なぜ〈お金が足りない〉よりも〈ありすぎる〉ほうが、人は壊れていくのか?
裕福な家族ほど深い闇を抱えるのは、いったいなぜなのか?
支配、断絶、性犯罪、引きこもり──豊かさの陰で何が起きているのかを解き明かし、「幸福とは何か」を問い直す。幻冬舎新書『お金持ちはなぜ不幸になるのか』より、一部を抜粋してお届けします。
※本記事・書籍で紹介する事例は、個人が特定されないよう修正を加え、登場人物はすべて仮名とする。
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生涯、家事手伝いという生き方
女性が職業を聞かれた時、「家事手伝いです」という答えが返ってくることは昭和・平成ではしばしばありました。今では「ニート」と括られてしまうかもしれませんが、女性が家庭にいることが当たり前だった時代は、学校を卒業し結婚するまでの身分のようなもので、裕福な家庭の女性に限ったことではありませんでした。
本章では、働く気もなければ結婚するつもりもない、生涯家事手伝いを宣言している女性の生き方に迫ります。
昭和生まれの高橋葵は東京の富裕層の家庭の三女として生まれ、幼い頃から良妻賢母教育を受けて育ちました。親戚や友人の女性たちも皆、家庭で過ごす人生を送っており、働く女性のモデルを知りません。葵にとって家事手伝いは良家に生まれた女性の特権であり、「ニート」と揶揄されようが、時代遅れという引け目はありません。
世間知らずこそ、真の「お嬢様」なのです。そんな彼女にとって聖地である実家を守るための戦いと葛藤を見ていきましょう。
実家に住み続けたい三女──高橋葵(40代)
「ご自宅ですか? 随分といいところにお住まいですね」
都内の自宅でタクシーを降りる時、運転手さんはよくそう言います。ここは私が生まれ育った家で一度も離れたことはなく、私は生涯、ここに住み続けるつもりでいます。
父は大企業の役員で、母は父のかつての上司の娘で、見合い結婚をしたそうです。長女の菊乃と次女の百合は年子で、私は5年後に高橋家の三女として誕生しました。
姉たちとは年が離れていたことから、幼い頃は喧嘩をすることもなく、私は家族から可愛がられて育ちました。
小学校からミッション系の学校でエスカレーター式に大学まで進学し、卒業後は結婚するのが高橋家に生まれた女性の宿命です。女性が働くなどとは教育されていません。ですから私は、これまで一度も働いた経験がありません。
私は大学卒業後、国立大学の大学院に進学し、博士課程まで進みました。大学での教職の話があったのですが、勤務場所は地方だというのです。
たとえそれなりの大学だったとしても、私には地方に住むことは無理だとお断りしました。実家から通えたとしても、通勤に1時間近くかかる場所にも行く気はありませんでした。
良い条件の話があれば別ですが、それほど期待していたわけではなく、結局研究職に就くことはありませんでした。研究は好きですが、学生の相手は好きではありません。
長女の菊乃は、大学卒業後に都内の国立大学で教員をしている男性と結婚しました。家を継ぐのが長女の使命なので、夫も両親との二世帯同居は了承していたようです。しかし菊乃は、両親とは別に暮らすことを望んでいました。
次女の百合はアメリカの大学に進学していましたが、卒業後も帰国するつもりはなく現地の男性と結婚するとの話でした。
「お父さんとお母さんの面倒は、葵ちゃんが見てくれると助かる」
実家に戻りたくない姉たちは、そう言って私がこの家に残ることを理由に勝手気ままな人生を歩み始めていました。それでも私は仕事をする気も結婚する気もなく、この家に住み続けることを望んでいたので、姉妹間の利害は一致していたのです。
姉たちが家を出た後、私は広い屋敷を独り占めし、大学院に通いながら、悠々自適に生活していました。
ところが上の姉は、しばらくして子どもを連れて戻ってきたのです。
「やっぱり実家はいいよね。田舎はキツイ……」
姉夫婦の家は東京にありますが、ここに比べたらずっと不便で住みにくいに違いありません。確かに、この家で育った姉が満足できる環境では決してないでしょう。
夫は国立大学の教員なので給料は安いし、戻ってきたくなる気持ちもわからないではありません。
「来月には光一さんも来るから」
「え、お姉ちゃん、もしかしてここで暮らす気?」
「ええ。子どももできたしね」
「そんな、私はどうなるのよ」
「屋根裏を使えばいいじゃない」
「あんな狭いところ……」
「嫌なら自分で部屋探しなさいよ。こっちは子どもがいるんだから」
「ちょっと、話が違うでしょ。戻ってくるつもりないって言ってたじゃない」
「事情が変わったのよ。そもそも、お父さんもお母さんも私たち夫婦と暮らすことを望んでるんだから」
こうして私の居場所は長姉家族に奪われることになったのです。
家庭内監獄
私が使っていたスペースは、姉とその息子の龍(3歳)に奪われました。数週間後には夫も引っ越してくるとなると、私は屋根裏部屋に移動しなければなりません。
この部屋は基本的に荷物置き場で、幼い頃悪いことをすると「反省するまでここにいなさい」と言われて閉じこめられた監獄のようなところです。
屋根裏に押しやられた私は、高橋家の家族である権利を剝奪されてしまったような気分でした。こんな屈辱的な思いをしたのは生まれて初めてだったかもしれません。
龍は腕白な男の子で、よくイタズラをしました。綺麗に張られていた障子はビリビリに破るし、大切な置物はひっくり返して壊す、スナック菓子の食べカスを家中にこぼしてトイレまで汚す始末……。全く躾のなっていない子どもです。
龍を見ていると、とても子どもを持つ気になどなりません。
腹が立つのは、忙しい朝、私のハンカチやタオルを龍が持って行っていることに気が付いた時です。
「お姉ちゃん、また私の洗濯物、龍に盗られた。もういい加減にしてよ」
「前の日に準備してないあんたが悪いんでしょ? 洗濯くらい自分でしなさいよ」
「私は研究があるの! 暇な主婦とは違うんだから!」
「何よ、ただの学生のくせに」
「ちょっと朝から止めなさい」
子どもの頃は喧嘩なんかしなかったのに、毎日のように姉と口論になり、母親が止めに入る始末です。

姉は東大卒の夫と結婚し、周囲のママ友も高学歴の女性が多いことから、学歴コンプレックスを抱くようになっていました。私が有名国立大学の大学院に通っていることにも、姉は密かに嫉妬しているようでした。
両親は、3人姉妹で頭がいいのは三女(私)、容姿がいいのは次女、性格がいいのは長女とよく言っていました。確かに、幼い頃の菊乃は穏やかで、私を可愛がってくれる優しい姉でした。それが今では人相まで変わってしまいました。実家を出てからの苦労が性格を変えてしまったのでしょう。
姉は結婚したばかりの頃は、しばらく夫とふたりで過ごすと話していたのですが、子どもが欲しいと思った時にはなかなかできず、不妊治療を経ての妊娠でした。不妊治療は姉にとって過酷な経験だったようです。
それでもこの家は私の唯一の居場所。そうそう簡単に姉に渡すわけにはいきません。姉はもうひとり子どもを作る予定のようだし、今でさえ騒がしい龍がどんどん成長していくと思うだけでゾッとします。もうひとり子どもが生まれたとしたら、私の居場所は完全に失われるでしょう。
いつまでも屋根裏に押しこめられているなんて、まっぴらです。私は、長姉家族を追い出す計画を立て始めました。
姉妹は他人の始まり?
「光一さん、久しぶり!」
数週間後、姉の夫が自宅に越してきました。光一は、私が大学院を受験する時、家庭教師として勉強を見てくれていました。
「葵ちゃん、龍が迷惑かけてるみたいでごめんね。今、論文追い込みなんだよね」
「そうなの。そう言ってくれるのは光一さんだけよ。わかってもらえて嬉しい!」
私は姉の前で、わざと光一の腕に絡みついてみせました。
「ちょっと葵、光一さん疲れてるんだから、荷物運ぶの手伝いなさいよ」
尖った物言いから、姉の嫉妬を感じました。
私はどっさりと段ボール箱に入れられた書物を、2階の光一の部屋まで運ぶことにしました。
そこは、姉が来るまで私が使っていた部屋でした。
「葵ちゃん、ごめんね……。僕たちのせいで狭い部屋に移ったんでしょ?」
光一はすぐに私の苦境を察してくれたのです。
「良かったら、ここに本置いていいよ」
「ありがとう。部屋が狭いので凄く助かります」
光一の配慮に、姉はすぐに反論しました。
「ちょっと葵、図々しいわね。ここは光一さんのプライベートな空間なんだから」
それでも光一は、
「葵ちゃんも一緒に使おうよ。お互い研究者なんだし」
姉は嫉妬心も剝き出しに、
「光一さん、何言ってるのよ。研究者だなんて、ただの腰掛院生でしょ」
実態は、姉の言う通りです。それでも光一の言葉には、同志という意味がこめられている気がして嬉しくなりました。私は姉よりずっと近い距離にいるのだと。
「ところで、論文の進み具合はどう?」
光一は棚に本をしまい込みながら、私の研究の話を始めました。
「それがね、煮詰まっちゃって……。光一さん、スランプの時はどうしてるの?」
「映画を見に行ったり、散歩したり、思い切って机から離れるのもいいかもよ」
「確かに、そうかも」
「これからは毎日一緒なんだから、いつでも相談に乗るよ」
「本当に! 嬉しい。凄く心強い!」
私は再び光一に甘えるように抱きつきました。
「葵も早く結婚しなさいよ。早く嫁に行って、ここから出ていって欲しいわ」
しばし除け者にされていた姉は、ついに苛立ちを爆発させました。
「菊乃、そんなこと言うなよ。ごめんね葵ちゃん、僕たちが押しかけているのに……」
優しい光一は、そう言って私を慰めました。
「押しかけてるわけじゃないでしょ。私たちはここに住む権利があるの。わかってるのかしら?」
長女の傲慢さに、私は内心腹が立っていました。戻ってくるつもりがないと一度は両親の面倒を私に押し付けたくせに、都合が悪くなれば戻ってきて私を追い出そうとする。
出ていくべきは姉とその息子です。これからは毎日、姉の知らない話題で光一と盛り上がってやろう。姉がどこまで耐えられるか見ものです。私の中に沸々と復讐心が燃え滾るのを感じていました。
「ちょっと、また喧嘩なの?」
下にいた母が、心配して様子を見に来ました。
「光一さん、ごめんなさいね。本当にふたりとも、いい年してみっともないんだから」
「お母さん、大丈夫ですよ。喧嘩するほど仲が良いっていいますからね」
それは違います。姉妹は他人の始まりっていいますよね。他人だったら、憎しみ合わなくて済んだかもしれません。でも姉妹だからこそ、存在をかけてとことん潰し合うのです。
母と一緒に姉が階段を下りていったことを確認すると、私は書斎の扉を閉め、光一の胸に飛び込みました。
「光一さん、今日から〈家族〉だね」
私の行動に光一は戸惑い、彼の心臓が高鳴っているのを感じました。
「家では家族のふりするから、また〈ふたり〉になろうね」
私たちには、既に秘密があったのです。

義兄との秘密
光一は、私の初恋の人でした。出会ったのは中学生の頃、菊乃の婚約者として紹介されました。私は中学校からずっと女子校で、男子との接点はありませんでした。
男子に興味のある子は男子校の学園祭に参加したり、積極的に出会いの場を作っていましたが、私はそこまで興味はありませんでした。姉妹3人が女子校という無菌状態で育ったからなのか、初めて近くで接した大人の男性に恋心を抱いてしまったのです。
東大卒の光一は、東大出の父に少し似ているかもしれません。父の家系もお金はありませんがエリートの家系なので、父が光一を気に入るのも理解できます。
「光一さんかっこいいね。私も大人になったら光一さんみたいな人と結婚する」
私は光一への憧れを隠しませんでした。
私と長女の菊乃は、年が離れているだけでとてもよく似ています。次女の百合だけは顔も性格も食べ物の好みも違うのですが、菊乃と私は昔から、まるで双子のようだと言われていました。菊乃が好きなものは、私もいつも好きになっていました。
食べ物でも、玩具でも、私はいつも菊乃の物を欲しがっていたのです。
「葵ちゃんにあげるよ」
最後に残ったお菓子も、大切にしていた人形も、いつも菊乃は笑顔で私に譲ってくれる優しい姉でした。それでも、光一という存在だけは譲れないでしょう。今の菊乃は、姉妹の中では見せることのなかった妻の顔になっていました。家族を持つということは、こういうことなのでしょうか。もはや彼女は姉ではなくなっていたのです。
大人になるにつれて、光一への想いは募るばかりでした。私は大学院受験を言い訳に光一に家庭教師を頼んでいました。姉も理解し、光一も快く引き受けてくれました。
大学は内部受験なので、わざわざ家庭教師を頼むまでもなく簡単に合格できました。私は光一と会うために大学院の受験を決意し、志望校の選択から受験勉強まですべて光一に面倒を見てもらいました。
その甲斐あって、私は難関と言われる国立大学の大学院に合格することができました。私は光一に大学卒業と大学院合格のお祝いをして欲しいとせがみました。
せっかくだから家族で、という光一に、私はたまにはふたりがいいと、自分たちだけで食事をする約束を取り付けました。
私はこの日、光一に想いを告げる覚悟を決めました。姉から夫を取り上げるつもりはありません。特別な関係を結ぶことができれば、それでいいと思いました。私にとって初めての男性は、光一でなければ嫌だったのです。
光一は拒まないだろうと考えていました。光一なら秘密を守ると。その自信がどこから湧いたのか今ではよくわからないのですが、案の定、光一は私を抱きました。戸惑っていましたが、ふたりの間に流れる空気に抗えなかったのです。
姉と同い年の光一には知識ではとても敵いませんが、人生経験は私とそれほど変わらない。光一にとって姉は初めての女性で、おそらく私が最後の女性になるのでしょう。
私たちのような狭い世間で生きる人間にとって、わかり合えるのは身内しかいないのです。当時、光一はなかなか妊娠できずに焦っている姉に悩まされていました。
「正直、菊乃との関係に疲れてる……。とにかく、妊娠しなければと必死なんだ。なんだか自分が子を産むための機械として扱われている気がして……」
姉が求めていたのは家族、私が求めていたのは光一。そして私は、光一の子どもを妊娠したのです。

「もうどうなったとしても、全部正直に家族に話すよ。すべて僕の責任だから」
妊娠を伝えた時の光一の表情は今でも忘れることができません。私はこの瞬間を本当に幸せだと感じました。同時に、この幸せは長くは続かないこともわかっていたのです。
「子どもに罪はない。3人で暮らそう。菊乃には申し訳ないけれど、すべて僕が責任を取る……」
私は、父親になるという光一の言葉を聞くことができただけで十分満足でした。そして光一の反対を押し切って、子どもを堕ろしました。私は子どもが欲しかったわけではなく、光一の心が欲しかったのです。
私が真っ直ぐに光一を愛することができたのは、この家での安定した暮らしがあったからです。当時の姉にはそれがなかった。だから光一はあの時、私を選んだのでしょう。
子どもと3人の貧しい暮らしなど、私に耐えられるはずがありません。のちに姉が実家に戻ってきたことによって、私の選択が正しかったことが証明されました。
私と光一は、水子の供養を最後に、ふたりきりで会うことはなくなりました。それから間もなく姉は妊娠し、龍が生まれたのです。
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“豊かさの裏側”を知りたい方は、幻冬舎新書『お金持ちはなぜ不幸になるのか』をお読みください。
お金持ちはなぜ不幸になるのか

裕福で、何不自由なく暮らしているはずなのに――なぜ“お金持ち”ほど深い闇を抱えてしまうのか。
そんな家族の実像を見つめた新書『お金持ちはなぜ不幸になるのか』が刊行されました。
お金が人を駄目にし、家族の歯車を狂わせる瞬間を描きながら「幸福とは何か」を根底から問い直す衝撃の一冊。
本書から、その核心に触れる一部をお届けします。











