大学受験シーズンも終盤を迎え、春からの新生活に胸を躍らせる方も多い季節です。ふたりの女子大学生の連帯を描いた、真下みことさん『春はまた来る』は、ぜひこれから大学生になる方や、その親世代の方に読んでいただき、来る大学生活を健やかに過ごしていただきたいという願いも込められた一冊です。試し読みをお届けします。
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第一章
六月、授業が終わってから学食に残り、課題を進める生活にもだんだん慣れてきた。W大学の理工学部キャンパスは、夕方も活気に包まれている。
順子はY県から一人上京し、私立ではトップと言われるこの大学に入学した。両親は地元の国立で十分だと言ったのだが、担任がそれではもったいないと、東京の国立大学を勧めてきたのだ。メガネの度が進むほど毎日勉強に明け暮れたが、東京の国立には後期含めて受からなかった。地元の私立は受けておらず、基本的に東京の大学しか受けていなかったため、受かった中で一番偏差値が高かったW大学に入学したのだ。
パソコンを開き、今日出たレポートの内容を確認する。順子が在籍する情報システム工学科は、というか理工学部では、とにかく課題の量が多い。毎日のように数千字は文字を打たなければ終わらない量をこなす必要がある。加えて、一年生のうちは理工学部全学科必修の基礎実験の授業が木曜の二限から五限まで、十時四十分から十八時まで通しであり、そちらの事前レポート、実験ノート、事後レポートは手書きで書かなくてはならなかった。それに他の日だって、授業がほぼ毎日一限から五限まで通しである。二年になればもう少し楽になると、誰かが先輩から聞いたそうだ。
「微積の課題終わった?」
前から声をかけられ、順子は顔を上げる。宮田くんだった。栗色の髪の毛が、今日も丁寧に整えられている。服装も無地のシンプルなシャツにチノパンツなのだが、シャツは薄手の柔らかそうな素材で、宮田くんが着ているからか、すごくお洒落に見える。
「全然。今システム概論のレポートやってるとこ」
「そっか。終わったら答え合わせしようぜ」
「うん」
そんな会話をしながら、順子は不思議な気分だった。だって、自分が男子と会話をしているのだ。宮田くんはテニスサークルに入っており、性格も明るい。友達もたくさんいるはずだが、この勉強時間は順子と同じテーブルにいることが多かった。順子たちの夕方の学食での大体の定位置は、実験室があるE棟から学食に入ってすぐ右にある大テーブルとなっている。
なぜこんなことが起きるのか、答えは明白だった。理系の女子が少ないからだ。うちの学科で言えば、今年は例年よりさらに女子が少ないらしく、学年百人のうち男子は九十人、女子は十人しかいない。つまりほとんど男子校のような人数比で、また授業は班分け含め男女関係なく全て学籍番号順で指定される場合が多いので、順子のような女子でも自然と男子と話すようになるのだ。五十音順ゆえ、名字が牧瀬の順子は名字がマ行の人たちとよく一緒になるのだけれど。
最初は数少ない女子とうまくやっていけるか不安だったが、今では順子は自分が男子であるような気すらしていた。今年は女子の名字がア行~タ行に偏っているらしく、順子の周りにはそもそも女子がいないのだ。
大学生になっても、順子はすっぴんにメガネで登校していた。髪の毛こそ長いが、それは美容室に行く頻度を下げようとした結果であり、サラサラの黒髪ロング、という印象とは程遠い。けれど高校まではきっと「上」だったであろう男子たちも、それを揶揄してはこない。この中の誰かと付き合おうだなんて贅沢は求めないし、基本勉強仲間とは勉強するのが目的だった。
だからここは順子にとって、やっと辿り着いた平穏な場所だった。
W大学の授業は九十分制で、九時から始まる一限と十時四十分から始まる二限で午前が終わり、三限から五限まで受けると十八時になる。六限や七限もあるにはあるが、それは大体教職課程や社会人学生向けの授業で、自分たち一年には関係ない。そんな大学のシステムに最初は少し戸惑ったが、今では慣れたものだった。
システム概論のレポートをまとめ終わり、順子はお茶を取りに席を立つ。無料で飲める給湯器のお茶は、嫌う人も多いが、順子は案外好きなのだった。
席に戻ると、順子の席のあたりに人が集まっている。
「どうしたの?」
順子は右隣に座る村井くんに声をかけた。短髪の黒髪に、いつもポロシャツを着ている人だ。
「今週のCプロ、めっちゃむずい問題出たじゃん。あれわかったって」
Cプロとは要するにプログラミングの授業で、順子も毎度の課題に苦戦している科目だった。
「本当? 誰が?」
「狭山くんだって」
「へえ、すごい」
「牧瀬さん、喋ったことある?」
「ない」
「あ、来た来た」
村井くんが手を振ると、その男子がやってきた。順子が言うのもなんだが、ぼさっとした髪の毛に瓶底みたいに度の強いメガネで、プログラミングが得意というのもなんだか納得してしまう風貌だった。すっぴんにメガネの順子だって、人のことは言えないのだが。
順子はシステム概論のレポートを上書き保存して閉じ、プログラムの編集画面を開いた。
やってきた狭山くんは何度もメガネに触れながら、今週のプログラミングの課題であるエイトクイーン問題について解説してくれた。
「まずエイトクイーン問題っていうのは8×8のチェスの盤上に八つのクイーンを配置して、そのうちどの駒も他の駒に取られてはいけませんっていうルール。ここまではいいよね」
「そこまではわかる」
微積の問題をやっていたらしい宮田くんが、いつの間にか狭山くんによる授業に参加している。
「うん。それで、チェスのルール知ってたらわかると思うけど、クイーンは縦横斜め全部に動けるんだよね」
「授業でも先生が言ってたよな」
「そうそう。つまり、マスの上にクイーンを一個ずつ設置していって、そいつの縦横斜めに次の駒を置かなければいい。それを繰り返すだけってわけ」
「そこまではなんとなくわかったけど、それってどうやって実装するんだよ」
宮田くんが焦れったそうに聞いた。実装というのは簡単に言うと自分が考えたことをプログラムに起こす作業である。
「それが、これ」
そう言って、狭山くんは自分のパソコンをこちらに開いて見せた。
「はあー」
「なるほどねえ」
「そういうことかー」
狭山くんに向けてなのかどうなのか、感嘆の声がみんなの口から漏れる。それは順子も例外でなく、気づけば「なるほどねえ」と口にしていた。
「人が書いたプログラム読むの苦手なんだけど、狭山のは読みやすいな」
宮田くんが感心したように言った。
「まあ、インデントとかコメントとか、多少は気を遣ってるからね」
狭山くんはそう答え、みんなの疑問を解消してから去っていった。
「斜めのチェックを関数化するっていうのは考えつかなかったわ」
「な、てっきり二重のfor文かと思ってた」
「これが最適解なんだろうな」
各々が感想を述べているあいだ、順子は自分のプログラムを修正した。狭山くんのプログラムを思い出しながら、自分の頭で書き直す。こうしているのは順子が真面目だからというだけではない。レポートの剽窃チェック、すなわちコピペチェックに引っかからないようにするためだった。コピペがバレると、コピペした方もされた方も、その学期の単位を丸ごと落とされる。実際、コピペがバレたせいで留年した先輩もいるらしい。そうならないためにも、学生たちは自分のレポートのデータを安易に友人に送らないし、どれだけ時間がかかろうとレポートやプログラムは自分で書いているのだ。

大体の修正が終わり、順子は微分積分、通称微積の問題集とノートを開いた。今日は問題集から二問。いわゆる積の微分と商の微分の応用編といったところだ。計算量は多そうだが難易度が高いわけではなさそうだった。
「お、微積?」
目の前に座る宮田くんが、順子のノートを覗き込む。整髪料か香水か、ふわっといい香りがする。
「うん。終わったら答え合わせね」
「おん」
ふざけたような態度で宮田くんがそう言ったのがおかしくて、順子はくすくすと笑いながら問題を解く手を進める。
思い出してふとスマホを開き、今の時間を確認した。十七時。十六時二十分に終わる四限が終わってからずっとここにいるから、妥当な時間ではあった。
それから二十分ほど問題と格闘し、順子は二問とも解けた。正確に言えば、十分で二問解けたのだが、答え合わせをしようと言ったので検算を何度かしていた。
「宮田くん」
来週の実験ノートを進めているらしい宮田くんに声をかけた。
「お、できた?」
「うん。これ」
ノートを差し出すと、宮田くんが怪訝そうな顔をしている。
「どうしたの?」
「いや、二問目が俺のと若干違って」
そう言って、宮田くんが自分のノートを差し出した。順子は途中計算をじっくりと見て、やがて原因がわかった。宮田くんにノートを渡しながら、
「四行目、sinxのままになってる」
と順子は伝えた。
「え?」
宮田くんは目を丸くして自分のノートを見つめる。その宮田くんに、順子は問いかける。
「sinxは微分すると?」
「cosxでしょ。常識」
当たり前のことを聞くなとばかりに、宮田くんは笑いながら答えた。順子も同じような笑顔を作り、
「だよね? なのに三行目でsinxを微分した結果をcosxじゃなくてsinxのままにしちゃってるよ」
と続ける。ノートを見つめる宮田くんが、口を「あ」の形に開いている。
「あー」
「わかった?」
「わかったも何も、こんなの超凡ミスじゃん。はずー」
そう言って、彼は顔を手で大袈裟に覆った。
「答え合わせしといてよかったね」
「うん、よかった。まじ感謝」
宮田くんは順子を拝むように手を合わせて、まじ感謝、と繰り返した。
「大袈裟だよ」
笑ってからふとスマホを見ると、十七時四十分になっていた。
「私、そろそろ出ないと」
順子が荷物をまとめ始めると、宮田くんが不思議そうな顔をした。
「なんか用事?」
サークルに入っていない順子に用事があるのが、きっと不思議なのだろう。
「同窓会」
「へえ!」
「珍しいね、この時期に」
村井くんも会話に入ってきて、順子は「確かに珍しいかも」と答えた。
「なんか東京出てきた組の、みたいなやつ」
「なるほどね」
「牧瀬さん、出身どこだっけ?」
宮田くんが聞いてきた。順子はY県と答え、そうだったと二人は言った。
「それでスカート穿いてるってわけだ」
村井くんが順子の格好をまじまじと見て言った。
「勝手に決めつけるなよ、村井」
宮田くんはそうフォローしてくれたが、確かに順子はいつもシャツに長ズボンという格好をしている。しかし同窓会の雰囲気がわからないので一応持っているスカートを引っ張り出して穿いてみたのだった。普段穿き慣れていないからか、高校卒業以来のスースー感に体が慣れていない。
「変、かな」
二人に恐る恐る聞くと、宮田くんも村井くんも馬鹿にした様子のない笑顔で答えた。
「変じゃないよ」
「うん、いい感じ」
「そっか、ありがとう」
順子はその言葉に安心して、まとめた荷物を持って大学を後にした。
春はまた来る

2月19日発売の真下みことさん『春はまた来る』に関する記事を公開します。











