1. Home
  2. 読書
  3. 春はまた来る
  4. #9『お願い、順子しか頼れる人がいないの...

春はまた来る

2026.03.28 公開 ポスト

#9『お願い、順子しか頼れる人がいないの』休日の夜、突然のSOS真下みこと

3月下旬、来月からの新生活に胸を躍らせる方も多い季節です。ふたりの女子大学生の連帯を描いた、真下みことさん『春はまた来る』は、ぜひこれから大学生になる方や、その親世代の方に読んでいただき、来る大学生活を健やかに過ごしていただきたいという願いも込められた一冊です。試し読みをお届けします。

*  *  *

第三章

ゴールデンウィークは、順子にとってはアルバイトウィークだった。朝起きて簡単な食事を取り、すぐに採点業務に取り掛かる。冷凍ご飯を解凍して昼ご飯を食べてまた、採点を再開する。採点用のソフトに表示された受験生の解答と模範解答を見比べながら、それぞれの解答に点数をつけていく作業は、目は疲れるが負担にならなかった。

大学の課題はゴールデンウィークに入る前にあらかた終わらせてあったので、順子は規則正しい生活を送りながら、一人アルバイトをする毎日だった。夜は二十四時に寝て朝は七時に起き、アルバイトをして一日を終える。勉強仲間と遊ぶような予定はなかったし、遊びに誘うような知り合いもいない。そして奨学金をもらう身なのだから、アルバイトに力を入れるのは当然だった。

 

今年のゴールデンウィークは五日あり、さらにゴールデンウィーク明けは木曜で、二日間大学に行くとまた土曜日だった。

醬油だけをかけた色気も何もないパスタを平らげ、お風呂に入ってジャージに着替え、気づけば二十一時だった。順子にはスマホを見て時間を潰すという習慣がないため、プログラミングの教科書を開いた。授業では先の範囲だが、テキストマイニングというインターネットの文字情報を自動で取り込める方法に興味があったのだ。

パソコンを開いてプログラム用のエディタを開き、教科書に載っているプログラムを打ち込む。こんなことをずっとできる仕事に就けたらいいなと、順子はぼんやりと思う。

それから時間が経ち、自力でテキストを取り込めるような環境が整った頃、順子のスマホが着信音を鳴らした。

「電話?」

電話なんてたまに親から来るくらいだったので、こんな夜遅くに誰かからかかってくるなんて珍しい。画面を見ると、二十三時半という時間と、倉持紗奈という名前が表示された。

「紗奈?」

順子は慌てて通話ボタンをタップした。

「もしもし?」

『もしもし順子、助けて』

「え?」

『今順子の家の最寄り駅のあたりにいて』

紗奈の声は、どこか声を抑えているような、低い声だった。

『匿って』

「え?」

『追いかけられてるの』

「追いかけ、え?」

事態が飲み込めず、順子は混乱していた。

「どういうこと?」

『靴がないの』

お互い混乱しているからか、話があまり成立しない。

『お願い、順子しか頼れる人がいないの』

そう言われて、順子はとにかく紗奈を助けることにした。

「靴がないの?」

『そう。履いてこれなくて』

ますます状況がわからなくなったが、順子は一旦電話を切った。すると紗奈からすぐに位置情報が送られてきて、それは確かに順子の家の近くだった。

「靴がないって言われても」

紗奈の靴のサイズなんて知らないし、知っていたとしても、順子と同じサイズでなければ貸すことはできない。コンビニで靴なんて売っていないし、町の靴店はもうとっくに閉まっている時間だった。とりあえずジャージのポケットに財布とスマホを入れて玄関に向かう。サイズが合わなくても履けそうな靴、と思いながら見ていると、玄関に置いてあるスリッパが目に入った。いつか友達を家に招くだろうと購入したが、一度も使われていない、ベージュのスリッパ。

順子はそれをひったくるようにして取り、鍵をかけて家を出た。

紗奈は近所の路地にいるらしく、順子は走ってそこまで向かった。角を曲がると、女の子がしゃがみ込んでいた。暗がりでよく見えなかったが、あれはきっと紗奈だろう。

「紗奈……?」

小さい声で呼びかけると、紗奈はこちらを向いた。そして今にも泣き出しそうな顔で立ち上がり、ゆっくりとこちらに近づいてきた。靴下はボロボロで、ワンピースは何かで濡れている。

「あの、これスリッパ」

順子がそう言ってしゃがんでスリッパを置くと、ありがとう、と頭上から涙声が降ってきた。

「サイズ、合うかな」

立ち上がってそう聞くと、紗奈は曖昧に笑って、ありがとう、ともう一度繰り返した。

「よかった」

返事らしき返事はもらっていないが、順子はとりあえずそう返した。紗奈がスリッパを履いたのを確認して順子が歩き出そうとすると、紗奈が手を繋いできた。

「え?」

「怖いの」

そう言われてしまうと断れず、順子は紗奈と手を繋いだまま、できるだけ足早に帰った。

歩いている間中、順子は気が気ではなかった。紗奈は追われている、と言っていた。誰に追われているのか、どうして追われているのか、なぜ靴がないのか、何が悲しくて泣いているのか、今のところ、順子には何もわからなかった。何もわからない中で確かだったのは、繋いだ紗奈の右手が、ずっと震えていたということだった。

「……大丈夫?」

そう聞くと、紗奈が履くスリッパのペタ、ペタ、という音だけが聞こえた。

「ごめん、大丈夫じゃないよね」

返事も待たずにそう付け加えて、順子は紗奈の手を引いて家に向かった。紗奈からは少しお酒の匂いがして、飲み会だったのだろうかとぼんやり思う。けれど家に着くまでは、何を聞いても答えてもらえないような、そんな気がした。

 

家に着いて、紗奈がうちに入ってくる。繋いでいた手を離し、紗奈はスリッパを脱いで玄関から上がってきた。

「このスリッパ……」

困ったように紗奈が言ったので、使わないやつだからそのままで大丈夫、と返した。

「ありがとう」

そう言って紗奈はふらつきながらワンルームの部屋に入り、所在なげにしている。

「手とか洗う?」

いつもの習慣なのでそう聞いただけだったが、紗奈はその言葉に涙を溜めて、

「洗う」

と決心したように言った。紗奈が手を洗ってタオルで拭き、その間に順子も手を洗った。部屋のどこに座ってもらおうかと順子は悩んだ。物置になっている椅子から物をどかすか、ベッドに座ってもらおうか。

部屋に移動して、順子は紗奈に言った。

「適当なところ、座っておいて」

紗奈が座りたいところに座ればいいと思った。泣いている紗奈にティッシュを箱ごと渡し、順子は冷蔵庫から麦茶を出した。誰も使ったことのない二つ目のコップに、麦茶を注いでいく。

二つ麦茶を持って食卓兼勉強机のデスクに置き、お茶はここにあるから、と声をかける。ベッドサイドのテーブルなんてお洒落なものはうちにはないため、仕方なかった。紗奈はベッドに座ってずっと泣いていて、正直どうしたらいいかわからなかった。酔った席で告白でもして振られたのだろうか。いや、それなら追いかけられるはずはないし、靴がない理由がわからない。

とにかく紗奈を落ち着けようと、順子は麦茶を一口飲んでベッドに向かった。座ろうとすると、紗奈が体をビクッと震わせたので、

「隣座ってもいい?」

と聞いた。紗奈が黙って頷くのを見て、順子はようやくベッドに腰掛けた。

今日の紗奈は様子がおかしい。それは最初に連絡が来た時から明らかなのだけど、その理由が全くわからない。順子はただ隣に座っているだけで、紗奈はずっと泣いている。ティッシュのゴミがだんだん溜まってきたのを見て、順子はゴミ箱を持ってきて紗奈の近くに置いた。壁にかけた時計を見ると、二十四時をとっくに過ぎていた。紗奈の終電は大丈夫なのだろうか。

「今日、帰れるの?」

聞くと、紗奈は俯いてごめんなさい、と言った。

「帰れないなら帰れないで、まあ、ほら、一緒に寝るとか? このベッドで人と寝たことないけど」

順子はそう言って、すると紗奈が少しだけ笑ったように見えた。けれどそれはほんの一瞬で、順子が泣いている紗奈を慰めようと背中に触れようとすると、やめて、と静かに言われた。

「私、どっか、洗面所とかにいた方がいい?」

順子がいると紗奈が辛いなら、それも仕方がないと思ったが、紗奈は、

「ここにいてほしい」

と涙ながらに答えた。順子は自分がやれることを探して、

「麦茶飲む?」

と聞いた。すると紗奈が「うん」と答えたので、やるべき仕事が見つかったとばかりにデスクから麦茶のコップを取ってきて紗奈に渡した。

「寒くない?」

紗奈の洋服が濡れていたのを思い出し、順子はそう声をかけた。

「ああ、寒い、かも」

「着替える? 私の部屋着とかでよければ」

順子の部屋着は紗奈の普段着ている洋服と比べたらかなりださいはずだが、紗奈はそうすると言って、順子が適当な部屋着を渡すとすぐに着替えに洗面所に行った。そして順子の上下グレーのスウェットに着替えると、ピンクのワンピースを手に、再び泣きそうな顔になった。とりあえずベッドに座らせて、お気に入りのワンピースが濡れてしまって悲しいのだろうと思い、順子は声をかけた。

「これ、洗う? 今洗えば朝までには……」

しかし順子が言い終わらないうちに、紗奈が言葉を遮った。

「捨てたい」

「え?」

「この服、捨てる」

「え、なんで?」

理解が追いつかず、順子は混乱した。そのワンピースは順子のTシャツやトレーナーとは違い、どう考えても高い素材でできていた。汚れてしまっても、クリーニングに出せばいいのだから、わざわざ捨てる必要はない。それもこれも、紗奈に今日何があったのかに関わることなのだろうか。

順子はこれまでずっと聞かなかったことを、口に出して聞いた。

「ねえ紗奈、何があったの」

紗奈は黙っている。

「言いたくないなら言わなくてもいいけど、私は心配しているよ。靴がなくて追いかけられて、洋服も捨てたいなんて、よっぽど辛いことがあったんでしょう」

紗奈は最初、黙っていた。順子も、紗奈が話し出すのを待っていた。

時計が一時を回った頃、紗奈は眠いと言った。順子は何があったのかを聞くべきだと思っていたが、順子自身も眠かった。結局、その日はお互いシャワーを浴びて同じベッドで眠った。

関連書籍

真下みこと『春はまた来る』

名門大の理工学部に通う順子は、大学二年の春、高校の同級生で女子大に通う紗奈と再会する。高校生の時は「上」の人間だった紗奈と、「下」の人間だった順子は話したこともなかったが、不思議と二人の間には友情が芽生える。インカレサークルで「高学歴」男子と交流する紗奈が、ある日性被害に遭い――。 注目の作家が描く、ボーダー超越系友情小説。

{ この記事をシェアする }

春はまた来る

2月19日発売の真下みことさん『春はまた来る』に関する記事を公開します。

バックナンバー

真下みこと

1997年生まれ。早稲田大学大学院修了。2019年『#柚莉愛とかくれんぼ』で第61回メフィスト賞を受賞し、2020年同作でデビュー。その他の著書に『あさひは失敗しない』『茜さす日に嘘を隠して』『舞璃花の鬼ごっこ』『わたしの結び目』『かごいっぱいに詰め込んで』がある。

幻冬舎plusでできること

  • 日々更新する多彩な連載が読める!

    日々更新する
    多彩な連載が読める!

  • 専用アプリなしで電子書籍が読める!

    専用アプリなしで
    電子書籍が読める!

  • おトクなポイントが貯まる・使える!

    おトクなポイントが
    貯まる・使える!

  • 会員限定イベントに参加できる!

    会員限定イベントに
    参加できる!

  • プレゼント抽選に応募できる!

    プレゼント抽選に
    応募できる!

無料!
会員登録はこちらから
無料会員特典について詳しくはこちら
PAGETOP