打ちを経て、台で打たせてもらえるようになった。少しラリーが続くだけで楽しくて、私はあっという間に卓球にのめり込んでいった。
こんなことを言ったら全国の卓球経験者に怒られるかもしれないが、卓球はある程度のレベルまでであれば、身体能力を小手先の技術でカバーできるところがある。ボールの回転が重要な要素を担う競技であり、練習を重ねて技術を身につければ、多少鈍臭くても勝つ術がある。
相変わらず身体能力は人並み以下の私だったが、異常な負けん気だけはあって、とにかく練習に打ち込んだ。人生サボりまくりの今の自分からは俄かに信じがたいことだが、1日練習をサボったら、その分、試合であと1点が取れないかもしれないという勝利への執念があった。
部活を休むのが嫌で、ピアノ教室は1年生のうちに辞めた。2年生で塾に通い始めたが、それも週に何度か部活を早退することになるので結局数ヶ月で辞めた。家に帰ってからも、自室で夜な夜なダンベルを使って素振りをしていた。あの頃の自分を思い返すと『巨人の星』の作画で再生される。
卓球の大会が行われる体育館には、甲高いピンポン玉の音と多種多様な雄叫びが飛び交う。「サー!」や「チョレイ!」などが有名だが、あのような掛け声を各々が持っているのだ。卓球は球技の中でも対戦相手との距離がことさら近いスポーツで、萎縮するとそれが相手に伝わってしまうから、とにかく声を出して自分を鼓舞するように、と教えられる。かくいう私も、得点したあとガッツポーズを相手に見せつけながら「ヨォー!」とか「ショー!」とか叫びまくっていた。ちょっと前までピアノの発表会のために髪を結い上げ、ひらひらのワンピースを着せていた娘が、短髪・短パン姿でラケットを振り回し、雄叫びを上げて対戦相手を威嚇するようになるとは、両親も夢にも思わなかったであろう。
2年生になると、市内の大会で上位に食い込めるようになった。朝は何十台も置かれていた卓球台が、トーナメントが進むうちに少しずつ片付けられていく。数台になった卓球台を2階席から皆が見ている。そこに立てることが誇らしかった。普段は騒々しい体育館が、サーブの前、しんと静まり返るのがたまらなかった。頬が熱くなり、自分の心臓の音が聞こえる。勝ちたいと思えば思うほど、刹那にすべてが凝縮される。その感覚に、私は陶酔していた。ドッジボールで最後のひとりになった時の、あの高揚を何度も味わうことができた。
中学から卓球を始めた人が大半だったが、他校には小学生の頃から少年団に所属して経験を積んできた猛者もいた。私の1つ下の学年にも少年団上がりの強い選手が2人いて、私は結局、最後までその2人に勝てなかった。だから、うちには卓球のメダルがたくさんあるが、そのほとんどが銅メダルである。
小さい頃から卓球少女として有名だった福原愛と奇しくも同い年であったことから、「私も3歳から卓球やらせてくれたらよかったのに!」と、よく親に難癖をつけていた。無茶にも程がある話だが、半分冗談、半分本気だった。私も小さい頃から卓球を始めていれば、もっと強くなれたのではないか。何度もそう思った。でも実際は、どうしても勝てなかった2人と比べて身体能力も技術もセンスも明らかに劣っていたから、そういうことでもなかったと思う。最後の大会では全道大会に出場したが、一回戦で敗退した。
高校生になると全道から特待生を集めている学校もあって、さらに太刀打ちできない状況になった。そんな中で、私の卓球人生最大の実績は、全国大会で福原愛とフルセットの末に敗れたことのある選手とフルセットの末に敗れたことである。2セット先取したのに、追いつかれて一気に逆転負けした。格上の選手というのは必ず後半で挽回してくるものなのである。
大学に卓球部はなかったが、卓球同好会があったので見学に行ってみた。男子が女子に教えてあげる構図が目についたのと、誘われて参加した新歓が大して面白くなかった挙句、普通に金を取られたので入会しなかった。こうして私の卓球歴はあっけなく途切れた。
もうラケットを握る機会は滅多にない。たまに温泉などで本気のスマッシュを披露しては、「こんなに素早く動いてるとこ初めて見た」などと周囲からぎょっとされてほくそ笑む程度である。あんなにも勝負にこだわり、ひたむきに努力した日々は後にも先にもない。私は闘魂を地元の体育館に置いてきた。
はずなのだが、たまにテレビで卓球の試合を見ると猛烈に血が騒いでしまう。選手に成り代わったかのように叫びまくって、夫に酷くビビられている。
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\今がいちばんだけど、読み返さずにはいられない! ユーモアあふれる思い出たち/
note主催の創作大賞2024で双葉社賞エッセイ部門を受賞した、人気エッセイストの長瀬ほのかさんによる新連載。北国(北海道)に生を受けた彼女は、学生時代、独身時代をどう過ごして今にいたるのか? 今の長瀬さんを形作った思い出の日々をたどる連載エッセイです。
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