脳腫瘍の後遺症に苦しむ中、引退試合で見せた「奇跡のバックホーム」。伝説のプレーから4年後、横田慎太郎さんは28歳でこの世を去った。人々に愛され希望となった青年の生涯を、母親の目線で描いた、感涙のノンフィクションストーリー『栄光のバックホーム』。
横田さんの自伝『奇跡のバックホーム』と『栄光のバックホーム』を原作とした、映画『栄光のバックホーム』が、2025年11月28日に全国で公開。
映画の公開に合わせて、『栄光のバックホーム』の試し読みを全6回でお届けします。
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第一章 夢のグラウンド
慎太郎を身籠った時、大きな不安に駆られたのをよく覚えています。
「この子を、私が育てることができるだろうか……。本当に、大丈夫だろうか」
お腹にいる時から直感で男の子だ、と分かっていましたので、その不安もあったのかもしれません。ですが、それ以上に、この子と私の未来が、なんだか分からないモヤモヤとした霧に包まれるような感覚に囚われて、長いこと悩んでいた気がします。夫はそんな私を見て「何を言っとるんだ」と笑っていましたが、他の人には分からない漠然とした不安がつきまとっていたのは事実です。
この時、すでに将来の慎太郎との二人三脚の戦いを予感していたのかもしれませんが、その頃の私には知る由もありませんでした。
夫の真之は、元プロ野球選手です。結婚当初はロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)でプレーしていました。大学からドラフト4位で入団し、最初のうちは頭角を現していましたが、相次ぐ怪我の影響もあり、徐々に成績を伸ばせなくなっていき、長男である慎太郎が生まれた1995年に現役を引退しました。
結婚の馴れ初めは、別にお話ししなくてもよろしいような気もしますが、少々滑稽なのでお聞きください。
私の友人にミス鹿児島に選ばれた美人がおりまして、彼女がロッテの選手と結婚式を挙げたその披露宴の席で、真之と同じテーブルになったのが出会いです。それだけでしたらお付き合いにまで発展しなかったのでしょうが、なんの余興だったのか、新郎新婦ではない出席者がキャンドルサービスをすることになり、たまたまクジを引いたのが私と真之でした。
余興とはいえ結婚前の、しかも初対面の二人がいきなり新郎新婦を差し置いて、一緒に会場のキャンドルに火を灯して回ったわけです。今では、なぜあのような事態になったのか、あまり覚えてはいませんが、それが縁で真之とたびたび会うようになりました。
その頃、私は鹿児島の日置市で銀行に勤めておりました。真之は優しくて実直な人だな、というのが第一の印象で、野球選手の妻になるというプレッシャーもなく、すんなりとプロポーズを受け入れました。
ところが、結婚してすぐに後悔がとぐろを巻き始めました。のんびりした鹿児島から、いきなり大都会、東京の品川区に暮らし始めたというカルチャーショックに加え、真之は試合、遠征、練習、キャンプと各地を飛び回り、ほとんど家にはいません。友人も家族もいない独りぼっちの東京で、夫の帰りを待つばかりの孤独な日々がいかに心を蝕むか、共感いただける方も多いのではないでしょうか。
「やっぱり今からでも鹿児島に帰って、地元の人と再婚しようかしら」
本気でそんなことを考え、寝室には常に実家に帰るためのボストンバッグを用意しておいたくらいです。やがて真之が立て続けに2度も大きな怪我をして出場機会を失い、どうも住まいが良くないのではないか、と思い始めました。私の憂鬱も、真之の怪我も、子どもに恵まれないのも、すべて住んでいたマンションのせいではないのか、と。毎日鬱々と暮らしているうちに、部屋で心霊現象まで見るようになる始末です。
ついにたまりかねた私は、
「引っ越すか離婚するか、どっちかにして!」
と、真之に迫りました(ちなみに、そのマンションは本当に事故物件で、これにまつわる話もいろいろとありますが、それはまた今度の機会に)。
そのようなわけで、私たちは江戸川区のマンションに引っ越しました。窓からは東京ディズニーランドのシンデレラ城の先っぽが見え、日当たりの良い部屋でした。偶然にも引っ越してすぐ、長女の真子を妊娠したのです。
子どもの誕生はとても嬉しく、子育てもいそいそと楽しんでいました。真子は少々お転婆なところがありましたが、やっと迎えた我が子でしたから、はりきっておりました。
真之はというと、もう娘に溺愛まっしぐらです。子どものために頑張らねば、と奮起しておりましたが、気持ちに反して試合出場は減少の一途を辿り、さすがに私も先行きを案じ始めていました。そしてこの年、不完全燃焼な思いを抱えたまま、トレードで中日ドラゴンズに移籍したのです。
私は、真之の頑固で不器用なところも決して欠点だと思ってはおりません。成績が残せなくとも、チャンスさえ来れば巻き返せると信じてきました。しかしこの頃になると年齢も30歳を過ぎ、若手が次々と入団する中で、あと一花を咲かせるにはかなり厳しい状況にあることは認めざるを得ませんでした。もちろん、本人が一番分かっていたことでしょう。
しかし現役である限りは最後まで前を向いて進まねばなりません。ですから私は真之の代わりに、密かに次のステージへの準備を進めることにしました。いつでも彼が「野球を辞める」と言い出せるように……。
翌年の1994年になると、一軍での公式戦出場がいよいよ途絶えました。シーズンを通して、一度も一軍の試合に出られなかった年は、プロ入り以来初めてのことだったと思います。そしてその年の秋、真之はついに戦力外通告を受けました。
通告を受けた日、真之は部屋に帰ってくると、居間にどっしりと腰を下ろしたまま、しばらく動こうとしませんでした。私は1歳になった真子をあやしながら、只事ではないことが起きたのを感じておりました。沈黙の後、真之は口を開き、
「また移籍するかもしれない」
と、呟くように言いました。
「そうですか」
わざとなんでもないような答え方をして、それきり何も聞きませんでした。すぐに真子が泣き始めたので彼女を抱いて寝室に入り、しばらく居間には戻りませんでした。
強くならねば。
通告を受けたからといって、野球を辞めたからといって、人生は終わらない。むしろ、それからのほうが長い。自分に言い聞かせました。
「これから、これから」
その頃のことです。
何か予感がして、産婦人科を受診しました。
「おめでとうございます。2か月です」
担当医がにっこりと笑って告げてくださいました。私は二人目を妊娠していたのです。今度はきっと男の子だ。なぜだか強くそう思いました。
真之に電話で報告しますと、躍り上がるような明るい声で「そうか!」と返ってきて、心底嬉しく、安心しました。夫は、その知らせに活力を得たのか、もう一度グラウンドへ向かう気持ちが湧いてきたようでした。その年、西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)へと移籍しました。
そして1995年6月9日。
長男、慎太郎が誕生しました。
生まれてみると、妊娠の時の不安は一瞬でかき消され、愛情一辺倒になりました。娘の時とはまた違い、息子の体を抱くと、特別な重みを感じました。この子はいったいどのような人生を歩いていくのだろう。
野球をやるだろうか、それとも……?
期待と希望に胸を膨らませながら我が子の手を触りますと、慎太郎は小さな瞳を一生懸命に開いて、私の指を握り返してきました。
2児の母となった私の生活は、最高潮に目まぐるしくなりました。
真子は活発な性格で、家の中よりも外で走り回るのが好きで、特にボール遊びを好みました。慎太郎が最初にボールに興味を示したのも真子の影響です。やがて慎太郎は、真之の買い与えたおもちゃのバットを手にすると、それを離さなくなりました。姉と弟は共によく遊び、よく喧嘩しました。
慎太郎が生まれた夏。
真之は引退を決意しました。いえ、正確に言えば、本人が決意したというより解雇を言い渡されたのです。プロ野球選手というのは(残酷なものですが)、体力的、技術的に戦力外となった以上、チームへの貢献は望めません。遅かれ早かれ、その日はやってくるのです。
真之から電話がかかってきたのは夕方のことでした。珍しく試合前でしたので急用かと思い慌てて受話器を取りますと、夫は一言、
「クビになったよ」
前年の戦力外通告の時の落ち込みようとは違い、どこか開き直ったような、あっけらかんとした声でしたが、受話器の向こうの顔が泣いているような気がして胸が詰まりました。
「まあ、いいんじゃない?」
自分でも意外なほど明るい声でした。夫は、私が泣くか、それとも怒るかと、身構えていたのでしょう。拍子抜けしたように笑いました。
「まあ、いいか?」
「いいわよ」
私も笑いました。二人で、笑い合いました。
不思議なもので、笑ってしまえば、何事も大したことではないと思え、事実、大したことではなくなる気がします。その日、私たちは何か張りつめた糸が切れたように、思いっきり笑いました。
数日後、真之の最後の試合を見るために、真子と慎太郎を連れて西武球場へと向かいました。それまでは彼が一軍でプレーしている時ですら、スタンドで応援したことはほとんどありませんでした。子育てに追われて時間と余裕がなかったのです。
しかし最後ですから、今日だけは見ておかなければ後悔する、と思いました。真子にも慎太郎にも、父親が野球選手であったことを覚えておいてほしい。特に慎太郎には、父の生きたプロ野球の風を感じてほしかった。野球選手を目指すかどうかなど、まだ哺乳瓶をくわえている彼に分かるはずもないのに。
慎太郎は生後3か月で、真子はやっと2歳。
幼い二人を抱えて電車を乗り継いで行くのは大変な労力がいりました。慎太郎を胸に抱き、真子の小さな手を引いて電車に乗り込もうとした時、真子の足が電車とホームの間にずり落ちてしまったのを覚えています(あの時代は、電車とホームの間隔がかなり空いていることも多かったのです)。あっと思った次の瞬間に、繫いでいた手を引き上げ、車両内に乗せました。瞬時の出来事でしたが、必死でしたので冷や汗をかく暇もありませんでした。なんとか球場に着き、スタンドで腰を下ろした時に、どっと汗が噴き出しました。
試合が始まってからは、ゲーム展開より場内アナウンスの声にばかり気が向いていました。いつ「横田」の名前がコールされるか、その瞬間を逃したくなかったのです。そのシーズン中も、ベンチ入りはするものの、試合で起用されることはほとんどありませんでした。でも、今日だけは最後ですから、どこか一場面でも出場できるのではないか、と期待しておりました。
しかし出場のコールを聞くことはありませんでした。真之は最後の試合、まったくグラウンドに上がることなく引退したのです。試合が終了した時には力が抜け、思わず夜空を見上げてしまいました。
「最後の最後まで、出れなかったか……」
幼い二人は何も知らずに遊んでいます。
「ここから、ここから」
呟いて私は、慎太郎を抱いたまま立ち上がり、真子の手を取って人込みをかき分け、急いで帰宅の途につきました。
家に帰ると、出かける前に仕込んでおいた食事をテーブルに広げ、瓶ビールを何本も並べて待ちました。真之は送別会や引退式があるわけでもなく、いつも通りの時間に電車で帰ってきたので、居間に入ってくると目を丸くして驚きました。
「凄いご馳走だな!」
「はい。お疲れさまでした!」
私は威勢良くビールの栓を抜き、グラスになみなみと注ぎました。もちろん、自分のグラスにも。
「たくさん飲んでくださいね。私もたくさん飲みますね」
「ビール、買ったのか」
「はい、1ダース」
「1ダースも?」
「もう練習しなくていいわけですから、たくさん飲みましょう」
そんな調子でビールで乾杯をして、互いに一気に飲み干しました。決して無理をして明るく振る舞っていたわけではありません。その時の私は、本当に心から活力に溢れていたのです。
さあ、ここから、ここから。
口癖のように繰り返し言ったその通りに、ここからまったく新しい私たちの人生が始まる気がして、どこかワクワクした心持ちになっていたのです。
引退した真之への私からのプレゼントは、1年間の休養でした。
個人差はあるものの、スポーツ選手が引退後に、第二の道を見つけるのには時間がかかると言われます。真之は幼い頃から野球しかやってこなかった根っからの野球人ですから、野球以外の道で生計を立てていくための新しいスキルを身につけねばなりません。
ですから私は、彼が1年間休んでも差し支えないだけの貯金額を用意しておりました。せめて1年くらいは、厳しかったプロ野球生活から解放されて、思う存分羽を伸ばして、英気を養ってから次のステージに進んでもらおうと思ったのです。この休養期間中、夫は子どもの面倒を大変よく見てくれて、真子も慎太郎も伸び伸びと育っていきました。
慎太郎はおとなしく、夜泣きもあまりせず、眠っている時も「スー、スー」と静かに寝息を立てるような、おっとりした子どもでした。しかし、ひとたびバットを持つと人が変わったように活発になり、立てるようになると真子の投げるボールを本気で打ち返す遊びを始めました。やがて真子が弟と遊ぶのに飽きると、私に投げてくれとせがみ、柔らかい布やゴムのボールを小さなバットでせっせと打ち返すことに精を出し、他の遊びにはあまり興味を示しませんでした。
小学校に上がると、この遊びで使うバットは少し長いものに持ち替えられ、私もゴムボールではなく新聞紙を丸めてガムテープでぐるぐる巻きにした硬いボールで応じました。慎太郎が小学校3年生でソフトボールチームに入ると、いよいよ本格的なバッティング練習になり、ボールの数も20個、30個……と増えていき、私の投球への注文もどんどん細かく厳しくなっていきました。
「次は外に投げて」
「次は内角に」
「ちゃんとストライクゾーン狙ってよ」
「もっと速く投げれない?」
「いちいちうるさいな!」と叫びながら、私も妙に対抗意識を燃やして投球の腕を磨いておりました。ついには新聞紙ボールは50個を超え、押し入れからボールが溢れ出て、家のそこら中に転がり始めました。真子に蹴っ飛ばされたり、真之にゴミと間違えられて捨てられたりを繰り返しながら、この練習は中学卒業まで続きました。時にはエキサイトしたバッティングで、ガシャーン! と爽快な音を立ててサイドボードのガラスや電球が割れることもあり……。
「プロ野球の選手になれたら、もっといいので弁償して」
「分かった」
そんな日々を繰り返し、いよいよ練習にも熱が入るのでした。
私たち一家は、慎太郎が3歳になる頃、東京を離れて私の故郷、鹿児島の日置市に転居していました。
真之は、宅配のアルバイトに転職した後、飲食業に挑戦しました。焼肉屋の修業を経て調理師免許を取り、移住してすぐに小さな店を構え、郷土料理を振る舞う料理屋を営み始めました。
東京で磨いた腕を存分にふるい、4年ほど続けたのですが、徐々に経営が厳しくなり、閉店。その後どのような仕事をするか二人でいろいろと探したのですが、真之を現役時代から応援してくださっていた方の斡旋で無事、電気メーカーでの職に就くことができました。
同時にその頃、日本プロ野球OBクラブから2001年に発足したプロ野球マスターズリーグのチームに誘われ、福岡ドンタクズに入団。ふたたびグラウンドで野球ができる機会に恵まれました。
その頃、慎太郎は6歳で、すでに「野球選手になりたい」と口にしていました。真之が出場する福岡ドームでの試合に連れていきますと、着いたとたんに少しでもバッターの近くで見たいと思ったのか、一人でバックネット裏までトコトコと歩いていき、かじりつくように選手たちを見つめていました。プロ野球選手時代の父親のプレーを一度も見たことがなかったので、野球をする姿を見せられたのは嬉しかったのですが、私の嬉しさ以上に、野球に対する慎太郎の情熱のほうが並大抵のものではないことがひしひしと伝わってきました。
真之は、ふたたびグラウンドでバットを振ることが待ち遠しくて堪らなかった様子で、試合が決まると、久しぶりに家でもバットやグローブの手入れを念入りに行っていました。その様子を傍らで見ている息子の目は、まさに真剣そのものでした。おもちゃのバットとは違う、本物のプロ野球選手が使う木製のバット。年季が入って重みがあり、6歳の子どもからすれば迫力に満ちていたことでしょう。
真之は自分の道具を、慎太郎に触らせることは一切ありませんでした。野球選手にとって道具は命と同じほど大切なもの。たとえ現役を終えても生涯変わらないプライドなのかもしれません。
慎太郎も「いつか自分の野球道具を手にしてみたい」と憧れたことでしょう。初めてグローブを買い与えた時は、宝物であるかのように目を煌めかせて受け取り、それはそれは丁寧に磨いていました。父親の見よう見まねで、クリームを塗り、指を入れて何度も折り曲げて自分の手に馴染ませていました。いつでも枕元にグローブがあり、寝る直前まで飽きることなくパンパンと鳴らして世話をしていました。
慎太郎は誰よりも「目標を達成する」ことに、執着とも言えるほどの情熱を燃やせる子どもでした。父親の背中を追いかけて、プロ野球選手になる、という夢を掲げることは自然な成り行きだったと思います。ですが、息子はそれを漠然とした〝夢〟ではなく、より具体的な〝目標〟という形に、かなり早い段階から切り替えることができました。
目標を達成するにはどうしたらいいのかを、まるでゲームのように頭の中で組み立て始めたのです。ほんの小さな目標でも、それを〝今日の目標〟として掲げ、達成すれば喜んで、次の日には別の目標を立てます。そうやって一日一日、昨日より今日、今日より明日、より強く、上手くなるための努力を続けました。
その一日一日の目標の立て方が実に堅実で、自分がクリアできるギリギリのものしか設定しません。一日のうちで成し遂げられそうにないことは最初から設定せず、必ずできることを設定する。なぜなら、「できた」という満足感と達成感が、次の日も着実に歩める活力を与えてくれるから、と言うのです。
最初に申し上げておきますが、両親二人は、このようなことを彼に教えた覚えはないのです。どちらかというと真之も私もマイペース派。真子に至っては私たちよりさらに感覚的に物事を決める子どもで、自分で立てた目標でも、気が変われば簡単に覆し、さらりと方向転換します。決めたことをやり通す慎太郎とはまったくの逆でした。
そんなわけで、慎太郎は家族の中で異色の存在。いったい誰に似たかといえば、私の父の母、慎太郎からすればひいばあちゃんだと思います。明治生まれの女性には珍しく、彼女の身長はなんと180センチ! 今でも高身長と言われる数字ですから、当時は間違いなく巨人です。着物も草履も特注。性格は大の綺麗好き、というより潔癖性で、毎日家じゅうを隅から隅まで掃除していたそうです。高身長、そして潔癖性に至るまで、まさに慎太郎はこのひいばあちゃんの血を受け継いでいたのでした。
朝陽がようやく山々を照らし、辺りを薄水色に染める頃。
家じゅうに甲子園のサイレンが鳴り響きます。
時刻は5時。続けて、入場行進のような勇ましい音楽が大音量で流れてくると、ドン、バタ、という音と共に2階の慎太郎の部屋で筋トレが始まったことが分かります。
「ちょっと、いい加減にしてほしいんだけど……」
台所で真子が牛乳を飲みながら慎太郎の愚痴を言い、私は聞き流しつつ朝ごはんの支度を始める。それが家族の毎朝の日常の光景となっておりました。
2009年の初夏。
結婚して20年以上の時が流れていました。
真子は高校1年生。慎太郎は中学2年生。
真子は小学校から続けていたバレーボールを中学高校でも継続し、身長は160センチを超えておりました。子どもの頃から運動神経が良く、何かと動き回って体中に怪我をしてくるようなやんちゃな性格で手を焼いていましたが、バレーボールにのめり込んでからは一層彼女の精悍さが際立ってきたように思え、プレーしている姿は、母親としても眩しい瞬間がありました。
そんな真子でも敵わないほど誰よりも激しくアスリート街道を突き進んでいたのが弟の慎太郎です。中学では軟式野球部に入部。早いうちからレギュラー入りし、左投げ左打ちの二刀流で頭角を現して、エースと四番を任されるようになっていました。
5時からの筋トレを終え、時刻は5時30分。
タッタッタと軽快な足音を鳴らして台所に下りてきたかと思うと私を見るなり、
「ランニング行ってくる。6時に帰るから。朝ごはん、その時までに作っておいて」
そう言い残し、玄関に向かいました。
「サイレンの目覚ましはやめない?」
と、憎々しげな真子の文句は無視して、運動靴を履くと戸を開けて出ていきます。鍋を出して味噌汁をつくり、いつもの朝ごはんを準備します。4人分の弁当作りも同時進行です。家族みんなの食べる量がすさまじく、弁当と合わせて5合炊きの炊飯器を1日に3回以上稼働させなければ間に合いません。
「ただいまー」
6時ぴったり。汗ばんだ慎太郎が帰宅します。そのまま台所へやってくると、ポケットに入れていた紙屑をポロポロとゴミ箱に捨てました。
「何、それ?」
「拾った」
「ゴミ?」
「うん、ゴミ」
「なんでゴミ拾ったの?」
「なんとなく」
そう言うと慎太郎は自室へ駆け上がっていきました。毎朝、彼はこうしてランニング途中で道に落ちているゴミを拾っているようでした。
「なんとなく良いことがありそう」
このゴミ拾い習慣は中学卒業まで続きました。一種の〝願掛け〟だったのかもしれません。プロ野球選手になりたい、その大きな夢を叶えるための、息子なりの一日一善だったのではないでしょうか。
ランニングを終えて着替えるとすぐに居間へ下りてくるので、私はその足音でタイミングを察知しながら、ささっとテーブルに茶碗と皿を並べていきます。慎太郎が席に着く時には朝食は完璧に並んだ状態で、1秒の無駄もなく「いただきます」と箸を取ればホッと一息。
ご飯を食べている間、彼は無言です。5分であっという間に食べ終わると、「ごちそうさま」と箸を置いてふたたび自室へ。鞄を持って「行ってきます」と6時30分には登校します。
毎朝のことですから、この〝ちびっこアスリート〟ぶりには慣れておりましたが、今思い返せば、少々異常なほど規則正しい毎日でした。一日の時間割がきっちりと決まっており、それを実行しなければ彼は気が済まなかったのです。帰宅すれば1分1秒も無駄にせず、バットを持って近くの空き地へ出ていくと、風呂に入る時間までずっと素振り。私もコーチになった気持ちで時間割をこなしていました。
こんなお話をすると、
「そんなに急がなくても……」
と、読んでくださっているあなたは思うかもしれませんね。でもそう言えばきっと、慎太郎からは「時間がもったいない」と返ってきますよ。
「待ってる時間とか、何もしない時間が凄く嫌。そういう無駄な時間は、ぜんぶ練習にあてたい。そうすれば目標に近づける」
この姿勢は終始一貫、亡くなるまで、変わることはありませんでした。
『栄光のバックホーム』(試し読み)

2025年11月28日に映画『栄光のバックホーム』が、全国上映します。
その原作の試し読みをお届けします!











