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冤罪の深層

2026.01.27 公開 ポスト

何も悪いことをしていなくても逮捕され、保釈もされない国・日本。技術者の無念の死が突きつけた現実石原大史(NHKチーフディレクター)

逮捕された技術者・相嶋静夫さんは、無実を訴えながら、長期拘留中に病が発覚し、無念の死を遂げた――。前代未聞の冤罪事件はなぜ起きたのか。権力の暴走はなぜ止まらなかったのか。NHKディレクターによる渾身のノンフィクション『冤罪の深層 追跡・大川原化工機事件』から一部抜粋してお届けします。

(写真はイメージです)

取材を始めた当初から、どうしても話を聞きたかった人物がいた。無実を訴えながら亡くなった大川原化工機の元顧問・相嶋静夫さんの妻、M子さんだ。M子さんを訪ね、静岡県富士宮市に向かったのは、大川原社を初めて訪問した数週間後のことだった。

「起訴取り消し」が明らかになったあと、相嶋静夫さんの悲劇は注目され、既に幾つかの新聞や雑誌で記事になっていた。中には、相嶋さんの遺族として長男Kさんが取材に応じたものもあった。しかし、夫の逮捕の様子を直接目にし、その後の勾留や闘病生活を最も身近で支え続けた妻M子さんの言葉を伝える記事は、存在しなかった。

長男Kさんに話を聞いたところ、M子さんは、事件の衝撃と夫を失った悲しみから、落ち込んだ状態が続いているとのことだった。そのため、マスコミの取材依頼はKさんが応じるようにしているのだという。無理はできないとは思ったが、M子さん本人に面会の意思があるかだけでも聞いて欲しいとKさんにお願いした。すると思いがけないことに、「会ってもよい」と返事が来たのだった。

初めての訪問の日、母の様子を心配したKさんが、私の訪問に同行することになった。そこでKさんの車に同乗し、相嶋さんの自宅がある富士宮へ向かった。道中、Kさんから、元々横浜市に暮らしていた両親が、富士宮に転居した経緯を聞かせてもらった。

相嶋静夫さんは、長く大川原社の開発部門を牽引した技術者だった。出身は山口市、若い頃から数学の才能に秀でており、親類の間で将来を嘱望されていたという。市内の名門、山口高校を卒業後、東京工業大学の工学部に合格し上京。妻M子さんとは、その頃出会い、学生の間に結婚した。卒業後は、プラント建設などを手がける会社へ就職し、その後先代の社長に請われ、30代で大川原社へ入社した。

大川原社では、噴霧乾燥機の設計開発を担うなど活躍し、容疑をかけられた機械も相嶋さんが手がけたものだった。48歳で取締役に就任後は、常務取締役、専務取締役と出世を重ね、大川原社長の右腕として会社を支えた。2014年に取締役を退任。その後は顧問として、主に富士宮市にある大川原社の研究所で後進の育成に力を入れていた。

富士宮に中古住宅を求め移り住んだのは、逮捕のおよそ1年半前にあたる2018年7月。その後の人生設計を考えてのことだった。徐々に会社での仕事を減らし、自然豊かな環境で人生を楽しみたい。相嶋さんは、富士宮に転居してからは、自宅に隣接した畑での野菜作りや、竹細工の制作などを楽しんでいた。しかし、その暮らしは、予想もしなかった逮捕により断ち切られてしまった。

相嶋さんの自宅は、富士宮の市街地から100メートルほど細い坂道を上った高台にあった。到着し車を降りると、間近に迫る富士山と麓に広がる富士宮市街が一望できた。玄関先で、M子さんが私達の到着を待っていた。初対面の挨拶を交わした後、見晴らしの良さを思わず褒めると、M子さんは、わずかに微笑んだ。

「主人も、ここの眺めが好きでねえ。逮捕されたときも、最後、ここで煙草一本吸わせてくれって言って。それから連れて行かれたんです……」

初めてお会いしたM子さんは、話に聞いていたよりは気力を取り戻しているように見えた。あるいは私の訪問に応じるため、気力を振り絞っていたのかもしれない。

案内された客間は、富士の雄大な稜線がよく見えるよう、北側をガラス張りにした部屋だった。その富士に向き合うように真新しい仏壇が置かれ、柔和な表情の静夫さんの遺影が飾られていた。聞けば遺影は、逮捕前、最後の正月に孫の1人が撮った写真を元にしたという。

静夫さんの死から、1年半。この間、M子さんは仏前へ供える生花を欠かしたことがないと話した。「今でもちょっと信じられなくて。ただいまって帰ってきそうな気がして……」。M子さんの言葉には、逮捕のその日から時間が止まってしまったかのような響きがあった。

富士宮に転居した当初は、M子さんの高齢の父も含め、3人で始まった新生活だったという。逮捕後の混乱の渦中にまず父が病で亡くなり、次いで逮捕から1年を待たずに静夫さんが亡くなった。穏やかだった暮らしは、一気に暗転してしまった。

静夫さんの逮捕はM子さんにとっても、思いもよらぬものだった。逮捕前、夫が警察の任意の事情聴取に何度も協力していたことは、もちろん知っていた。だいたい月に1度のペースで、富士宮から東京・原宿署までの呼び出しに応じていたからだ。しかし、その聴取が何を目的としていたのかは、M子さんは聞かされていなかった。まして警察が、容疑者の1人として夫を見ているとは、全く想像していなかった。

M子さんの記憶に残っているのは、繰り返し同じ内容の説明を求められ、辟易とする静夫さんの姿だった。

「『まだ行くの?』って私が聞いたら『いくら言っても分かんないんだよねえ』って。『機械の仕組みとかを、何回も何回も説明するんだけど、全然分かんないんだよねえ』って。それにはちょっと困り果てていたみたいですね」

2018年の冬以降、18回もの聴取に応じてきた静夫さんは、2020年3月に逮捕された。その後、東京拘置所での勾留中に胃癌が見つかり、逮捕から11カ月後、2021年2月にその癌が原因で亡くなった。「起訴取り消し」が決まるのはその5カ月後。静夫さんは、事件の結末を生きて聞くことができなかった。静夫さんの無念も想像を絶するものと思えたが、残された家族の痛みも、計り知れないものだった。「突然連れて行かれて、勾留されてしまって。もうあと何カ月という命で面会しても、何も話せなかったので、そういう心残りがすごくあります」

M子さんは、今でも当時を思い出し、眠れなくなることが度々あるという。なぜ夫がこんな目に遭ったのか、そして、どうして助けてあげられなかったのか。40年以上連れ添った夫婦であったのに、逮捕から死へ至る最後の1年は、ろくに会話もできないまま永遠の別れとなってしまった。

さらに、事件について周囲に話そうにも、なかなか理解してもらえないと、孤独を深めていた。特殊な機械の不正輸出という事件の内容を、何も知らない第三者に説明するのは容易ではない。「起訴取り消し」になったとはいえ、逮捕されたという事実をもって「何やら、やましいことをやっていたのでは」と疑いの目を向けられることもあったという。

逮捕や起訴によって、一度傷つけられた名誉は簡単には回復できない。そして、その名誉を傷つける過程の一端に、事件を大々的に報じた私達マスコミも介在していた事実が、苦しかった。

帰り際、夫とともに植樹したという庭の河津桜をM子さんが見せてくれた。静夫さんの死の1年前、伊豆へ2人で旅行に行った際に、美しさに惹かれて苗木を買ったのだという。花が咲くようになれば「庭で花見ができるね」と、桜の成長を夫婦で楽しみにしていた。しかし、そのささやかな願いは、もはや叶えることはできなくなってしまった。

「自分が何も悪いことしていない、だから大丈夫じゃないんです。何も悪いことしていない、一生懸命やってきても、疑いを持たれれば逮捕されてしまうというのが今の日本なので」

M子さんはそう訴えた。そして「自分のような悲しい思いをする人を1人でも減らせるのなら」と取材への協力を約束してくれた。

関連書籍

石原大史『冤罪の深層 追跡・大川原化工機事件』

軍事転用が可能な精密機器を不正に輸出したとして、横浜市の機械メーカー・大川原化工機の社長ら3人が逮捕された。長期勾留ののち異例の起訴取り消しとなり、会社側は国と東京都に賠償を求めて提訴する。  元顧問の相嶋静夫さんは、拘留中にがんが判明し、無実を訴え続けるも、保釈が認められないまま亡くなった。 第一審で証人として出廷した現役捜査員は「まあ、(容疑は)捏造ですね」と証言。 衝撃の冤罪はなぜ起きたのか。 相嶋さんはなぜ無念の死を遂げなければならなかったのか。 調査報道大賞を2年連続受賞ほか各賞総なめのNHKスペシャル「”冤罪”の深層」シリーズ、ついに書籍化!

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冤罪の深層

軍事転用が可能な精密機器を不正に輸出したとして、横浜市の機械メーカー・大川原化工機の社長ら3人が逮捕された。長期勾留ののち異例の起訴取り消しとなり、会社側は国と東京都に賠償を求めて提訴する。
 元顧問の相嶋静夫さんは、拘留中にがんが判明し、無実を訴え続けるも、保釈が認められないまま亡くなった。
第一審で証人として出廷した現役捜査員は「まあ、(容疑は)捏造ですね」と証言。
衝撃の冤罪はなぜ起きたのか。
相嶋さんはなぜ無念の死を遂げなければならなかったのか。
調査報道大賞を2年連続受賞ほか各賞総なめのNHKスペシャル「”冤罪”の深層」シリーズ、ついに書籍化!

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石原大史 NHKチーフディレクター

石原大史 いしはら・ひろし
NHKチーフディレクター。2003年NHK入局、現在コンテンツ制作局「ETV特集班」所属。制作した番組にETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」(第66回文化庁芸術祭大賞)、ETV特集「薬禍の歳月サリドマイド事件50年」(第70回文化庁芸術祭大賞、第41回放送文化基金賞・最優秀賞)、ETV特集「ペリーの告白~米国防長官・沖縄への旅~」(第55回ギャラクシー賞奨励賞)、NHKスペシャル「空白の初期被ばく 消えたヨウ素131を追う」(第56回JCJ賞)など。NHKスペシャル「〝冤罪〟の深層~警視庁公安部で何が~」で第74文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。著書に『原発事故 最悪のシナリオ』(NHK出版)、共著に『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』(講談社)がある。

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