貧しい家に生まれ、寺を追われ、奉公先も長続きしなかった——天下人・豊臣秀吉の少年時代は、数々の逸話に彩られています。
なかでも有名なのが、矢作川で蜂須賀小六と出会い、人生が動き出したという物語。しかし、その舞台となるはずの場所には、当時「橋」すら存在しなかったとされます。
史料を丹念に読み比べることで浮かび上がるのは、英雄譚として脚色された秀吉像と、その背後にある、より現実的で切実な少年の姿です。
今回は呉座勇一さんによる新刊『真説 豊臣兄弟とその一族』より、秀吉の若き日をめぐる伝説と史実のズレについて、抜粋してご紹介します。
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矢作川の出会いはなかった
秀吉の実父とされる木下弥右衛門は幼少期に亡くなり、秀吉の母である「なか」は、織田信秀の同朋衆であった筑阿弥(竹阿弥)と再婚したという。しかし、秀吉はこの継父である筑阿弥に馴染めなかったとされ、『太閤素生記』には「筑阿弥継父ナレハ心ニ不合コト有テ」と、筑阿弥との不和が記録されている。
『甫庵太閤記』によれば、秀吉は子どもの頃、尾張国の光明寺に入れられたという。けれども、僧侶になりたくなかった秀吉は寺で問題を起こし、追い出されて家に戻った。『甫庵太閤記』では秀吉の問題行動について具体的に記していないが、『絵本太閤記』によれば、本尊の阿弥陀如来の首を落とすなどの乱暴を働いたという。その後、あちこちに奉公したものの、どれも長続きしなかったという。

蜂須賀小六との「運命の出会い」という物語
なお、この放浪期に、秀吉が蜂須賀小六(正勝)と出会ったという有名な逸話がある。
日吉丸(秀吉)が奉公先を出奔(しゅっぽん)して三河岡崎の矢作橋で寝ていた際、野盗の頭領である蜂須賀小六が通りかかって、うっかり日吉丸の足を踏んだ。それに対して日吉丸が咎(とが)めたことで小六は日吉丸の度胸を認め、手下に加えたという。
そもそも、矢作川に「橋」は存在しなかった
しかし歴史学者の渡辺世祐(よすけ)が昭和四年(一九二九)に発表した著書『蜂須賀小六正勝』において、室町時代のどの紀行文を見ても矢作川に橋が架かっていたことを示すものがないことを確認し、秀吉幼少期には渡し船が用いられていたと指摘した。矢作川に土橋が架けられたのは慶長五〜六年(一六〇〇〜一六〇一)のことであるという。その頃には秀吉も小六も亡くなっている。
歴史学者の小和田哲男氏は、右の逸話は『甫庵太閤記』や『太閤素生記』など江戸初期の太閤伝には見えず、寛政九年(一七九七)刊行の『絵本太閤記』が初出であるため、同書作者の竹内確斎(たけうちかくさい)による創作と指摘している。
また、蜂須賀小六が野盗の親分であったという通俗的理解も、江戸時代以降の軍記物や講談によって形成された虚像である。実際には蜂須賀正勝は尾張国海東郡(かいとうぐん)蜂須賀郷を名字の地とする富裕な土豪であり、遠く三河まで来て盗賊を行う理由はない。
史料が語る、より現実的な秀吉の少年像
さて『太閤素生記』によると、天文二十年、十六歳の時、秀吉は父弥右衛門の遺産である永楽銭一貫文(現在の価値で六万〜七万円)を手にして家を飛び出した。秀吉は清須の町に出て木綿針を買い、商売を始めたという。
むろん、以上に示した秀吉の少年期の事績を良質な史料で裏付けることはできず、真偽は定かではない。
ただ、現実の秀吉の少年時代も、小六の手下になったという話を除けば、概ね右のようなものだったのではないか。利発な少年だっただろう秀吉を、両親が寺に入れて学ばせようとするのは自然であるし、後に武士として立身していくことになる秀吉は坊主になるのを嫌がったに違いない。秀吉の両親は口減らしの意味もあって秀吉を寺に入れたのであろうから、寺から追い出されたら、どこかに奉公させるだろう。そして相続するような家業・家産のない貧しい家に生まれた以上、十五歳前後になったら独り立ちするのも当然である(武士が十五歳前後で元服することが示すように、当時の十五歳の男は大人である)。

「松下家仕官」説もまた疑わしい
『太閤素生記』の続きを見よう。秀吉は針を売りながら東海道を東に進み、遠江の曳馬(ひくま/現在の浜松市)に至った。ここで久野(くの)城主の松下加兵衛之綱(まつしたかへえゆきつな)と出会い、小者(下働き)として仕官したという。だが小和田氏によれば、この記述には事実誤認が多い。
まず、当時松下氏が拠点としていたのは久野城ではなく頭陀寺城(ずだじじょう)である。松下加兵衛之綱が久野城の城主になったのは、天正十八年(一五九〇)、小田原征伐後の論功行賞によってである。
さらに之綱は天文六年生まれなので、秀吉を召し抱えたとされる時にはまだ数え年で十五歳であり、主従関係の成立自体が不自然である。小和田氏は、秀吉が仕えたのは松下加兵衛之綱ではなく、その父長則(ながのり)だったのではないかと推測するが、そもそも松下氏に仕えたという事実そのものを疑う必要があろう。
ちなみに、秀吉の名字として知られる「木下」についても、かつての主君である「松下」から取ったという説がある。けれども、「木下」から逆算して、松下氏に仕えたという話が作られた可能性もあるのではないだろうか。

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