美しい男の過去#3
美しい青年は「君」に言われるがまま少量の荷物を小さな黒いスーツケースに乱雑に入れ始め、ダンナから逃げる準備を進める。あっという間に準備は終わり、胃液によってカピカピに固まった前髪を手でほぐす。不安定な心臓の鼓動と腹部の違和感を拭うように狭い部屋中を歩き回る。「君」が残していった煙草を吸ってみるが、すぐむせて、また胃液を溢した。
ガチャという扉が開く音がして、身がすくむ。「君」がなんてことない、むしろいつもより機嫌が良さそうな顔でやってくる。
「大丈夫?」
そう言った「君」に怒りと安堵が混じり合った声で美しい青年は答えた。
「うん、そっちこそ大丈夫なの?」
かなりの間を置いて、「君」は窓を全開にあける。
「へーきよ。よくあるからね。顔はやられてないのね。」
「蹴られたよ。」
「どこを?」
「主に腹。」
「そっか。ちなみに革靴のまま?」
「そーだよ」
「そりゃ痛いね。ごめんごめん。」
美しい青年はなんとも言えぬチクリとした違和感を覚えた表情を見せる。それを見た「君」は窓をゆっくり閉めてから美しい青年の胃液まみれの前髪と顔をゆっくりと撫でる。そのまま生ぬるい舌を突っ込んで、優しく押し倒した。「君」の舌は乾燥している口内を一周したあと、細い糸を引きながら静かに離れた。
「めっちゃ吐いたんだね。そう、これ渡すから暫くどっか泊まっててくれる? あと携帯電話解約しといてね。新しい携帯買ったらまた教えて。」
やや分厚めの白い封筒を手渡され、「君」は足早にマンションを後にした。
美しい青年は、罪悪感と敗北感が混ざりあうなか、言われた通りに携帯電話を買い替えて、池袋にある漫画喫茶に身を潜めた。「君」に新しく作ったメールアドレスで、適当な文章を作って送ったがすぐに返信はなかった。数日が過ぎて、大抵の漫画を読み尽くした頃に、知らない番号から電話がかかってくる。また胃液の香りが記憶を鼻奥でつつく。乾き切った勇気をさらに絞って通話のボタンを押す。
「あ、出た。私の地元に部屋借りたから、そこ住んでいいよ。ってか私、子供いるんだよね。まだ小さいんだけどさ。たまに面倒見てくれる?」
「え?あのダンナは大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。気にしないで。ごめんね。」
「今の店、無欠状態なんだけど、どうしたらいいい?」
「飛んじゃえ飛んじゃえ、だって君じゃNo.1にはなれないよ。」
「なんで?」
「だって弱いじゃない。意志なさそうだし。まあ、今回は私が悪いからさ。でもまあ飛んでくれる?」
「、、、」
こうして美しい青年は小さな違和感を抱えたまま下町へ向かう電車に揺られた。
そして「君」が用意した、古いアパートの一室で新しい生活がはじまる。働かず、日々適当に時間を潰す。時折、「君」のまだ小さい息子の面倒を見て、生活費をもらった。美しい青年の髪は少しずつ伸びて、汚い冷蔵庫の食料はやがて腐ってゆく。そして、数ヶ月が経ち、美しい青年の小さな違和感は、「君」と己への憎しみに変わってゆく。
ある晴れた昼間にいつものように子供の面倒を見たあとに、「君」が迎えにくる。美しい青年はひとつトーンが落ちた美しい瞳を見開きながら口をひらく。
「もうこの生活を終わらせたい。」
少し震えた唇を見て、「君」の赤い口紅で彩られた口がひらく。
「なにそれ?逃げんの?」
珍しく声を荒げてから、子供の顔を見る。
「うん。どう思われてもいいよ。もう吹っ切れた。」
「酷いね。あなた。」
「いや、どっちがだよ。」
「お金返してくれる?」
「返さねーよ。充分働いたよ。あんたに。」
「どうするの?これから。」
「あんたにだけは言わねーよ。」
そう言って美しい青年は古いアパートを出た。子供の泣く声が微かに聞こえたが、振り返らず前に進んだ。行く場所もあてもなく、数駅ほど適当に歩くと小さな繁華街が目に止まり、なんとなくそちらへ歩いてゆく。ホストらしき人間が数人キャッチをしている。美しい青年はそのキャッチに思わず声をかける。
「すみません、ホストクラブあるんすか?」
金髪のリーゼント頭が答える。
「ここ、うちの店。なに?ホストやりたいの?」
美しい青年はそのままホストクラブKの扉をあけた。
「ってシュン聞いてんの?てめー寝てただろ。」
「あ、聞いてますよ。ちょっと長くて。」
「酔い過ぎて話し過ぎたわ。ねーちゃんお冷くれる?」
「結局、ダンナどうなったんすか?僕もお冷下さい。」
「教えねー。やっぱもう一杯飲むわ。」
「お供します。」
『境目』
靴紐を結べないまま朝がきて結んだ頃にまっくらになる
薔薇色と紅梅色の境目で今日から君は明日から僕は
鮮明に靡く頭髪に混じりたる時折光る一筋の白
願わくば君の臓器の真ん中でスマホ片手にゆっくり寝たい
乱雑に捨てられているティッシュから香ってしまういつかの匂い
歌舞伎町で待っている君を

歌舞伎町のホストで寿司屋のSHUNが短歌とエッセイで綴る夜の街、夜の生き方。
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