あれは10年……いや、さらにもっと昔だっただろうか。
背中から転(こ)けた夏の夜があった。
記憶の中の景色から何かの帰り道であったことは明らかだが、それがどこからの帰り道なのかは分からない。
僕は最終の電車に揺られていたのだが、普段利用しない線の電車に乗っていたことを記憶しているので、何かのイベント会場から家までの道中だったのだと思う。
疲れていたのか、うとうとと寝てしまった。気付くと終点だった。
降りると、周りは真っ暗な闇が広がっていた。
夏の夜特有のぬるい風が吹いていた。辺りにコンビニのようなものは無く、乏しくある外灯に照らされた田んぼが広がっていた。大きな道路があり、周辺はほぼ田んぼだった。
絶望的な状況ではあるが、寝起きでぼんやりとしていてまだ思考が追いついていないのか、逆に妙に冷静だった。
改札を抜け、見渡す限りの田園。
本当にここは大阪なのか。いや、違うのか。
そう言えば起きた時は自分しか乗っていなかった気がする。
相当な田舎である可能性が高かった。
僕が絶望的な思考にならなかった理由でもあるが、現代の強みとして、スマホがある。僕はスマホのマップのアプリを開き、近くに何があるか探した。
しばらく歩いた所にネットカフェがある。なんだ。これで一件落着だ。
明日の朝から仕事がある訳でもない。ネットカフェで寝て、また電車が動き出すのを待てば良い。その頃は極貧生活だったので出費としては痛かったがまぁこれも一つの勉強として受け入れるしかない。とそう自分を納得させ、田んぼの道を歩き出した。
すると外灯の間隔がどんどん広がっていき、ついに外灯が一つも無くなった。
道はあるが外灯は一つも無い、という、夜に通ることを想定されていない道だった。僕はまたスマホを活用し、明かりを前に照らしながら歩いていた。まだ今のスマホの懐中電灯のような機能は無く、液晶の画面を前に向けて歩くという苦肉の策を取るしか無かったが、これがあると無いでは雲泥の差があった。
その状態で15分ほど歩くと、汗とともに孤独が襲って来た。段々と脳が起きて来たのだ。
ほとんどの場合は良い兆候であってもこの場合は例外で、自分の脳が本調子になるほど感じる孤独も大きくなって来た。当時のスマホの機能では何分で目的地に着くかまでは分からなかった。
歩いてはいるがこんな田舎に本当にネットカフェのような近代的な物があるのか?
冷や汗の混じった汗のせいで、背中とTシャツがべっとりとこびりついていた。シャワーを浴びるという贅沢な事は望まない。早くこの暗闇から抜け出し、とにかく安心したかった。
ネットカフェがあることが自分の見間違いでないことを祈り、スマホのマップをもう一度確認した。
と次の瞬間、
……!!!!
何が起こったか分からなかったが、気付くと目の前に星が広がっていた。とてつもなく綺麗な星空が。

そうだ。
僕は忘れていたのかもしれない。
夢を追いかけて大阪に出た。
何もかもが新鮮だったのは最初だけ。
空っぽの日々が続いた。
同窓会には一度も行かなかった。
真っ当に生きている奴らに会うのが後ろめたかった。
いつしか空を見上げることは無くなった。この星たちは大阪にもあったのだろうか。
田舎は星が綺麗だ。とよく言うが、違うのかもしれない。
都会に行くとみんな夜空を見上げなくなるだけなのかもしれない。
きっと都会にも星は輝いていて、みんなそれに気付かずに下を向いて生きているんだ。
忙しなく毎日をやり過ごし、いつしか取り返しの付かないくらいに精神を病んでいる。
コンビニの店員さんに『ありがとう』も言えなくなり、いつしか夢を諦め、機械に奪われるような仕事を坦々とこなしている。
そして必ず言う。
『こんなはずじゃなかった』
そりゃそうなんだよ。
思うようになる人なんてほとんどいない。
でもその中で小さな幸せを見つけるのが人生なんだ。
こんなはずじゃなかったからこそ出逢えた人がいるだろう。こんなはずじゃなかったからこそ出来るようになったことがあるだろう。
それこそが財産なんだ。
それを大切にされすれば、何も間違った道じゃなかったんだ。
いや、
そんなん思う前に
『痛(い)ったぁ!!!!!!!!!』
と叫んだ。
頭に激痛が走った。
僕は電柱に頭をぶつけて背中から転(こ)けたのだ。
そして少し、血が出た。
そんなお話。
※歩きスマホには気をつけよう。
クロスロード凡説の記事をもっと読む
クロスロード凡説

「ネタにはしてこなかった。でも、なぜか心に引っかかっていた。」
そんな出来事を、リアルとフィクションの間で、書き起こす。
始まりはリアル、着地はフィクションの新感覚エッセイ。
“日常のひっかかり”から、縦横無尽にフィクションがクロスしていく。
「コント」や「漫才」では収まらない深掘りと、妄想・言い訳・勝手な解釈が加わった「凡」説は、二転三転の末、伝説のストーリーへ……!?










