大学受験シーズンも終盤を迎え、春からの新生活に胸を躍らせる方も多い季節です。ふたりの女子大学生の連帯を描いた、真下みことさん『春はまた来る』は、ぜひこれから大学生になる方や、その親世代の方に読んでいただき、来る大学生活を健やかに過ごしていただきたいという願いも込められた一冊です。試し読みをお届けします。
* * *
プロローグ
明日からようやく夏休みだというその日の放課後、国咲高校の校舎はどこか気の抜けた様子だった。うちの高校では、終業式の日は特別に部活がないので、いつもは流れてくる吹奏楽部の練習の音もせず、教室に残ってクラスメイトと話し込む人や、放課後の遊びに向けてトイレでメイクをする人など、過ごし方はさまざまだった。
順子はといえば、家に帰って勉強することが使命であり、今日も普段一緒にお弁当を食べている子たちと帰るつもりだった。しかし校門のあたりで電子辞書をロッカーに忘れてしまったと気づき、彼女たちには先に帰ってもらって渋々校舎に戻ってきたのだ。
「カラオケ行こーよ」
「ねえ合宿ってさあ花火持って行ってもいいかなあ」
「てかカラオケよりダーツの方がいいんだけど」
そんな自分の生活にはまるで出てこない単語で構成された、どこからともなく聞こえてくる大声で繰り出される会話に、順子は思わず身を固くする。
順子は別に、いじめられているわけではない。友達はいるし、その子たちとは華やかではないが静かに過ごせている。けれど放課後に教室に残る権利があるのはなんとなく「上」の人たちだけというふうに暗黙の了解で決まっていて、だからこそ順子たちはすぐに下校したわけで。かといって彼ら、いわゆる「上」の人たちにも不満は全くもってなく、むしろ今こうして歩いているところを彼らに見つかって「何だこいつ」的な顔をさせてはいけないのだという、謎の使命感に順子は駆られている。彼らが教室で喋るという役割を果たすのと同様に、順子たちは教室から早く出ていくという役割を果たさなくてはならないのだ。
うちの学年はA組からF組まで六クラス。順子は二年B組で、中央階段から登るとF組から数えて五番目に教室がある。それぞれのクラスにどういうわけか均等に分けられている「上」の人たちの会話を、盗み聞きしているわけではないという態度で、俯きがちに通り過ぎていき、やっとの思いでB組に辿り着く。気づかずに息を止めていたのか、自分のロッカーの前に来た頃には、少し息が切れていた。
「鍵は、えっと」
教室の外に一人一つずつあるロッカーの鍵は、各自が持ってきたものを取り付ける決まりになっていた。以前は学校でまとめてダイヤル式のものを購入していたらしいが、誰かが番号を盗み見たとかで盗難事件に繋がり、学校の責任が問われた結果、生徒個人で管理することになったという。
順子の鍵は近所の工務店で買ってきた真っ黒なもので、家の鍵と一緒にロッカーの鍵を持ち運んでいる。周りを見れば、男子はだいたい順子のような鍵を持っているが、女子の鍵はピンク色だったり、ラインストーンが貼ってあったりと、ロッカー自体の装飾が禁じられているのでここで個性を出そうとしている子が多い。
「あ、あった」
鞄の底に入っていた鍵を見つけて取り出し、ロッカーを開けようとしたとき、B組の中から声が聞こえた。
「だからー、女子のランク付けだって」
「可愛い子からブスまで」
「黒板に書こーぜ」
おそらくは運動部あたりの男子、髪の毛をワックスで固めたような人たちらしき声がした。女子はもうみんな帰って、男子だけで話しているのだろうか。
「えーひどくなーい? 私ブスかもってことー?」
と思うと女子の声もして、順子はその場から動けなくなった。
「紗奈がブスなわけないじゃん」
「ぶっちぎりで一位だよ」
「え、うちは?」
「ユリは二位だな」
「えー紗奈の次ならいいけどお」
どうやら、クラスの女子の可愛さを、ランク付けしていくつもりらしい。うちのクラスは男子二十人女子二十人の計四十人だから、これから一位から二十位までを決めるのだろう。
すぐに立ち去ればよかったのに、順子はまるで一人、時が止まったみたいに、ロッカーの前から動けなかった。ロッカーの中の電子辞書に手を伸ばすと、夏なのにひんやりと冷たい。
すでに一位に選ばれた倉持紗奈のことは、順子も知っている。クッキング部に入っていて、勉強は苦手だがとにかく可愛い。ぱっちりとした二重に整った鼻、小さな唇があどけない印象で、メイクをしているのかいないのか、とにかく肌の質感が順子のそれとは違っている。しかし単に顔が可愛いというだけではなく、仕草から表情、声や笑い方まで、全てが計算し尽くされているように愛らしい。かといって化粧が濃いとかギャルっぽいとかでもなく、むしろ髪の毛は校則通りの黒髪ストレートで清楚な雰囲気があり、そういったところも男子に人気なのだった。
もちろん順子が倉持紗奈を知っているのは向こうが「上」の人間だからで、芸能人が私たち一般人のことを知らないように、倉持紗奈も順子のことは認識していないはずだ。なので順子の頭の中では、「上」の人間は芸能人のようにフルネームで呼んでいた。
「えー、先生とか来たらやばくない?」
倉持紗奈の甘ったるい声が聞こえてくる。
「大丈夫、そしたら文化祭実行委員に向いてる人を考えてましたって言えばいいから」
「お前天才じゃん」
「だろ?」
文化祭実行委員はうちの高校ではクラスで一番可愛い女子がやるのが伝統になっており、今年のB組は倉持紗奈だろうと言われている。つまり、男子は実行委員になれないのだ。そして、各クラスの文化祭実行委員が集められて全校生徒の前で演説をして、投票でその年の文化祭実行委員長が決定する。これはもはやミスコンのような行事と化しており、正直演説など誰も聞いていない。
そういう意味で、可愛い順ランキングが文化祭実行委員決めにも繋がるという考えは、この学校においてはそこまで的外れではないのであった。
「そういうわけで、まずは紗奈が一位でユリが二位だろ」
コツ、コツと黒板にチョークで文字を書く音が聞こえる。こんな会話を盗み聞くような真似をして、自分が何をしたいのか、順子にはよくわからなかった。けれど可愛さランキングで、自分が何位に選ばれるのか、知りたくない女子なんて、数えられるほどしかいないような気がした。そういうのを「馬鹿馬鹿しい」と思える子か、倉持紗奈のように一位が確定している子だ。順子はそのどちらでもない。ただそれだけだった。

「名前出してくの、意外に面倒だな」
「うちって女子何人いる?」
「二十人じゃない?」
「あと十八人もいるのかよ」
盛り上がっていた彼らの熱意が、面倒臭いという一点で萎みかけているのが、顔を見ずともわかった。しかしそこで、
「え、やろうよー」
という声がした。それは倉持紗奈ではない方の声で、おそらくダンス部の渡辺ユリだろう。
「やっぱやる?」
「やろうぜ、せっかくだし」
男子たちの盛り上がりに再び火がつき、彼らは部活動別に女子の名前を挙げていった。
「女バスの田島はとりあえず十三位くらいにしておくか」
「何その十三って半端な数字」
「素数」
「うわ数学かよキモ」
「え、美雨ちゃんは結構上の方じゃない?」
「ミウって?」
「ほら、吹奏楽部の神崎美雨ちゃん」
「あー神崎さん」
「神崎さんは五位だな、とりあえず」
「結構上じゃん」
「ちなみにこれも素数」
「キモ」
「いや素敵だろ」
やり取りの中に倉持紗奈の発言はなく、順子は倉持紗奈が気づかぬ間に帰ったのではないかと不安になった。もし倉持紗奈が帰る途中で、順子の姿を見ていたら? 可愛い子ランキングを盗み聞きする「下」の人間を見つけたら? 夏休み明け、クラスに順子の居場所はないかもしれない。いじめとかではない、暗黙の了解によって。
ランク付けは順調に進んでいった。お弁当友達の名前も呼ばれていき、彼女たちは当然のように下の方に名前が書かれていく。
「男子ってさあ」
倉持紗奈の声だった。やはりまだ教室にいたのだ。勝手に安堵していると、
「なんでこういうランキング好きなの?」
と声は続いた。
「え?」
「何だよ紗奈、ノリ悪くね」
「いやノリとかじゃなくて、私たちは男子の見た目でランキング作ろうとか思ったことないからさ、純粋な興味?」
「なんでだろうな」
「わかんね」
彼らは特に理由を考える気もないようで、その話はすぐに流れた。倉持紗奈は、この話題にあまり乗り気ではないのかもしれない。言われてみれば確かに、男子のモテる基準は足の速さやコミュ力など、顔以外にも色々あるのに、女子を選ぶ基準は可愛さ一点なように思えるのは不思議だった。
「だいぶ埋まってきたぞ」
「え、もう完成?」
「数えてみる……一、二、三、……十八、十九」
「十九?」
「一人足りない?」
彼らが一人ひとりの名前を読み上げて確認していく中で、順子は恐ろしいことに気づいてしまった。
自分だけがまだ、名前を呼ばれていない。
「あ、わかった。あの子じゃない?」
渡辺ユリが笑いながら言った。
「あのメガネの」
「あー!」
「うわなんだっけあいつの名前」
「俺英語でペアワークやったことある」
「それで忘れるの最低じゃね」
「いちいち陰キャの名前覚えてらんねえだろ普通に」
その会話を、順子は半分祈るようにして聞いていた。どうか誰も、このまま、順子の名前を思い出さずにいてくれますように。可愛さの議論の俎上にすら上がらなかったということを、みんなが忘れてくれますように。
「……牧瀬だ!」
一人の男子が、ほとんど叫ぶように言った。
「あー!」
「そうだそうだ」
「顔は浮かんでたんだよずっと」
「わかる」
「あれってなんとか現象っていうらしいよ」
「何現象?」
「知らんけど」
盛り上がる彼らの声に俯くと、メガネが下がってきたので自然と押し上げた。誕生日に買ってもらった新しいチタンフレーム。制服に合うネイビーがお気に入りだった。
「で、あいつ何位にする?」
「それだよな」
「うーん」
男子たちはそれから一瞬、静かになった。まるで誰も、教室にいないような、恐ろしいほどの静けさだった。そしてそれからすぐに、誰かが言った。
「二十位」
「だな」
「異議なし」
「一応、最下位の理由は?」
「メガネでブス。以上」
「簡潔でよろしい」
涙は出てこなかった。その代わりに湧いてきたのは諦めで、順子はこの件を秋には彼らが忘れてくれることだけを願った。もう一度メガネが下がってきた気がして上げ直すと、視界がぼんやりと滲んだ。
流石にそろそろ帰らないと、と鞄を持ち直すと、中から倉持紗奈の笑い声が聞こえた。
「えー、牧瀬さん超可哀想ー」
それから響くけたたましい笑い声たちに追いつかれまいと、順子は逃げるようにして校舎を去った。
春はまた来る

2月19日発売の真下みことさん『春はまた来る』に関する記事を公開します。











