脳腫瘍の後遺症に苦しむ中、引退試合で見せた「奇跡のバックホーム」。伝説のプレーから4年後、横田慎太郎さんは28歳でこの世を去った。人々に愛され希望となった青年の生涯を、母親の目線で描いた、感涙のノンフィクションストーリー『栄光のバックホーム』。
横田さんの自伝『奇跡のバックホーム』と『栄光のバックホーム』を原作とした、映画『栄光のバックホーム』が、2025年11月28日に全国で公開。
映画の公開に合わせて、『栄光のバックホーム』の試し読みを全6回でお届けします。
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翌年の1月から球団の寮に入り、練習に合流することが決まっていたので、その年の暮れに家族で集まってお祝いをしました。
「2位か……負けたなぁ……」
真之は相変わらずドラフトの順位が自分より上だったことを一人で悔しがっています。もういい加減に親子競争はいいですから、と呆れていると、真子が言いました。
「阪神って、ファンの人が凄いよね」
そう、数多くある球団の中で最も“アツい”応援団のいるのが阪神タイガースです。彼らは練習やキャンプにも熱心に通い、試合に負ければ散々にこき下ろす代わりに、勝てばお祭り騒ぎで、スタンドを地鳴りのような大歓声で埋め尽くします。みんなで大合唱する応援歌『六甲おろし』はあまりにも有名です。
「慎太郎にもファンできるのかな。サイン考えないとダメだね。慎太郎、字汚いから練習したほうがいいよ」
真子は面白がって慎太郎をいじります。この姉は幼少の頃から弟をからかうのが大好きでした。坊主頭を撫でまわしては「やめろよ!」と一蹴されるというやり取りを延々と繰り返し、まったく飽きない様子でした。
「関西には親戚もいないし……これまでまったく縁がなかったのに不思議なもんだよねえ」
私がそう漏らしますと、慎太郎は真顔で言いました。
「甲子園だよ」
「え?」
「縁も何も、甲子園だよ、阪神は」
「そうだね」
「そうだねじゃないでしょ。それが凄いでしょ」
「何が?」
慎太郎は私の受け答えに少々イラッとして、
「甲子園行けなかったけど、あそこで野球できるんだよ、俺!」
と大きな声で言いました。真之も真子も箸を止めて慎太郎を見ました。
「俺は、それが一番嬉しい」
……ああ、そうか。
私は今さらながらに気づきました。
阪神球団の本拠地は甲子園球場。
憧れて憧れて、届かなかった、あの聖地。大会への出場は叶わなかったけれど、たしかにあの場所で、聖地でプレーすることが叶うのだ。そう思うと、“縁”という一言ではとても片付けられない、慎太郎が執念で手繰り寄せた運命のような気がしました。
「たしかに。甲子園には俺も行けなかったが、あそこは特別だもんな。お前は行けるんだな」
真之も嚙みしめるように頷きました。
もちろん、阪神球団に入ったからといってすぐに甲子園での試合に出られるわけではありません。チーム内でさらなる競争を勝ち上がって一軍の選手に選ばれなければいけないのです。しかしこの時の慎太郎にはそれがいかに熾烈な争いか、よく分かってはいませんでした。中学、高校と四番を任され、当然のようにチームの先頭に立ち続けていましたし、ドラフトも甲子園出場者に負けないくらいの2位指名です。
「俺なら絶対にやれる」
そんな自信に満ちていたのかもしれません。
その日の夜、真之は慎太郎を部屋に呼び、自分が現役時代に使っていたバットを息子に手渡しました。
「俺の夢の続き、託すぞ」
父のバットを受け取った時、慎太郎はわずかに手が震えていたと言います。父が志半ばで引退した試合を、哺乳瓶をくわえながら見た日から18年。託された“夢の続き”の重みを感じたのでしょうか。
2014年、新春。
慎太郎は父のバット一本を携え、兵庫県西宮市鳴尾浜にある阪神球団の選手寮、虎風荘に入りました。寮は二軍チームの拠点である鳴尾浜球場に隣接しており、慎太郎の部屋からもグラウンドが見渡せたそうです。
その年、高卒の新入りは慎太郎一人だったそうで、先輩方から大変可愛がっていただいたようです。鹿児島で野球しかやってこなかった“野球バカ”に加え、父親譲りの天然ボケなところもあり、それが先輩たちにとってはツボだったのかもしれません。
特に、1年先輩の北條史也選手は寮生活でのイロハを教えてくださり、息子が最も親しみを持って接した先輩だったと聞いています。寮のスタッフの皆さんも明るく優しく、球団の雰囲気全体がそうなのか、“情にもろい熱血漢”で、野球一辺倒の世間知らずな息子のことを何かと気にかけてくださったそうです。本当に恵まれた、楽しい寮生活だったと思います。
その証拠に──
高校の時には携帯電話が禁止されていたこともあり、連絡はほとんどなかったのですが、虎風荘に入ってからは、たびたび、ちょくちょく、いや、しょっちゅう、連絡が入りました。
『お母さん! 北條先輩が俺の部屋の前でわざわざ泥落としてから自分の部屋に行くんだけど! ちゃんと先輩の部屋の前にもマットあるのに。なんで自分の部屋で落とさないんですかって言ったら、俺の部屋散らかってんねんって。なに、それ!? また掃除しないと……』
『お母さん! なんか先輩たちが俺の部屋来て、俺のベッドの上でお菓子食って散らかして帰る! なんで俺の部屋で食べるんですかって聞いたら、ヨコの部屋で食うたら美味いねんって。お菓子たくさんくれたけど。また掃除しないと……』
『お母さん! 見て!(写メ添付)食堂の朝ごはん、取り放題なんだよ。ビュッフェってやつ。凄い感動した。ご飯もあって、パンもあって、おかずもたくさんある。どれも全部美味しい』
『お母さん! 関西弁って凄く速くて、何言ってるか分からない時ある。だいぶ慣れてきたけど。今日、練習でコーチに凄い怒鳴られたから、すいません! って謝ったら「怒っとんちゃうわ、ボケ!」って言われたんだけど、やっぱり怒ってるよね?』
『お母さん! これ、寮の牛丼(写メ添付)。食堂のご飯、とにかく美味しい。全部ご馳走』
2014年8月3日。
ファームのウエスタン・リーグ、オリックス戦にて、背番号24を背負った慎太郎は、プロ初のホームランを満塁弾で飾りました。翌日のスポーツ紙には『凄いぞルーキー!』の見出しと共に慎太郎の全身写真がドンと掲載されました。こうして本当に、慎太郎はプロ野球選手としての人生を、大きな歓声と共に歩き始めたのです。
2015年3月。
ついに甲子園球場で行われる一軍でのオープン戦に慎太郎は出場できることになりました。少し前に出場したソフトバンク戦で初打点を記録していましたから、一軍定着を目指して意気揚々と試合に向かったと思います。
私は自宅のテレビで試合中継を見ておりました。慎太郎が夢見た甲子園。そのグラウンドでのプレー。しかしその日は出場したものの良い結果が残せず、存在をアピールすることができませんでした。でも、私は彼が甲子園に立てた、というだけで遠く離れた鹿児島からでも感動で涙ぐみました。
びっくりしたのはその後です。いきなり慎太郎から電話がかかってきました。
『あれ、今日いないの?』
「いないって、どこに?」
『甲子園』
「は?」
慎太郎は私が甲子園のスタンドに来ていると思い込んでいたようなのです。いなかったと知ると、
『甲子園なのに……』
とぼやきます。「だったら事前に誘ってちょうだいよ。まったく連絡くれなかったじゃない」とこちらも言い返しますと、なんだか不機嫌になって電話を切ってしまいました。
見に来てほしかったのか……。
電話を切った後、なんだかおかしくなり一人で笑いました。そうか、見に来てほしかったのか。なんだ、可愛いところがあるじゃないの。
まもなく20歳。
球団での生活にも慣れ、ずいぶん体も大きくなり、いっぱしの野球選手になったと思っていたけど、まだまだ子どもの部分もあるのね。よし、次に甲子園で出場する時には関西まで行ってやろう。甲子園の土を踏む瞬間を、ちゃんと間近で見届けてやろう。そう思いました。
しかし、その年はそれっきりで、慎太郎は活躍できないまま、あっという間に二軍に落ちてしまいました。そのまま一軍に上がれることはなく、甲子園で試合することもできないままでしたが、私はあまり焦っておりませんでした。まだまだプロ2年目。勝負はこれからだと思っていたのです。
2016年になり、金本知憲監督に期待された慎太郎は一軍キャンプに呼ばれました。練習試合とオープン戦で華々しい活躍を見せ始めたのです。ホームランバッターとして期待を寄せられ、持ち前のがむしゃらプレーで、“バントしない二番”と呼ばれ、長打を狙っていきました。
守備や盗塁においても、ファンから“野生児”と言われるほど、泥臭いプレーで存在感を示し、金本監督をして他の選手たちに「横田くらいの執念を見せろ」と言わしめるほど、ゲームに食らいついていくようになります。プロ3年目で、結果を出すなら今年だという強い意識があったのだと思います。
同時に、“期待の若虎”を応援するファンの人たちもグンと増えたことに気づきました。この頃の慎太郎は、プロ野球選手としてファンの方に応援していただける快感に加え、一軍でプレーを続けるための闘志と、みんなを喜ばせたいというやる気に燃えていたように思います。2月の練習試合でソロホームランを放ち、スタンドからは『六甲おろし』の大合唱が響きました。阪神ファンの中に「横田慎太郎」は、強い存在感を放ち始めていました。
オープン戦が始まると、今度こそ私も甲子園のスタンドに参りましたが、背番号24のユニフォームを着たファンがとても多いことに驚きを隠せませんでした。その中には若い女性もたくさんいて、母としてはなんだか気恥ずかしく、そう思いつつも、自分も売店に直行して24番のユニフォームを手に取り、一緒にいた真子に苦笑いされてしまうのでした。
試合後に慎太郎と合流し、西宮で食事をすることも何度かありました。慎太郎は無口に見られがちですが、私や真子の前ではよく喋っていたと思います。試合で活躍できた後などは興奮しているのか、その日の試合やベンチでの出来事をよく話しました。
それに加え、純粋でロマンチストな一面も持っていました。
ある夜、真子と3人で食事していた時のことです。
「明日、プレゼント何がいい?」
ふいに慎太郎が真子に聞きました。明日は、真子の誕生日です。
「プレゼントか……」
娘はリアリストで現金主義。普段から弟に「打てるうちに打って、稼ぐだけ稼いでね」と忠告するくらいですから、この時も真剣に考えたに違いありません。
「時計」
パッと笑顔になって真子は言いました。
「腕時計。可愛くて機能的なやつ。仕事で着けられるような」
目を輝かせて見つめる姉に対し、慎太郎は黙ってじーっとその顔を見ています。あまりにも無言で見つめられるので真子は怪訝な顔をして首をかしげました。
「え、時計じゃだめ?」
「俺、プロ野球選手だよ?」
「うん」
「こういう場合はさ、もっと」
「何?」
「もっと、こう……」
「何よ」
慎太郎は痺れを切らしたように溜息をついて、
「ホームランでいい?」
「え?」
「ホームランでいいよね」
と一人で念押しして納得すると、さっさとごはんを口に運びました。
「え、何それ?」
真子は腑に落ちない様子でしたが、慎太郎は何も答えずそのまま食事を終えました。
まさかホームランをプレゼントする、などというキザなことを考えていたなんて……と思いましたが、プロの試合でそんなこと、簡単にできるわけはありません。
しかし翌日の試合。
慎太郎はあっさりと、本当に、ホームランを打ったのです。
これには真子もびっくりしてすぐに弟に電話しました。
「ごめん……。時計とか言っちゃって……」
(しばらくして、慎太郎は私の誕生日にもまったく同じ質問をしてきましたので、私は迷わず「ホームラン!」と答えてやりました)
その年の3月25日。
京セラドームでシーズンが開幕した時、ついに慎太郎はスタメンに選ばれました。開幕戦ですから、真之も一緒にスタンドに行きましたが、スタメンであることが分かったのは直前でした。
「二番センター、横田慎太郎!」
満員のスタジアムに慎太郎の名前がコールされます。息子がグラウンドに飛び出してくると大歓声が上がりました。
「慎太郎ー!」
私も夢中になって叫びました。やはりシーズンが開幕すると、オープン戦や練習試合とは、まったく空気が違っていました。真剣勝負であるのはもちろんのこと、それを演じる一人一人の選手の活躍も大きくクローズアップされるとあって気迫も桁違いです。数多くのスター選手が競演を繰り広げる中で、慎太郎も確実にその一人にのし上がろうとしていました。
しかし、立ちはだかるプロの壁は予想以上に分厚かったのです。
「ゴロ製造機だね」
試合終了後、打席に入っては内野ゴロばかりで不発の慎太郎に、真子はそんな意地悪を言いました。本当のことなので何も言い返せない慎太郎はムッとしたまま、
「これから、これから」
と、私の口癖を真似て言いました。
「お母さん、今、頭痛薬持ってない?」
この時、何気なく慎太郎からそう聞かれたのを、今になって思い出します。
「どうしたの、風邪?」
「ううん、風邪じゃないけど、頭が痛い」
「どうして?」
「分からない」
それまで、熱もないのに頭が痛くなることなど慎太郎にはなかったので、少し引っかかりました。が、その時は私の片頭痛用の市販薬を手渡してやり、その会話のことは忘れてしまいました。
どうして、あの時に気づいてやれなかったんだろう。
今でも、後悔する時があります。
もしあの時点で検査していたら、もっと早く発見できて、もっと良い手を打てたかもしれない。あんなに苦しまずに済んだかもしれない。少なくとも、もう少し野球を続けられたかもしれない。考えまいとしても、無数の後悔は音もなく思い出を悔いの色に染めてしまいます。でも、今となっては、すべてが運命だったのだと思うしかないのです。
「二番センター、横田慎太郎!」
スタジアムでコールされた瞬間の輝かしい栄光と同じく、悪夢のようなこの先の旅路も、息子の人生の一部であることを受け入れるしか、救われる方法はありません。
『栄光のバックホーム』(試し読み)

2025年11月28日に映画『栄光のバックホーム』が、全国上映します。
その原作の試し読みをお届けします!











