秀吉の優れた才覚を示すものとして広く知られている「墨俣一夜城」。「昨日までなかった城ができていた」というエピソードの真偽についてあらためて考察!
歴史学者・呉座勇一さんが、一次史料と最新研究を駆使し、後世に作られた秀吉神話の数々を検証。
百姓から天下人へと上り詰めた秀吉の伝説の裏側と、豊臣一族の知られざる実像に迫る、『真説 豊臣兄弟とその一族』。本書より、一部を抜粋してお届けします。
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一般には、豊臣秀吉の出世の糸口は「墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)」にあるとされる。この逸話は、秀吉の優れた才覚を示すものとして広く知られている。しかし、現在の歴史学界では、この話は後世の創作であるとしてほぼ否定されている。

墨俣一夜城の逸話は、信長が斎藤氏の本拠である稲葉山城攻略のため、橋頭堡(きょうとうほ/渡河攻撃の際、渡河部隊がその後の作戦に必要な地歩を確立するため、対岸に確保する地域)として墨俣に城を築くことを家臣に諮ったところ、秀吉が名乗りを上げ、一夜で城を完成させたというものである。
むろん、秀吉が一夜で城を完成させたという話は、地理的条件や築城に要する時間からして現実的ではない。墨俣の地は低湿地帯であり、木曽川や長良川などの河川が近接しているため、築城には相当の時間と労力が必要だったと推測される。

墨俣一夜城の逸話が初めて版本に記されたのは江戸後期の『絵本太閤記』であるが、同書においても、そもそも秀吉は七日間で築城すると約束しており、材木の手配から堀や土台の工事まで含めれば、文字通り「一夜」にして城が出来たわけではない。しかし、敵方から見れば土しかなかった場所に、一夜にして城が出来たように見えた。そのため、『絵本太閤記』は、この墨俣城築城の逸話に「洲股砦成一夜(すのまたとりでいちやになる)」という小題と挿絵をつけ、秀吉の出世譚(たん)として読者に強く印象づけている。
ところが、『信長公記』のような一次史料では、秀吉による墨俣築城に関する記述を確認することはできない。歴史研究家の藤本正行氏によれば、信長が永禄四年(一五六一)に「洲俣」に城を築いたという記述が『信長公記』に見られるものの、これは信長自身が直接指揮したものであり、秀吉が主導したとは記されていない。
さらに藤本氏の検討を見ていこう。『信長公記』の永禄四年「洲俣」築城の記事を、小瀬甫庵は『甫庵信長記』で翌五年のことに改変し、これとは別に、永禄九年九月に信長が美濃のどこかに城を築き秀吉を城主にしたという話を加えた。この話に尾ひれがついて、墨俣一夜城伝説が生まれるのである。
藤本氏は、墨俣一夜城を『絵本太閤記』の創作と推定したが、その後の研究の進展により、初出は講釈師・白栄堂長衛(はくえいどうちょうえ)の実録(実際の事件を題材に虚実を交えた物語)である『太閤真顕記(たいこうしんけんき)』だと考えられている。佐久間信盛(さくまのぶもり)・柴田勝家(しばたかついえ)の二重臣が築城に失敗した後に秀吉が名乗りを上げるという周知の流れは、『太閤真顕記』において既に見える。

安永期に作られたとされる『太閤真顕記』は写本の形で流通し、これを大ベストセラー『絵本太閤記』が採り入れたことで、従来は単なる城主にすぎなかった秀吉は墨俣の築城者として世間で広く認識されていく。ただし、『絵本太閤記』では築城時期は、なお永禄五年夏ということになっていた。
ところが歴史学者の渡辺世祐氏が明治四十年(一九〇七)に著した『安土桃山時代史』で永禄五年墨俣築城説を否定し、永禄九年九月に秀吉が墨俣に城を築いたと結論づけた。永禄九年九月に秀吉が単独で墨俣に築城したという私たちが良く知る伝説は、実に明治四十年に完成したと藤本氏は説く。
したがって、秀吉による墨俣築城が美濃攻略の決定打になったという歴史的事実は存在しない。秀吉の驚異的なスピード出世の背景に、超人的な活躍を想定する「秀吉神話」の一つにすぎないのである。
真説 豊臣兄弟とその一族

通説を打破!
たった二代で滅びた栄華と衰退の真相
農民から大出世を遂げた天下人として知られる豊臣秀吉。しかし、彼とその一族の実像は、驚くほど謎に満ちている。
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