大学受験シーズンも終盤を迎え、春からの新生活に胸を躍らせる方も多い季節です。ふたりの女子大学生の連帯を描いた、真下みことさん『春はまた来る』は、ぜひこれから大学生になる方や、その親世代の方に読んでいただき、来る大学生活を健やかに過ごしていただきたいという願いも込められた一冊です。試し読みをお届けします。
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(承前)
翌朝、七時のアラームで目を覚ました順子は、前日準備しておいた洋服に着替えた。今日は紺色のトレーナーにストレートジーンズだった。リュックに実験セットと白衣が入っているのを確認し、パソコンと充電コードも中に移す。
理工学部のキャンパスに行けばわかるが、理系大学生は基本的に男女問わず長ズボンにリュックで行動している。実験がある日は安全のため季節によらず長ズボン(上半身は白衣を着用するので自由)、そして靴はスニーカーなどの、足の甲が覆われたヒールのない平らなものを着用することが義務付けられており、違反していると先生が判断した場合、ペナルティとして減点される。そして足の甲が出ていたり、ヒールのある靴を履いてきたりしてしまった場合はペナルティに加えて、安全靴という黒くて(他の女子曰く)ださい靴を一日中履いて実験しなければならない。減点が三つ貯まると成績が一段階下がるとかいう噂だが、真偽のほどは明らかではない。しかし長ズボンに関してはこういった貸し出しがないため、違反するとその日の実験は受けられず、振替実験というテスト期間に行われる実験に出なくてはならない。しかもシステムの関係で振替実験は二回までしか受けられず、忌引であろうとインフルエンザであろうと自己責任という決まりだったので、洋服くらいで減点を食らっている場合ではないのであった。
今日は一日中実験の授業だったため、他の科目の教科書は必要がない。ただ、英語の課題をやろうと宮田くんから連絡が来ていたため、その教科書だけは昨日のうちにリュックに入れておいた。
週に一度まとめて炊いては冷凍しているご飯を電子レンジで解凍し、冷蔵庫から納豆を取り出した。大した自炊はできないが、毎食カップラーメンで済ませるほど健康を無視することもできない。
順子はメガネで地味な出立ちだが、決して太っているわけではない。かといってスレンダーかと言われるとそうでもなく、いわゆる標準体型だった。それを変えたいと思ったことはないし、今後もおそらく思わないのだろう。
昨日の嘘みたいな夜を現実と切り離しながら、順子はご飯を口に運ぶ。大学生になったら誰か家に来るかもしれないと思って用意したデスクの二つ目の椅子は、今や立派な物置になっている。同じように、来客用スリッパやコップ、マグカップなど、彼氏はおろか家に呼ぶ友達すらいないのに、順子の部屋には少しだけ、ほんの少しだけ余分に物があるのだった。
七時半のアラームが鳴り、順子はそれを止める。今日は燃えるゴミの日なので、部屋のゴミと洗面所のゴミをまとめた。予約しておいた洗濯物を干してからリュックの中身を再度点検して玄関に向かい、スニーカーを履いた。
一日がかりのフーリエ解析の実験が終わり、順子はまた学食に来ていた。今日のお昼もここで食べたから、来るのは今日だけで二回目だ。
いつもの場所を見回すと、宮田くんの姿が見えた。無言でそちらに向かい、お疲れ、と挨拶をした。
「お。お疲れー」
宮田くんがこちらを見て、笑顔を作った。今日は幾何学模様の入った柄のシャツを着ており、その手元には英語の課題が広げられている。
「実験終わるの早かったね。宮田くんたち」
基礎実験の授業は、基本的に実験が終わって当日のレポートを提出した人から帰っていいという決まりになっていた。
「俺のペアのやつ、ってかペアの人が過年度生でさ」
過年度生とは入学年度が順子たちより上の人のことで、意味としては留年生に近い。
「なんか過去レポ持ってたから見せてもらって。そしたら実験は楽勝よ」
「なるほどね」
順子は英語の教科書を取り出しながら頷いた。過去レポ、すなわち過去のレポートを持っている人がいれば、実験の手順やちょっとしたコツなどがわかるというわけだ。
「他の過去レポはもらえなかったの?」
「いや、そこまで仲良くはなれなかったな」
「そりゃそうか」
そこで軽口を叩くのをやめ、順子は英語の課題に取り組んだ。海外のニュース記事を読んでそれを要約するという課題だった。
途中で無料のお茶を汲みに行き、それを啜りながら課題をやっているうち、実験が終わった面々が集まってきて、いつものメンバーが揃ってきた。偶然にも宮田くんが前、村井くんが右隣という配置が、昨日と全く同じだった。

「そういえば牧瀬さん、どうだった?」
村井くんが唐突に話しかけてきた。
「どうだったって、何が?」
「ほら、昨日の同窓会」
「ああ……」
そう言って、順子は困ったように笑った。高校までの順子のポジションや、文化祭実行委員の話、あの日の放課後聞いてしまったこと、高学歴男子まじでちょろいから――そのどれを、どこまで話したら、この人たちに伝わるのかわからなかった。
「なんか、高校までは黒髪ロング、清楚、みたいな人気の女の子がいたのね」
けれど結局、順子は倉持紗奈の話をした。
「黒髪ロング、いいじゃん」
いつの間にか宮田くんが話に入ってきている。
「それが、その子大学に入ってめっちゃ派手になっちゃって。髪も明るい茶髪だし、メイクも濃いし」
「大学デビューってやつ?」
「うーん。そうなのかな。元々目立つ子ではあったから」
「東京出てきてはっちゃけてるんかな」
「なんか、すごい遊んでるとは言ってた」
高学歴男子云うん々ぬんは、彼らには話せなかった。W大学だって世間から見れば高学歴なわけで、自分たちのことをちょろいと言われていると知ったら、嫌な気分になるかもしれない。
「その子どこ大なの?」
「T女子大って」
順子がそう言うと、彼らの目が一瞬曇った。宮田くんと村井くんが、目配せをしあっている。
「どうしたの?」
聞くと、なんでもないと言う。順子はどこか納得いかない気持ちで、英語のニュース記事に目をやった。
「けどさ」
次に口を開いたのは宮田くんだった。
「きっと遊んでるって言ってるのってサークルだよね」
「だろうな」
村井くんも同調した。
「牧瀬さんは入らない方がいいよ。ああいうとこ、牧瀬さんには似合わないから」
宮田くんにそう言われ、順子は適当に頷いた。それから、順子は昨日から思っていたことを聞いた。
「疑問だったんだけど、なんで女子大の子がサークルに入ると男子と知り合えるの?」
「あー」
宮田くんが一瞬気まずげに目を伏せる。それを感じ取ったのか、村井くんがその後を説明してくれた。
「サークルには大体三種類あるんだよ。一つがW大学の人しか入れないオールW、二つ目が、どこの大学の人も入れるオールインカレ、で、もう一つが」
そこまで言ったところで、村井くんまで気まずそうな顔をした。
「もう一つが?」
そう聞くと、宮田くんが渋々といった様子で説明を始めた。
「もう一つは俺と村井が一緒に入ってるサークルのパターンで、男子はW大学で、女子は女子大の子しか入れないサークル」
「ん?」
順子は眉を寄せた。想定していたインカレサークルは、どの大学の人も入れるいわゆるオールインカレのパターンだった。しかし男子と女子で条件が決まっているパターンがあるのだという。
「そのサークルにW大学の女子は入れるの?」
「入れないことはないっぽいけど」
「そうだね」
「俺らのサークルにはいないな」
宮田くんがそう言い切ったので、順子はどこか不思議な気持ちだった。
「ちなみに俺らのサークルは、男子はW大学の理工学部しか入れないよ」
「え、そうなの?」
「ほら理工って授業が多いから、ナイター練習が基本の方がありがたいじゃん。他にもオールW大学のテニサーだって理工限定のところってあるし」
言い訳めいた口調で言いながら、宮田くんは苦笑いを浮かべている。
「でもさっきも言ったけどさ、牧瀬さんはいいよ、サークルとか」
「俺もそう思う」
宮田くんの言葉に村井くんが同意する。
「俺らのサークルの女子大の子、頭悪くて話にならないもん。テニサーが飲みサーだなんて言われる原因は頭の悪い女子にあるんじゃないかと思ってるくらいだね」
村井くんがそう言ったので、宮田くんがお前最悪だよと笑って言った。順子は何を言えばいいのかわからず、薄く笑っておいた。
「けど実際、まじで頭悪いんだよ。大学にもアホみてえな小さいバッグで行ってるし」
「メイクも濃いしな」
「この間の飲み会でsinxの微分は? って聞いたら、あいつらなんて言ったと思う?」
宮田くんが得意げな顔で言った。
――sinxは微分すると?
――cosxでしょ。常識。
昨日の会話を思い出しながら、順子は首を傾げていた。そもそも、それは飲み会の話題として適切なのだろうか。
「サインってなんだっけ、だってさ」
「まじで言ってたの?」
村井くんが聞いた。
「おう、まじまじ」
「微分は知らないとしても、sinxの存在そのものを忘れるのは人として普通にやばいだろ」
「普通にバカだよな」
二人が女子大の子を馬鹿にし続けるので、順子もどこか麻痺したのか、それとも元から倉持紗奈のような派手な子を見下してみたいと思っていたのか、正確なことはわからない。
けれど確かに、順子はそのとき笑った。
「えー、それはバカかも」
順子が小さい声でそう言うと、男子二人は目をキラッと輝かせた。それから彼らは女子大の子たちがいかに見た目にしか気を遣っておらず頭が空っぽかを熱弁し、順子はずっとおかしくて笑っていた。
落ち着いた頃に、宮田くんが真面目な顔をして言った。
「でも男子の先輩はまじで優秀でさ、一個上に多田さんって人がいるんだけど」
「多田さんやばいよな」
「そう。俺と高校も一緒で、あ、W大付属男子ね。去年も成績は学年トップ3で後輩の面倒見もまじで良くてさ。俺、多田さんだけは尊敬してるんだ」
「多田さんだけしか尊敬してないって言い方だと他の先輩可哀想だろ」
「けどわかるだろ?」
「まあな」
二人にしかわからない「多田さん」の話が盛り上がっているのを、順子は遠い世界の出来事のように見守っていた。
冷めてしまったお茶を口にすると、いつもよりも舌に苦味を感じて、だから順子はその味がわからないように、一気に喉に流し込んだ。
春はまた来る

2月19日発売の真下みことさん『春はまた来る』に関する記事を公開します。











