昭和100年目の2026年、二人の時代の目撃者が〈激動の昭和〉と〈混沌する今〉を射抜いた新書『一寸先は闇』を緊急出版。これまで以上に、予測不能かつ瞬時に変貌する世界情勢の中で、変わらぬもの、変わるべきものとは何か。混沌を生き抜く勇気が灯る本書から、一部をご紹介します。
強制ではないボランティアとしての「翼賛」
佐藤 五木さんのお話をうかがっていると、やはり戦中のリアルな世情は当時のことを知る人から聞く必要があると痛感します。いまの映画やテレビドラマなどでは、庶民はみんな戦争を嫌がっていたかのように描かれますが、決してそんなことはなかった。
五木 そうです。僕たち子どもだけではなく、自分の父親を含めて周囲の大人たちもそうでした。もちろん反戦運動などをやって獄舎につながれた人たちもいたでしょうが、それはごく一部の存在だったでしょうし、そんな話は僕らの目に届くところには出てきません。ですから、子どものころは反戦的な考え方が世の中にあることも、意識しませんでした。
なにしろ、高村光太郎(1883年~1956年)のような詩人さえ翼賛的な歌をつくった時代でしたからね。当時の高村光太郎は、戦後でいうなら谷川俊太郎(1931年~2024年)みたいな存在です。誰もが愛し尊敬する国民詩人ですから、みんな感動しますよ。
とくに忘れられないのは、高村光太郎が作詞した『歩くうた』(1941年)という歌です。「歩け歩け南へ北へ、歩け歩け東へ西へ」とくり返すだけなんだけど、僕らはそれを口ずさみながら戦意を高揚させていたわけです。
佐藤 戦中の空気を理解する上で、その「翼賛」という言葉は重要です。これはもともと「天子(皇帝)を補佐する」という意味で、権力者から強制されてやることではありません。人々が自発的にサポートすることなんです。ですから「大政翼賛会」も、いわば巨大なボランティア団体でした。

五木 本当にそうでした。上からいわれて仕方なくやっていたかのような語られ方をする組織が多いけれど、決してそうではありませんでした。
佐藤 その中でも、いちばんうまくいったボランティア組織は「国防婦人会(大阪の婦人らによって発足した女性団体。陸軍の支援で戦争協力機関として活動)」だと思います。
五木 当時は町内会の下に「隣組」という組織がありましたが、国防婦人会はそれとは別のものでした。みんなで連れだって街頭に出て、道行く人たちに千人針(千人の女性が布に赤糸で一針ずつ縫い、千個の縫い玉をつくり出征将兵の武運や安泰を祈願して贈るもの)をやらせたりするんです。ほかにも派手な振袖とか、ちょっと洒落た服装をしている人を見つけると「非国民!」と詰って説教をしたりね。極端なケースでは、その服をハサミでチョキチョキ切ったりもした。
佐藤 そんなことを、女性たちが自発的にやっていたわけです。
五木「国防婦人会」と書かれたタスキと割烹着がユニフォームでしたね。
佐藤 あの割烹着が重要なんですよ。その下にどんな服を着ていても、割烹着を着ちゃえばみんな一緒でしょ? 高価な着物でも、穴のあいた絣でも、上から割烹着を着たら見えないわけだから。だから平等感を味わえるんです。
五木 そこにも国民と国家の一体感があったんですね。それが昭和の特徴のひとつだと思います。それは偽りの一体感だったわけですが、そういう感覚は間違いなくありました。仏教婦人会というのも大きな組織でした。
女子挺身隊(満12歳以上40歳未満の未婚女子による、戦時下の勤労動員組織)というのもあったでしょ。ハチマキ姿の女子学生たちが隊列を組んで皇居前を行進するニュース映像がいまでも記憶に残っています。彼女たちが勤労奉仕のために軍需工場へ出かけていくのを、みんなが二重橋の前で日の丸を振って見送っていた。そういう国民的一体感から生まれる「みんなで祖国を守るんだ」という高揚感は、麻薬みたいなものです。戦中の昭和には、それを随所に感じました。
「民草の平等」が実感できた戦中の社会
佐藤 そのころの日本人は、そんな高揚感の中でお互いに褒め合っていましたよね。出征する兵隊も女子挺身隊も、見送る人たちから「お国のために立派なことだ」「ありがとう」と褒められる。これは心地よい体験でしょう。
以前、精神科医で依存症の専門家でもある松本俊彦(1967年~)先生からうかがったことですが、人間の脳がいちばん刺激されるのは褒められること(報酬系)だそうです。自己承認欲求が満たされると、快楽物質のドーパミンが脳内にたくさん放出されるんですね。それこそ歌舞伎町のトー横に女の子たちが集まるのも、いままで誰にも褒められたことがないような子が「かわいいね」と褒められるからだというわけです。
戦中の日本も、「非国民」を除いて、みんながお互いに褒め合うことで気分が高揚し、一体感が強まっていったのかもしれません。しかも結果は問われませんからね。愛国的な努力さえしていれば、成績が悪くても褒めてもらえる。
五木 なるほど、そういう面もあったでしょうね。
佐藤 割烹着で貧富の差が見えなくなる国防婦人会と同じで、女子挺身隊として動員されれば、華族のお嬢様だろうと農村から上京してきた娘さんだろうと扱いは一緒ですから、身分や出自も関係ありません。お互いに平等な立場で褒め合う、麗わしい国だった。みんなが承認欲求を満たし合えた社会だったんです。
五木 明治維新で「四民平等」になったとはいえ、それ以降も日本社会には華族や士族といった身分があり、昭和に入っても差別構造が厳然と残っていました。ところがあの戦争に突入した時期から、国民はみんな「陛下の赤子」として完全な横並びになったんですね。「みんな家族なんだ」という偽りの意識を持つことで、差別を乗り越えるような感覚があった。
また、当時は戸籍の編成も進みました。昭和になっても、まだ放浪民の山窩(村里に定住せず野営しながら、山中や河原などで漂泊の生活を家族単位でしていた人々)のような無籍の人たちがいっぱいいたんです。ですが、納税と兵役という国民の義務を果たさせるために、そういう人たちの戸籍への編入が、かつてなかったほどの勢いでどんどん行われた。そういうことも含めて、戦中の日本では民草(人民、国家における被支配者)の形だけの平等性がありました。
暴力も食事も平等に与えられた軍隊
佐藤 陸軍にも、ある種の平等性があったと思います。元読売新聞 主筆 「ナベツネ」こと渡邉恒雄(1926年~2024年)さんの回想録を読むと、陸軍時代にぶん殴られて半殺しの目にあった体験が書かれています。
東京帝国大学出のエリートでも、特別扱いはされない。学歴も何も関係なく、みんな一緒に内務班(日本陸軍の兵営内で日常生活をする最小組織)に入れられて、訓練という名のリンチを3カ月ほど経験するんですね。だから、みんな平等に殴られる。東大出のエリートを「てめぇ、いうこと聞けねぇのかコラ!」とか怒鳴りつけながら容赦なくぶん殴る古年兵は、きっと気持ちよかったでしょう。
五木 殴られたほうからすると、ずいぶん気の毒な平等性でしょうが(笑)。沖縄に行ったときに、年配の人から「いやぁ、軍隊は良かった」と聞いたことがありますよ。白い飯が腹いっぱい食べられたし、階級はあるけど平等だったというんです。
佐藤 そうそう。東北のほうから来て、「初めて肉の入ったカレーを食べた」とかね。あるいは前線に行くと、牛肉の大和煮の缶詰が出るんですよ。それを白米と混ぜて食ベるのがうまかったらしいですね。「牛肉の缶詰なんか初めて食った。軍隊はいいな、腹いっぱい食えるから」という話はよく聞きます。殴られるのも平等だけど、食い物も平等に与えられた。貧しい生活しか知らない兵隊にとっては、ありがたい場所だったでしょう。
五木 そういう一面があったのは、たしかだと思います。イデオロギー的に軍国主義を押し付けて「お国のために戦え」というだけでは、うまくいかなかったでしょう。「平等性に基づく人間性の回復」という要素がそこに忍び込んでいたから、軍国主義はポジティブなムーブメントになった。
もちろん、軍隊には軍隊の階級に基づく差別があるんですよ。でも、その新しい差別構造の中で、出自と身分制に基づく差別構造が壊されていった。僕らが中学生のころに「軍隊に入りたい」と思ったのも、そういうところに新しさを感じていたからかもしれません。
ともかく、軍隊にしろ、国防婦人会にしろ、ある種の民草としての平等性が感じられたからこそ偽りの一体感も生まれたし、庶民は充実感を得られた。きっとナチス・ドイツもそうだったんでしょう。実際には思想の弾圧のようなことも行われていたわけですが、そういう情報のない市民は、張りのある日々を送っていたと思います。
佐藤 だからこそ、自発的に国家を支えたわけですね。
※次回は4月14日(火)公開予定です。
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一寸先は闇

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